忘却への扉

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二つの古里の選択

2013-06-17 | 平和を
 【拓(ひら)く 震災2年 福島からの避難者 富岡・木田節子さん 明暗分けた依存の道 原発で再建もできず】 今年2月末木田さんは避難先の水戸市から6回目の一時帰宅を果たした。
 行動は時間内限定されている。2回目まではできるだけ多くの品を持ち帰ったが、どれも放射性物質汚染されていると気づいてからは持ち帰りを諦めた。
 [家は震災の影響もなく、地震で倒れたタンスなどを片づけさえすれば住める状態。違うのは防護服を着用しなければならないことだけだ。
 庭の空間線量は毎時5マイクロシーベルト程度。地上付近では同10マイクロシーベルトを超える地点もある。身に付けた積算線量計の値も上がった。復興から取り残されていく古里]
 木田さんはもう一つの古里である生まれ故郷の岩手県釜石市に思いをはせた。甚大な津波被害に遭い、商店街も津波で流された。
 89年に誘致話が浮上した高レベル放射性廃棄物の地下研究施設は、動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)が釜石鉱山に設置しようとしたもの。
 しかし「核のごみ捨て場になる危険性がある」として、市の人口の半分以上の3万人超が反対署名するなどし、計画は撤回となった。4か月前に釜石市を訪れた際、当時を振り返りある女性は木田さんにこう伝えた。「津波で流されたが、私らはこの町で再生して生きていける。頑張ってや」
 富岡は原子力に依存する道を選択し、釜石は対照的な道を選んだ。日本原子力発電東海第2原発を抱える東海村民に、木田さんは訴える。
 「釜石は壊滅的被害を受けたが、頑張っていける。富岡は帰りたいが、帰れないところになった。事故を体験しないと分からないのですか」
コメント
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