鶴見五郎の全日本プロレスでの仕事は,ふたつの時期に分けることができます。ひとつはインドの狂虎,上田馬之助とのチームで暴れ回った時代。これを前期と考えれば,後期はラッシャー・木村をリーダーとする国際血盟軍の一員としてファイトした時代になります。年代でいえば1984年の暮れから1988年の秋までです。
この国際血盟軍に参加していたのは,木村と鶴見のほかでは,国際プロレス倒産後に全日本プロレスに入団していたアポロ・菅原,一時期はウルトラセブンというマスクマンでファイトしていた高杉正彦,そして新日本プロレスでは藤波辰巳のライバルの時代もあった剛竜馬といったレスラーたち。ただ,剛や菅原,高杉は馬場が好むプロレススタイルを受け入れることができず,食事の場では公然と反旗を翻すこともあったそうです。このあたりのことを鶴見はインタビューで,馬場に反論するとは驚いたと語っています。こういう事情ですからこの3選手は馬場の配慮を受けることができる筈もなく,1986年の3月に全日本のマットから追放されました。鶴見も少なくとも剛と菅原は全日本では長くはもたないだろうとみていたようで,これは織り込み済みだったでしょう。しかし結果的に国際血盟軍のメンバーは木村と鶴見のふたりだけとなり,馬場をターゲットに戦うことになりました。この時期,馬場と木村はシングルでも何度か対戦していますが,それを除けば日本全国どこへ行っても組まれる試合は木村&鶴見対馬場&○○。馬場のパートナーはマイティ・井上とか百田光雄とか何人かの選手が務めていますが,基本的に連日連夜にわたって同じような試合が組まれていたように思います。
この連戦の過程で,あの有名な木村のマイクパフォーマンスが誕生しました。そしてこのいわばマンネリ化したカード編成は,後の時代の義兄弟軍と悪役商会が,日本中のどこへ行っても試合をするという形に受け継がれていったといえます。木村にとってどうであったかは分かりませんが,鶴見にとってはこの形は不本意なものだったようです。しかし,全日本プロレスにとって,ひとつのエポックメーキングであったことは間違いないと思っています。
9月16日は月に1度のガイドヘルパー。8月に特別に依頼したときにはカラオケに連れていってもらったのですが,この日もカラオケでした。同じような内容が連続するのはどうなのかと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが,妹にとっては,やったことがないことをやるのよりは,楽しめることが続いた方がよいのではないかと思っています。
9月18日の火曜から,9月20日の木曜までは,2泊3日のショートステイでした。前の週に施設の旅行がありましたから,妹にとっては2週連続で外泊があったということになります。
その間,9月19日の水曜日に,I歯科に電話を掛けて,歯科検診の予約を入れました。これまでは予約などは入れずに,飛び込みで行っていて,それでも断られたことは1度もありません。それなのになぜこのときはわざわざ予約をしたのかといいますと,次のような事情があったためです。
この歯科では,検診が終りますと,次の予定が診察券に記入されます。虫歯の治療などが入れば別ですが,クリーニングだけであれば,概ね3ヶ月間隔。したがって通常の場合であれば次回は3ヶ月ほど経過した後ということになります。しかし,少なくとも僕の場合は,3ヶ月後の予定がどうなるかということはほとんど見通しが立ちません。よって具体的な期日は指定されず,単に3ヶ月後とだけ診察券には記入されます。前回のときもそうだったのですが,そのときに,次に来院するときは予約をするようにと仄めかされたのです。これが難しいところで,はっきりそう言われたというわけではありません。しかし僕の理解では,それは予約してから来院するようにという注意であると受け止めるべき内容のことを言われたのです。まあ,予約をすること自体は大変ではありませんし,そうも面倒なことでもありません。なので今回はわざわざ事前に電話をしておいたということです。
このときに電話に出たのはI先生でした。僕としては翌々日にあたる21日が希望日で,その日に診察が可能であるかと尋ねると,大丈夫とのことでした。ということで21日の午前10時に予約を入れてもらいました。
この国際血盟軍に参加していたのは,木村と鶴見のほかでは,国際プロレス倒産後に全日本プロレスに入団していたアポロ・菅原,一時期はウルトラセブンというマスクマンでファイトしていた高杉正彦,そして新日本プロレスでは藤波辰巳のライバルの時代もあった剛竜馬といったレスラーたち。ただ,剛や菅原,高杉は馬場が好むプロレススタイルを受け入れることができず,食事の場では公然と反旗を翻すこともあったそうです。このあたりのことを鶴見はインタビューで,馬場に反論するとは驚いたと語っています。こういう事情ですからこの3選手は馬場の配慮を受けることができる筈もなく,1986年の3月に全日本のマットから追放されました。鶴見も少なくとも剛と菅原は全日本では長くはもたないだろうとみていたようで,これは織り込み済みだったでしょう。しかし結果的に国際血盟軍のメンバーは木村と鶴見のふたりだけとなり,馬場をターゲットに戦うことになりました。この時期,馬場と木村はシングルでも何度か対戦していますが,それを除けば日本全国どこへ行っても組まれる試合は木村&鶴見対馬場&○○。馬場のパートナーはマイティ・井上とか百田光雄とか何人かの選手が務めていますが,基本的に連日連夜にわたって同じような試合が組まれていたように思います。
この連戦の過程で,あの有名な木村のマイクパフォーマンスが誕生しました。そしてこのいわばマンネリ化したカード編成は,後の時代の義兄弟軍と悪役商会が,日本中のどこへ行っても試合をするという形に受け継がれていったといえます。木村にとってどうであったかは分かりませんが,鶴見にとってはこの形は不本意なものだったようです。しかし,全日本プロレスにとって,ひとつのエポックメーキングであったことは間違いないと思っています。
9月16日は月に1度のガイドヘルパー。8月に特別に依頼したときにはカラオケに連れていってもらったのですが,この日もカラオケでした。同じような内容が連続するのはどうなのかと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが,妹にとっては,やったことがないことをやるのよりは,楽しめることが続いた方がよいのではないかと思っています。
9月18日の火曜から,9月20日の木曜までは,2泊3日のショートステイでした。前の週に施設の旅行がありましたから,妹にとっては2週連続で外泊があったということになります。
その間,9月19日の水曜日に,I歯科に電話を掛けて,歯科検診の予約を入れました。これまでは予約などは入れずに,飛び込みで行っていて,それでも断られたことは1度もありません。それなのになぜこのときはわざわざ予約をしたのかといいますと,次のような事情があったためです。
この歯科では,検診が終りますと,次の予定が診察券に記入されます。虫歯の治療などが入れば別ですが,クリーニングだけであれば,概ね3ヶ月間隔。したがって通常の場合であれば次回は3ヶ月ほど経過した後ということになります。しかし,少なくとも僕の場合は,3ヶ月後の予定がどうなるかということはほとんど見通しが立ちません。よって具体的な期日は指定されず,単に3ヶ月後とだけ診察券には記入されます。前回のときもそうだったのですが,そのときに,次に来院するときは予約をするようにと仄めかされたのです。これが難しいところで,はっきりそう言われたというわけではありません。しかし僕の理解では,それは予約してから来院するようにという注意であると受け止めるべき内容のことを言われたのです。まあ,予約をすること自体は大変ではありませんし,そうも面倒なことでもありません。なので今回はわざわざ事前に電話をしておいたということです。
このときに電話に出たのはI先生でした。僕としては翌々日にあたる21日が希望日で,その日に診察が可能であるかと尋ねると,大丈夫とのことでした。ということで21日の午前10時に予約を入れてもらいました。
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