スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

久留米記念&身体の表象

2009-06-14 19:04:41 | 競輪
 高松宮記念杯競輪まで中3日という微妙な日程となった久留米記念。今日が決勝でした。
 和田圭ー菅田ー竹内ー谷津田の北日本,矢口に紫原,川村ー笠松の近畿中部で和田健太郎が単騎。Sを取ったのは笠松で川村の前受け。3番手に矢口,5番手に和田圭で和田健太郎は最後尾。残り2周のホームから和田圭の上昇を矢口が一旦は牽制。内を上がった和田健太郎が川村ラインの3番手にスイッチするとバックから和田圭が発進。しかし打鐘で川村が併せきって突っ張り先行。和田健太郎の後ろに竹内が入り,その後ろを内の矢口と外の菅田で取り合い。バックから菅田が自力発進。後ろの紫原がマークしきれず,4番手の竹内がうまくスイッチ。この2車で捲りきって後ろを離して直線勝負。粘った菅田が1着でよく迫るも及ばず竹内が2着。3着は紫原でした。
 優勝した宮城の菅田壱道(かずみち)選手はこれが初の記念競輪優勝。冒頭に記した理由でここは記念競輪としてはやや低レベルの上,手厚かった九州勢が次々と脱落し,少し恵まれた部分はあります。北日本4車の連係ははっきり失敗でしたが,うまく自力を出す展開になったのが最大の勝因でしょう。

 僕が,自分の口の中が乾いたと認識すること,こうした認識cognitioをスピノザの哲学の中で何というか,あるいは僕がスピノザの哲学について考える上で何といっているのかといえば,これは表象の種類のうちの知覚であり,とくに自分自身の身体corpusの知覚,あるいはもっと厳密に,自分の身体というのをその全体であると考えるならば,自分の身体を構成ないしは組織しているある一部分に関する知覚であるということになります。もちろんこうした知覚というのは僕だけに特有のものではなくて,人間ならだれしも経験するものであるといっていいでしょう。
 次に,表象imaginatioというのは混乱した観念idea inadaequata,この場合には自分の身体に関係する知覚の観念なので,第二部定理二七により混乱した観念であるということになりますが,この点にはここでは注目しません。さらにこの知覚は観念ですから,第二部定理九によってその原因は別の観念であるわけですけど,この点もここでは重視しません。大事なのは,僕たちが自分自身の身体についてこのように知覚するということであり,かつそれを自分自身の身体に関しての知覚であると意識するという点です。
 そこで今度は知覚という観念を離れ,知覚された自分の身体における現象という観点から考えます。つまり,思惟の属性Cogitationis attributumにおいて考えるconcipereのではなく,延長の属性Extensionis attributumの下で考えるのです。すると第一部公理三は一般的な公理Axioma,すなわち対象が思惟の属性であろうと延長の属性であろうと成立しますから,やはり人間の身体に何らかの結果が生じるためには,それが生じるだけの必然的原因があるということになります。僕はここのところに僕たちが帰納法的思考に陥る理由があると思うのです。
コメント
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