忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

身近なヒロシマ

2007-05-31 | 平和を
 部屋の写真立てに原爆ドームの前にいる孫の写真を加えた。広島市内に暮らしているので、電車に乗ればすぐの距離に平和記念公園がある。
 先日は宮島で鹿と遊んでいたが、今日は平和公園の木陰のベンチでお食事中のようだ。メールには「使われていたので違うベンチです」とあった。
 写真を見た妻が珍しく「またベンチを新しくする時には、協力できたらいいね」と言う。公園のベンチの一つにあるプレートに、二人の名前が小さく入っている。
 もうそろそろ交換の時期も近づいているのか。先輩孫たちのそのベンチに座ったり原爆ドームの前での写真も、部屋のいつでも見える場所にある。
 私も広島市内に行く時には、平和公園を歩き平和記念資料館に入る。忘れてはならない本物の平和の大切さと、もろさをヒロシマでは見える。
 ヒロシマ・ナガサキを始め国内や諸外国での悲惨な過去さえ、戦争の歯止めにならない世の中のもろさの感覚。孫たちのヒロシマ平和公園の写真を見ながら、非戦の平和を思う。

酒飲みの頃

2007-05-30 | 追憶
 初めて酒を飲んだのは、子供の頃のマムシ酒。病気に良いとお猪口(オチョコ)半分だが、臭いも凄く喉や胸が燃えふらふらになった。
 祖父に父とその周りの人たちと、いい酒飲みを見て育った。私も大人になり酒の席に加わるようになったが、いつも酔いを不安に思っていた。
 あの祖父自家製のマムシ焼酎の記憶か、酒を飲めない母方の気持の遺伝だろうか。宴会でも酔わず青くなる。
 田舎の料理屋が会場だが当時は若者たちの飲み会でも、鼓や三味線を持った着物姿の年増芸者を何人も呼ぶことがあった。
 酒の飲み方を初めて教えてもらったのが、彼女たちや先輩だ。その一つに酒をどれだけ少なく呑むかもあった。
 人に多く呑ませて自分は控えめ、これは返盃があるので上級で私には無理。テーブルの下のお皿にこっそり移したり、布巾などを濡らすとか何人もやっていた。
 酒だから出来たことで、ビールだと量がありすぎる。無理せず楽しくにぎやかに、見て見ぬふりのやさしい気くばりがあった。

夜の鳴き声

2007-05-29 | 日々
 集まりが終わって、一人で薄暗い夜道を歩く。子供の頃に凧上げやボール遊びをした段畑の田んぼは、その後果樹園になっている。
 木々の下や空き地には雑草が生え、その辺りから一斉に驚くほどの虫の音が聞こえて来た。コウロギだ。たくさんのコウロギがあちこちに分かれ虫の音を競っている。
 昔は村の何処ででも聞けた声だが、今ではそれが懐かしく感じる。人が通れば静かになるはずなのに止まらない。
 すぐ側の川の水音さえ聞こえないコウロギの合唱に聞き惚れるが、閉演時間までは付き合えない。残念だがその場を離れた。
 それからしばらくが静かすぎるほど。音に注意していると、遠くから聞こえて来たのはカエルの声だ。カジカガエルをこんなに聞くのも珍しい。滅多に聞ける声でもない。
 家に帰ると庭で数匹コウロギが鳴いていた。それだけで嬉しくなれる。近づくとピタッと静かになり、中に入ると休憩をやめ再び歌い始める。
 途中で向こうの山から、カラスたちの騒ぐ声まで聞こえて来た。夜にこんなにぎやかさがあるのを知らないでいた。

教育されて

2007-05-28 | 平和を
 憲法改正準備法に子供たちの教育や国民のの生活に関する法案や問題でも、詳細な理屈を知らせる必要さえ無いのか。
 国会がその程度の場所になってしまったかのようだ。まあ投票したのは国民だ。どうでもいいと諦めたり無関心の無投票でも支持の内。
 数の力だけで国が動いている。参議院選挙を前にたくさん荷物を片付けた。選挙がすぐ先にあるのに、各駅停車のはずの列車は、乗客に車内アナウンスさえしないまま特急列車で走っている。
 この国は大統領がいたのかと思うほど権限を集中させて頼もしい。強行裁決のニュースを何度も聞いた。時は金なりを見せて貰っても、我々とは別世界。
 参院選を憲法改正が争点と意欲を燃やす安部首相。急ぐのだったらまず与党(自民党)の新憲法案こそ先に国民に問うべきではないか。
 まず与党案で国民が考え、次に野党案も合わせて考える。実質改憲をこれ程すれば、もう実際は憲法改正の必要など無くなったのではないのか。
 各議員の自由に任せて、党内拘束をしないだけでも、アメリカの要望する改憲や戦前へと逆行するような政治に少しは歯止めとなるはずだ。国民全体の幸せなんて望むのは所詮夢だと教育されている。


順不同なのに

2007-05-27 | 共に
 その朝に連絡が入り、午前中の葬儀に参列する。故人との関係は僅かで期間も短いとも言える。だがどこか親しみを感じる人だった。
 会わなくなっても長い年月になるが、最後の別れだけでも顔を見たくなる。祭壇の写真は遠い昔の笑顔の彼だ。
 ずっとその顔を見ていた。式の進行に従って知らずにいた彼の家庭の部分もわかり、遅いがより身近さを感じて来る。
 病気に耐えた日々が長かったせいか、参列者も親族を別にすると少ないように思えた。私は以前の仲間たちと一緒の列にいた。
 葬儀場の前方で司会進行役の女性から、弔電の読み上げが告げられる。前もっての打ち合わせか「なお読み上げは順不同とさせて頂きます」との言葉があった。
 だが実際は電文入りで各議員に市長その他と名士の方々は別扱いで長々続いた。私も過去に担当の人に伝えていた順番が、意に反して議員先生を前に差し替え読まれたことがある。
 儀式を商業にしている場所での、売名行為と割り切るべきなのかもしれないが、故人や本当に見送りたい人の気持が大切な日なのに。


