カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

インパールのレストラン ~ スプーン ~

2019年02月28日 20時21分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
マニプル州はドライ州である。
ドライ州と言うのはお酒が飲めない州と言う事だ。
現在のところインドではグジャラート州、ビハール州、
マニプル州、ナガランド州ではお酒が飲めない(事になっている)。
グジャラート州ではリカー・パーミットがあれば購入が可能であるが、
ビハール州は持ち込みも禁止である。

マニプル州では軍の施設内では調達が可能との情報があるが、
一般人が行って調達できるかどうかは解らない。
ナガランド州については全く情報がないが、
デリーのナガランド料理のレストランでは提供している。

ケララ州は10年間の段階を経て禁酒州へ移行するらしい。
またモディ首相の政党(BJP)が強いマディヤプラデシュ州と
チャッティスガル州も(媚てるとしか思えないのだが)
禁酒州になるらしい。政権が変われば事情も変わると思うけど。

と言う訳で・・・裏事情は置いといて、
マニプル州は禁酒州なのでお酒の提供はなかった。
(事にしておく。)



この店は宿泊したホテルから徒歩5分程度の所にあり、
ガイドさんが手配してくれたのだが、
スポーツバー(お酒はないけど)みたいだった。

           

住 所:Deulahland stadium road, Imphal, Manipur, India
電 話:91-8971879511
予 算:100Rs~

<食したメニュー>



ポーク、チキン、魚、海老、蟹、チョーメン、フライドライス、
いろいろ食べつくして、な・な・なんとっ!!
一人1000Rs程度だった。インド20州を旅した私の感触だが、
マニプル州はインドで一番物価が安いのかもしれない。

<店内の雰囲気>

ベッカムなどサッカー選手の写真が飾られている。



世界の国旗とともに・・・どう見ても・・・
お酒のボトルにしか見えない物も飾られている。
都合よくピンボケしちゃったけど、飾りかな?



<感想と評価>


            
お酒のつまみにはピーナッツ! インドでは皮つきが普通。


            
スモークド・ポークはインド中華風の味付け。


            
鯉のような・・・魚の唐揚げ。
マニプル州では湖のいけすでいろいろ養殖しているみたい。


            
海老ざんす。海老チリみたいな物にカシューナッツのトッピング。


            
隣のテーブルに蟹があったので注文してみたけど、
残念ながら食べる所は少なかったわね。


            
チキンのグレービー・ソース。
これもインドでよくある味付け。


            
フライドライスはあっさりしていたので、
単独で食べずに他の料理のソースをかけるといい。


            
と言う訳で、フライドライス、プレーン・ライス、
チキンのグレービー・ソース、チョーメンを盛ってみた。

素面(?)で盛り上がる(わけないか?)現地の若者とも交流し、
グループ旅行は楽しかったのだった。
また、現地のガイドさんの案内する所はハズレがないと思った。
 
 評価は◎
      (3段階、◎:おすすめ ○:まぁまぁ ●:う~ん)

■お断り■
 味に関しては、間違いなく主観でしかありません。(100%!)
 同意見・反対意見など、あると思いますが、
 あくまでも、私の味覚に合うかどうかなので、
 気にしないでください。あしからず。

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【インドの城】 ~ カングラ・フォート ~ (インパール) その②。

2019年02月27日 21時21分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
西門を入り真っすぐ進んだ正面には、
狛犬のような動物に守られた宮殿のような物がある。



周りは塀に囲まれている。右側が古い壁で左側が修復された壁。

 

中に入ると土の中に壕のような物があった。
ここに潜んで戦ったのだろうか。

 

この建物の左側(北側)に進んで行く。



まずは1955年までマニプル王国の王だった、
マハラジャ・ボダチャンドラの墓。



その先の左側にはブリンダーバン・チャンドラ寺院がある。



ふと足元を見ると、なにやらたくさんの実が落ちている。
よくみると、イチジクである。頭上には驚くほどに、
たわわに実をつけた枝が見えた。

 

