スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

金の無心&診断

2010-07-21 11:09:25 | 歌・小説
 夏目漱石の小説において,作品の中で金の無心をする登場人物としては,『道草』の島田というのは無視することができない存在であると思います。ただ,小林と平岡が同一のタイプの登場人物であるというように,このうちに島田を加えるのは僕にはどこか違和感があるのです。といいますのも,『道草』というのは一種の自伝的小説という色彩が濃く表れていまして,少なくとも小説のストーリー自体に関してはかなりの程度まで創作であると明言できる漱石のほかの小説とは一線を画している部分があるように僕には感じられるからです。
                         
 『道草』の主人公は健三という人物で,島田というのは健三の養父にあたります。養父であるわけですから,島田が健三に対して金の無心をすることには,一定の理由があると言えるでしょう。事実,健三自身が『道草』において,そのような主旨のことをいっています。
 漱石は幼い頃に塩原家に養子に出され,後に夏目家に復籍したという経験を持っています。そして実際に後に養父から金の無心をされ,支払ったという経験もあるようです。すなわち健三というのは漱石自身のことであり,島田というのは塩原であると考えることができるわけです。小説を書かれた順に並べれば,まず平岡が登場する『それから』があり,いくらかの間をおいて『道草』が書かれ,その直後に社会主義者といわれる小林が登場する未完の『明暗』があります。しかし,だから島田について書いているときの漱石が,平岡について念頭に置いていたとは考えづらく,あくまでも塩原をモデルにしたといえると思うのです。
 もちろん漱石が平岡や小林にそれぞれの小説の中で金の無心をさせるとき,漱石の自分自身の経験,すなわち塩原のことが脳裏をよぎらなかったといえばそんなことはないようにも思います。それでも島田には塩原というはっきりとしたモデルが実在したという点で,僕はこの意味での『明暗』における小林の前身というのは,あくまでも『それから』の平岡なのであって,『道草』の島田ではないような気がするのです。

 診察といってもいつもは大した内容もないのですが,さすがにこの日は違いました。まずМ先生は,僕の日々の血糖値測定の結果を記入した自己管理ノートを見ました。といってこれはいつも見るわけですが,この日はとくに熟視したわけです。そして僕が最初に言ったように,朝の血糖値が,前日の就寝前の血糖値に比べてほとんど低下していないということを確かめました。僕は強化インスリン療法,すなわちインスリンの種類でいえば,超速効型のインスリンを食前に,そして持続効果型のインスリンを1日に1度注射していたわけですが,このように朝になっても前夜に対して血糖値が低下していないのは,持続効果型のインスリンの効果が薄くなっているからであるという診断を下しました。
 僕は持続効果型のインスリン,製品名でいえばランタスに関しては,夕食前に0.04mlの注射をこの時点ではしていました。これは退院した直後からずっと変わっていません。実はこの0.04mlというのは,インスリン療法をしている糖尿病患者が打たなければいけない注射の量としては最低です。シックデイなどで食事が不可能なときでも,これは必ず打たなければならないとされている量なのです。したがってМ先生の話では,ランタスの0.04mlの注射というのは,Ⅰ型糖尿病の患者が注射する量としては元来がかなり少なめであるということでした。
 これはすでにお話ししましたが,人体から分泌されるインスリンというホルモンには,食後に血糖値が上昇してきたときに分泌されるもののほかに,常に分泌されているものとがあります。僕はⅠ型糖尿病とはいっても,完全にインスリンが分泌されなくなっているというわけではなく,この後者のタイプのインスリンに関しては,十分ではないけれどもある程度は分泌されていたのでしょう。そしてその分泌される量というのが,この期間,すなわち前回の通院時と今回の通院時との間,もっと時期を限定するなら2月の中旬あたりで減ったのだろうというのが,М先生の判断でした。分泌されるインスリンの量が減少すれば,血糖値がそれだけ下がらなくなるわけですから,確かにこの説明というのは,第一部公理三に則したきわめて合理的なものであるように僕にも思えました。そして最後に,こういうことはⅠ型糖尿病の長期的な診察の過程においてはよくあることであるという意味のことを言いました。
コメント
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