わずかの移動

2007-05-26 | 日々
 もう半年以上パソコンに向かう時は正座でいた。その座り方が好きという訳でもなく、ただそれでも平気なだけ。
 先日ちょっとしたことで、腰にチカッと痛みが走った。なんとか注意しながら保たせている。でもきちんとした正座の姿勢を続けるのは無理もある。
 以前のように椅子にするのも身体は楽だしよいかもと、机の上を片付け始めた。同じ部屋での僅かな移動だ。
 若いころの引っ越しに近い移動や片付け方ではない。ただ右から左に移して、片方の机の上の物を無くした。
 それだけでまるで別の部屋のように感じる。大げさだが気持ちにゆとりができそうだ。こんなことならもっと早くしていれば、とは思ってもまだ机の上が片づいただけ。再度これ以上狭くしないこと。本来、定員一名の部屋ではなかったはず。


そこからの眺め

2007-05-25 | 日々
 犬と一緒に裏山に上がる。木に繋がれることになるのだが、それでも置いてけぼりより家族の近くがいいようだ。
 青空と心地よいそよ風、下の方から木造の新築工事の音が威勢良く響いている。腰を下ろした地面の感触も柔らかい。
 見下ろしている景色を、離れている子供に送りたくなった。珍しくもない場所だが、いつも身近に思っていて欲しい。
 子供たちにも頼んである。孫の写真も成長や表情のアップだけでなく、今いる場所が加われば楽しみが膨らむ。
 不精だから滅多に送らない。親戚や知人に送ろうと、目的を持って写したものさえ残ったまま。せめて子供にはとの思い。
 犬が画面に入らないのと短い文で、送る相手が一人になった。犬の代わりにわが家の屋根は写っている。仕事中だがおそらくマナーモードと、今の眺めを送っておいた。


サイレンを聞いて

2007-05-24 | 平和を
 遠くの町を通る時、サイレンの鳴る音を聞いた。「何、あれは」と後の席から問いがある。サイレンは知っているはずだから、何の合図かということだ
 「12時だからお昼だろ」と答える。「サイレンを聞くと、火事を思ってしまう」と後の席で言葉が返る。
 私の町では火事を知らせるサイレンも、録音のマイク放送となって久しい。火事や災害などは本物のサイレンの方が、気分も引き締まると元消防団員としては思う。
 時報も今では録音のチャイムが放送で流れている。もっとも本物のサイレンを1日7回も聞かされると、騒々しくて我慢できないか。
 私にとってサイレンは火事もそうだが、空襲を感じる。戦時中に空襲注意報や警報の音を聞いた歳でもない。
 だが大人に焼き付いていたサイレンの空襲を報せる恐怖は、子供でもわかる。もう1日2回正午と夕方、他には点検と火事の時だけの音なのに不安があった。平和にはなりきれない音なのだろう。

数十年後の悔い

2007-05-23 | 平和を
 一緒に仕事をしていた人たちから、出兵中の体験をよく聞いた時期があった。彼らが戦ったのは侵略戦争だったと、敗戦後知ったのかどうか。
 戦地の中国や朝鮮半島の人たちを、蔑視する言葉はまだ強く残っていた。二十歳前後の若さで戦争に行った彼らは、戦時中の強烈な記憶を引きずりながら生きていた。
 子供の頃から天皇主権の軍国主義日本で育った。そして一握りの人々だけのために、誰もが命に関わる恐怖を体験した。その奪われた青春が、たとえ戦場でも彼らの人生で一番の思い出だったのだ。
 部隊での日常や戦友の話が多かった。楽しいこと哀しいこと、従軍慰安婦問題も当時の兵隊にとっては軍から与えられる僅かな見返りとの感覚か。
 戦闘での殺傷の戦果や一般住民の虐殺などもあった。他人や他の部隊の行為として話した事件が、実は自分が関わったと後に詳しく聞いたこともある。
 実行してから数十年後でも、隠して済ます気は無かったのだ。あの人たちの辛い悔いを、強引な改憲でこれからの若者たちにまで繰り返しかねない国への不安がある。

まだ花を

2007-05-22 | 日々
 友人から事後報告が入ると、妻は同じことを実行したくなるようだ。いかにも私も積極的賛成派だと位置付けされる。
 特に反論の理由が無ければ、できるだけ行動を共にする。出不精の解消にも、多少は効果があるだろう。いや妻の私への気配りだと思うべきか。
 今回の情報は、高い山にまだ山桜と山ツツジが咲いていたというもの。聞いて数日後の朝急に行くことになったが、まだ咲いているとは半信半疑だった。
 この県のでも一番高い山の近くまで上る。次第に寒さを感じる中で「あの桜見た。花が咲いてたの」とか何回か聞かされた。
 一回は見たような気がした程度の私。急斜面の新緑の広さを眺めていた。尾根の辺りは緑が枯れている色がある。
 それまで見ていた尾根とは逆方向の細い道路を選び、初めての尾根の近くを走る。あちこちにピンクの山ツツジが咲いている。
 生きているのが不思議な岩肌にも花の温もり。桜も確かに咲いていた。クマザサの丘や遠い山々を眺めながら、来てよかったと思った。