日本のイチジクとは形が違うけど、
種の多さといい正しくイチジクであった。

その奥には使用されていない噴水ショーの噴水と客席。
作ったはいいけど使わない所はインドである。



その奥に進みの右手には考古学博物館があった。
日本軍を迎え撃ったイギリス軍のスリム中将の住まいだった所。

電灯も付ついておらず誰もいなかったが、
ガイドさんがいたので勝手に入って電灯をつけて見学したが、
これといって特に・・・・。

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【インドの城】 ~ カングラ・フォート ~ (インパール) その①。

2019年02月26日 22時36分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパールの中心にあるマニプル王国の王宮跡。
インパール川の土手の東西に塀に囲まれた城があった。
カングラとはマニプリ語(メイテイ語)で「乾いた地」と言う意味。

1891年3月にイギリス軍に攻められ4月に陥落し、
第二次世界大戦ではビルマを追われた連合軍の反攻拠点であった。



東門の左側でチケットを買う。外国人は50Rs(約80円)。

 

敷地は二重の堀に囲まれている。



入ると右側に全く購買意欲が起こらない残念な土産物屋があり、
奥に有料トイレ(10Rs)もある。



左側にはドラゴンボートのような船がある。



その奥はイブドウ・パカングバ寺院。
正装していないと入れないらしい。
メイテイ族の人々にとっては聖地と言う事で、
結婚式の儀式(報告?)などに訪れるらしい。

そのまま通路を進んで行くと立派な建物がある。
王宮かしら?



右側にはヘリポートがあった。



シュリ・シュリ・ゴビンダ・ジー寺院。
マハラジャ・ナラ・シンが1842年に建設したが、
地震で崩壊し1869年にマハラジャ・チャンドラ・キルティが
修復したと言う記載があった。確かに柱だけで屋根がない。



ここまでが城の南側(右側)半分。北側へ続く。

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今日のカレー(No.371) ~センドラ・カフェ~(インパール)

2019年02月25日 21時31分59秒 | カレー / CURRY
インパールの中心部であればそれなりのレストランがあるが、
ちょっと外れると田園と畑と民家の風景であった。
ガイドさんが連れて行ってくれたのは、
市の中心から南に30Kmほど離れた、
ロクタク湖を見渡せる丘の上にあるクラシックグループの
ホテルの敷地にある風光明媚なレストランだった。

           

住 所:Thanga Tongbram Leikai, Ithing Moirang,
    Bishnupur District,Manipur, India
電 話:不明
予 算:不明

<食したメニュー>

マニプル料理は辛いと聞いていたので、
ガイドさんが気を利かせて辛さを控えめにしてくれた。
魚と豆のカレーに得体の知れないふりかけが・・・。

<店内の雰囲気>

ホテル内のレストランであれば恐らく雰囲気も良かったと思うが、
ホテルの反対側にあったレストランの内部はイマイチだった。

<感想と評価>


            
ダール(豆)カレーは緑色であるが、
ノースイースト系の豆カレーにはよく見かける。
緑色の豆を使用しているわけではなく、
青菜を刻んで混ぜてあるので緑色なのである。
豆単独よりも食べやすい気がする。


            
マニプル人は魚を良く食べるようで極めて普通にあるメニュー。
魚は輪切りにされているが鯉のような・・・感じ。
見た感じ油が多いようだが、



            
これが得体の知れないふりかけ。
キャベツやナッツなどが混ざっている。
ちょっと魚臭がしたのでカレーに混ぜるより、
直接ご飯にかけたほうが日本人的には合うと思った。


            
ライスは長ひょろい米だったが、
パラパラではなくスティッキーライスとまではいかないけど、
食べやすかった。


            
コーヒーはコーヒーデイのコーヒーメーカーで入れていた。
ブラックコーヒーはなくカフェラテ。

 評価は◎
      (3段階、◎:おすすめ ○:まぁまぁ ●:う~ん)

■お断り■
 味に関しては、間違いなく主観でしかありません。(100%!)
 同意見・反対意見など、あると思いますが、
 あくまでも、私の味覚に合うかどうかなので、
 気にしないでください。あしからず。

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【インドの宿泊施設】 ~ホテル・クラシック~(インパール)

2019年02月24日 21時10分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
今回の旅行はグループ旅行だったので、
ホテルは予約されていた。

四つ星でインパールで一番良いホテルだそうだ。
クラシックグループのホテルで他に安いホテルはあったのだが、
日本人と言う事で(安全のためであろう)ここを指定された。

朝食付きで税込み3720Rs(約5760円)。
私一人であればこの3分の1程度のホテルにしたと思う。

 
外見も立派。中央が吹き抜けになっていて、
夜は生演奏をしていた。



ツインルームだった。

 

コーヒーセットも完備。
小型の冷蔵庫はあったがスイッチが入らなかった。
インドではよくある事なので気にしない。

  

バスルームも広々としていて、シャワーのみだったが、
アメニティも完備。



通りに面した部屋の窓からの風景・・・。
このホテルがとびぬけて高層で豪華なのがわかる。



朝食はブッフェで洋食、インド料理と揃っていた。
パンが美味しかった。ドーナツも甘さ控えめで柔らかかった。
インドのパンは玉子を使っていない事もあって、
パサパサで不味い物が多いのだけど。

ジャガイモのパコーラとパイナップル、パパイヤ、メロン、
ライチジュース、ストロベリーのヨーグルトはイマイチだった。

 

英字新聞が揃っていた。
マニプル語とかヒンディー語の物もあって良かったのだが、
英語の解る外国人しか泊まらないのかもしれない。



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インパール平和博物館。

2019年02月23日 21時19分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
アランバン氏が自宅裏の納屋の二階で私設博物館を開いているが、
日本大使館が資金を募りレッドヒルの近隣に新しい博物館を建設した。



看板にもある通り建設資金は日本財団の協力による。
一説によると5000万円との事。



上記はアランバン氏の私設博物館に飾られていた、
博物館の建設予定図である。



これが完成した建物。窓が大きくなっている。

まだ中はガラーンとしていた。こんな風に・・・
展示物が入る前の博物館の中を見学する事もなかろうと、
けっこう楽しんだのだった。

 

インパールもさすがはインドで・・・
窓枠とガラスのサイズがピッタリしていなかったのはご愛敬。



入口には花が咲き、近隣の平和記念碑の裏側にある池には、
ボートも浮かべる・・・との事。

 

2019年6月にオープンするとの事で、
恐らく日本大使館や関係機関の方が詰めかけて、
盛大に行われると思われる。

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インパール戦争博物館。

2019年02月22日 21時27分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
今回、私達を案内してくれたのはインパールで生まれ育った、
アランバン氏である。父親がインド軍の将校であった事もあり、
この地で起きた戦争に興味をもっていたらしい。
そして友人たちと少しずつ記録を集め、
戦場に行って兵器や遺品や白骨となった遺体などの調査を行っている。

「戦争を自分達の手できちんと記録し、
遺品などを集めて記念式典を開くべきだ」と考え、
仲間たちと「第2次大戦インパール作戦財団」を設立。
作戦から70周年となる2014年に、
自宅の納屋を整備して私設の資料館を開いた。

 

庭や納屋に無造作に置かれた戦場から収集された物。

 飛行機の残骸

  オートバイ

 

 

 

銃弾や手榴弾はちゃんと処理されているとは思うけど、
生々しい。写真が撮れるのも個人の所有物だから。



レッドヒルの近所に新しく博物館が完成し、
2019年6月頃にはオープンする予定である。
この納屋にある物もそちらへ展示されるかもしれない。

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INA博物館(インパール)。

2019年02月21日 21時26分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパールにはINA(インディアン・ナショナル・アーミー
:インド国民軍)の博物館がある。

INAは大東亜戦争の時に日本軍の支援によって設けられた、
英印軍の捕虜のインド人転向者を中心とした軍隊であった。
モットーは和合、信仰、犠牲。

スバス・チャンドラ・ボースの元、総兵力は4万5千人。
1944年にビルマに移動し「自由インド」「インド解放」をスローガンに、
日本軍とともにインパール作戦に参加した。

門を入った左側にボースの銅像がある。
この地は初めてインド国旗が建てられた場所でもある。

 

警備の兵士のライフル銃を持たせてもらったが、
旧式の木製で無茶苦茶重い・・・・。
これじゃ銃口が上を向かないわ。



その奥に博物館がある。内部は撮影禁止。

 

インド国民軍の博物館なので日本関係の物は少なかった。

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インパール作戦戦没勇士之碑。

2019年02月20日 21時17分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
レッドヒルの「インド平和記念碑」の隣にあるのが、
「インパール作戦戦没勇士之碑」である。

レッドヒルのある場所はロトパチンと言う村であり、
そこの村長さんが自分で慰霊碑を作って慰霊していたそうだ。

 

後から日本人が慰霊碑の側面にいろいろな言葉を付け加えたとの事だ。

 正面

 

敷地内にの左奥にはこの慰霊碑があった。



そして砲身を切り詰めた一式機動47ミリ砲には、
大阪陸軍の文字が刻まれていた。



正面に手向けられた日の丸に新潟県の文字が印刷されていたので、
後から調べた所、高田歩兵第58連隊がコヒマへ進んだ、
佐藤中将の一団に含まれていた事がわかった。



高田は現在の新潟県上越市の事であり、
私の故郷の近くには昔から陸上自衛隊の駐屯地もある。
市内には高田歩兵第58連隊の碑があるとの事で、
帰郷した際に訪れてみるつもりだ。

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レッド・ヒル(インパール)。

2019年02月19日 21時44分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパールの南西17Kmの所にレッド・ヒルと呼ばれる小山がある。
インパール作戦の時に日本軍は2926高地と呼んだ場所は、
ロトパチン村にあり、玉砕した日本兵の血で赤く染まった丘・・・
レッド・ヒルと呼ばれている。



丘の前は普通の道路が通っている。

インパールは平らな盆地で、上の道路を進んだ古戦場跡から、
レッド・ヒルはこのように映る。

 

近づいてみるとこのような感じ。
ここで800名もの日本兵が戦死した。



道路の左側に「インド平和記念碑」が建てられている。

 

この門を入って行くと日本の厚生労働省によって、
平成6年3月25日に建設された記念碑がある。



 

正面にある献花台に持参した果物、水、日本酒、花を供えて、
この地での過酷な戦いで尊い命を失った人々へ祈りを捧げた。



碑の裏手には植樹された桜の木があった。
インパールに散った日本兵に、
せめて満開の桜の花を見せてあげたい。



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インパール作戦。

2019年02月18日 21時47分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インパール作戦は1944年(昭和19年)3月~7月まで行われた、
日本陸軍の軍事作戦である。
ミャンマー(当時ビルマ)・インド間の要衝にあり、
イギリス軍の主要拠点であるインパールを攻撃し、
中国への補給路を断つ目的で行われた。



コヒマ、ディマプル、インパールは赤丸印、
チンドウィン川は青の線、アラカン山脈は緑色の線。

ミャンマーとインドとの国境にあるチンドウィン川は幅600mの大河で、
牛に物資を積んで渡ろうとしたが大半は流されてしまった。
この牛は最終的には食料となるはずだった。

そして川を超えると今度は2000m超のアラカン山脈が立ちはだかる。
平地の牛は山を歩くには適しておらず、
ここでも役に立たなかったのである。

インパール作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、
現在では史上最悪の作戦と呼ばれている。

簡単に言えばそうなるのだが、この作戦を調べていて、
この作戦単独で考えれば確かに大敗を喫したのであるが、
その背景にあるインド独立やイギリスに与えた、
日本と言う国や日本人のイメージまでを考えれば、
単なる敗北ではなく大きな価値(勝ち)があったのではないか?
と思えてくるのだ。

小さな山もろとも吹き飛ばせる弾薬や兵力を持つイギリス軍は、
空から弾薬も食料や物資の補給は可能だった。
日本軍は弾も食料も限りがあり、物資の補給もできず、
どう考えても玉砕するのは解り切っていた事である。

 牟田口中将

この作戦を決行し愚将と言われている牟田口中将だが、
玉砕が解っていながら無謀な作戦を決行したのは何故だろうか?

牟田口中将の命令に背きディマプルに行かず、
コヒマから独断で撤退した佐藤中将はどうだったのか?
(弾薬も食料も補給されず引くしかなかったと言われている。)

 佐藤中将

イギリス軍側の証言からも解るように、
4月6日にナガランド州のコヒマを占領した日本軍が、
その先のディマプルまで迅速(2日で)に進軍していれば、
勝利に終わった可能性が高い。目前で撤退してしまったため、
インパールでの敗戦が決定的になってしまった。

結果的に出撃した日本兵9万人のうち3万9千人が戦死、
4万人が飢えとマラリアや赤痢などの病気の為に、
命を落としてしまった。

調べれば調べるほどいろんな背景や状況、
当事者の声が聞こえてくる。

詳しく書いている方がいらっしゃるので、
関連記事としてリンクを貼っておきますので、
ご覧いただければと思います。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1479.html

この作戦は最初から失敗する要因がたくさんあった、
にも関わらず決行されてしまったのだ。

 ボース

インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが
インド国民軍(INA)を率いて解放を目指し、
1944年ミャンマーに本拠地を移動し、
ミャンマー方面軍司令官の河辺正三中将と出会った。

河辺中将はボースのインド独立にかける意志に感銘を受け、
インパール作戦を強固に推し進めたとも言われている。
インパール作戦ではボースの要求でINA兵士9千人も参加し、
日本軍と一緒に戦っている。

当時INA兵士は4万人いたが、
わずか9千人のみを参加させた理由として、
戦争が終わりインドが独立した時の為に必要だからと、
参加させなかったと言われている。

ボースは1945年8月18日、
台湾から大連に向かう飛行機の離陸時の事故で死亡した。
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺にボースの碑がある。

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【インドの空港】 ~ インパール空港 ~(マニプル)

2019年02月17日 21時15分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
昨年シッキムへ行った時に思ったのは、
ノースイーストは恐らく山岳部で、
似たような地形と文化であろうと。

しかしインパールに着いた時点で、
それが大きな間違いであったと気付いた。
インパールは盆地でアップダウンがなかった。



市内から南8Kmの場所にある。
一応、国際空港であるが・・・定期便はないらしい。
ブータンのドゥルクエアの飛行機があったけど。

正式名はビル・ティケンドラジット国際空港と言い、
マニプル王国の王子で1891年の大英帝国との戦争で死去した、
人物の名前が付けられている。



当然の事ながらインドでは空港や駅、橋は撮影禁止である。
正確に言えば・・・
人物が映っていない建物などの写真は禁止なのかもしれないが。
なので周りのインド人が撮っていない時には止めた方が良い。

 

外国人はこの看板のカウンターでパスポートにスタンプを押され、
名前やら住所やら帰路の便名とかいろいろ記入しなければならない。



案内板は上からマニプリ語、ヒンディー語、
英語の表記になっている。



伝統的舞踊のマニプリはインド4大舞踊の一つである。
(カタカリ、バタラナティアム、カタック、マニプリ。)

 

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インド20州目(マニプル州)の訪問。

2019年02月16日 21時08分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA
インドには29の州がある。
そのうち東北地方にある7つの州をセブン・シスターズと呼んでいる。
それがアッサム州、アルナーチャル・プラデシュ州、トリプラ州、
ナガランド州、マニプル州、ミゾラム州、メガラヤ州である。
そしてシッキム州を加えて8州をノースイーストと呼ぶ。

そこはネパール、中国(チベット)、ブータン、ミャンマー、
バングラデシュと国境を接していたり、
またインドからの分離独立を求める集団がいたりと、
気安く旅行者が立ち入る場所ではない。

長らく外国人の入境は制限制限されていたが、
現在入境許可証(パーニット)が必要なのは、
アルナーチャル・プラデシュ州とシッキム州のみ。
ただし残りの州も入境の際にはパスポートにスタンプが押される。



私は29州のうち19州に行っているが、
ノースイーストではシッキム州にしか行けていない。
情報も少なく英語に堪能でない私が一人で行くには、
不安があるからである。

今回、マニプル州へ行くグループに欠員が出たとお声がかかり、
ピンチヒッターとして行ける事になった。

マニプル州の州都はインパール。(現地の発音ではインファール。)
第二次世界大戦の際のインパール作戦で有名である。
今回は団体旅行と言う事で事前に下調べもせずに行ってしまったが、
ちゃんと調べるべきだったと、ちょっと反省した。

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デリーのカフェ ~ メトロ・カフェ~  (ラジョーリ・ガーデン)

2019年02月15日 21時45分59秒 | デリーNCR / DELHI NCR
ラジョーリ・ガーデンはデリーの西側にある住宅地であるが、
ほとんど行く機会はなかった。

この日・・・ある映画を観ようと思い検索したところ、
上映館の中でこの街が一番近かった事から行ってみた。
メトロ駅から映画館までの道のりで、
朝からやってる店がそもそもなかった事もあり、
結局は灯台下暗しでメトロ駅に戻って来た。
ポップなペインティングで入りやすかった。

           

住 所:Gate no-1, Rajouri Garden Metro Station, New Delhi, India
電 話:91-9873704704
予 算:100Rs~

<食したメニュー>

パラタ・コンボ 129Rs(約200円)
(パラタとシェークのセット)

アールーパラタ単品が69Rsでストロベリー・シェイクが99Rs。
セットで129Rsだからちょっとお得な感じがする。

<店内の雰囲気>

カウンターで注文しお金を払って料理の出来上がりを待つシステム。



<感想と評価>


            
インドの朝食と言えばパラタである。
希望としてはサブジ(野菜カレー)が付いていたら最高だったが、
アチャールがついて来た。パラタにはバターが乗っている。

学生の頃はランチに良くパラタを食べていたが、
最近は食べる機会もなくなり久々に食べたが、
やっぱり朝食はパラタがいいね。

 評価は◎
      (3段階、◎:おすすめ ○:まぁまぁ ●:う~ん)

■お断り■
 味に関しては、間違いなく主観でしかありません。(100%!)
 同意見・反対意見など、あると思いますが、
 あくまでも、私の味覚に合うかどうかなので、
 気にしないでください。あしからず。

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【インド映画】 ~マニカルニカ ~

2019年02月14日 22時00分59秒 | 映画 / MOVIE
実在した人物ジャンシー国の王妃ラクシュミー・バーイーを描いた映画。

まずは場所と登場人物について。
ジャンシーはウッタル・プラデーシュ州の西北部にあり、
マディヤ・プラデーシュ州に囲まれている。
ラクシュミー・バーイーの出生と幼少の頃については、
はっきりとしておらず1835年又は1828年頃に、
没落したマラーター貴族の家に生まれたとされている。

1842年にジャンシーの藩王ガンガーダル・ラーオに嫁ぎ、
王亡きあとインド大反乱(セポイの反乱)の時に
イギリス軍を相手に戦った事から、
「インドのジャンヌ・ダルク」と呼ばれている。



  <ストーリー> 

バラナシで生まれたマニカルニカ(カンガナー・ラーナーウト)は、
幼少の頃から剣術や乗馬の才能があった。
ある日、ジャンシー国の家臣がマニカルニカを見かけ、
藩王ガンガーダル・ラーオ(ジーシュー・セーングプタ)に嫁ぐことになった。



そして名前をラクシュミーと改める。
この時マニカルニカは15歳、ガンガーダルは40歳。
ガンガーダルには子がなくマニカルニカは後妻だった。

ところが1851年に王子が生まれるがすぐに死んでしまい、
その2年後にガンガーダル王も病死してしまう。
ラクシュミー・バーイーは養子をとるが、
イギリスは養子による後継を認めず、
ジャーンシー藩王国を廃止して植民地に併合する。

城を追われたラクシュミー・バーイーは、
1857年5月に勃発したインド大反乱の際、
私財を投じて傭兵を集め、民衆から募った女性を含む義勇軍と共に戦い、
8月にジャンシー城を奪還し立てこもる。

 

 ジャンシー城
 ジャンシー城の銃

イギリス軍の総攻撃に1858年4月に城は陥落し、
ラクシュミー・バーイーは城を脱出する。

 グワリオール城

6月からはマディア・プラデッシュ州のグワリオール城を拠点としたが、
イギリスの大軍による攻撃でラクシュミー・バーイーは狙撃され、
6月18日に戦死した。

1947年インド独立の後、ラクシュミー・バーイーは、
インド大反乱の英雄として各地に銅像が建てられている。
写真を探したのだが見つからなかったので、
後日見つけたらアップする。

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