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「青春18きっぷ」花の旅 北海道 index

2019-10-27 18:56:55 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

「花の旅」 総合目次 

「青春18きっぷ」花の旅 北海道 index

 

 1   青春18きっぷで北海道へ旅立つ   (上野発5時13分の普通列車で高崎へ)

 2   国境の長いトンネル   (高崎から新清水トンネル)

 3   駒子のイメージに重なる   (清水トンネルを抜けて六日町へ)

 4   魚野川の恵み   (六日町から魚野川に沿って小千谷、長岡へ)

 5   新潟県は人口が日本一だったことがある   (長岡を出て新潟で白新線に乗る)

 6   村上で駅の周囲を散策   (待ち時間を利用して村上市街を散策しました)

 7   新潟県から山形県へ   (村上から日本海沿いをはしり、鼠が関で山形県へ)

 8   こばと(小波渡)という名の駅   (初めて見た駅名のことなど)

 9   最上川河口の街 酒田    (鶴岡や酒田の街も大変興味深い)

 10  荒野への憧れがあったあの頃   (日本海に浮かぶ飛島が見えていました)

 11  秋田での大きな勘違い   (秋田が40年前の記憶と異なるのは当り前)

 12  「北海道&東日本パス」は便利です   (秋田~青森、+フリー 切符の紹介など)

 13  徒歩で青森フェリー埠頭へ   (青森駅から徒歩でフェリー埠頭へ)

 14  青森埠頭・函館埠頭へのアクセス   (青森、函館埠頭へのアクセス情報)

 15  北海道の旅が始まる   (北海道に上陸、五稜郭駅から函館へ)

 16  大沼公園を散策   (予定を変えて、大沼公園を散策しました)

 17  風が爽やかな大沼公園   (大沼公園で木や花を楽しみました)

 18  噴火湾に沿って長万部へ   (大沼公園から噴火湾に沿って長万部へ)

 19  長万部を散策   (長万部の街で雑草を楽しく眺め歩きました)

 20  函館本線の旅    (長万部から函館本線で、札幌、旭川を目指します) 

 21  大雪山黒岳を目指して   (旭川から、大雪山黒岳に登ります)

 22  黒岳の懐かしい花々   (独身の頃に登った黒岳の懐かしい花々) 

 23  黒岳の頂きへ   (黒岳ピークへの道は昔のままです)

 24  黒岳の短い夏と秋   (山の上では、8月下旬に紅葉が始まっていました)

 25  実は、黒岳に来たわけは   (黒岳でハイマツやクマザサを観察しました)

 26  旭川発 稚内行き普通列車の旅   (旭川から、日帰りで稚内を目指します)

 27  気動車は青春通学列車と化す   (朝の普通列車は、高校生の大切な足です)

 28  北海道へ来たな~と思わせる風景   (オオイタドリは北海道のイメージ)

 29  一両編成の列車で北へ   (名寄で一両編成となった列車は北へ向かいます)

 30  北海道を旅する感慨に浸る   (美深を過ぎ、北海道らしい景色が広がります)

 31  車窓から天塩川の風景を楽しむ   (音威子府から先は天塩川に沿って)

 32  宗谷線の秘境駅     (スチール製の物置を駅舎に使う秘境駅)

 33  動物写真家 富士元寿彦さんが暮らす街   (幌延に定住した動物写真家)

 34  宗谷線は車掌車駅舎の宝庫   (貨物列車の車掌車が駅舎に転用されています)

 35  終着駅稚内   (旭川から普通列車で6時間かけて稚内に到着しました)

 36  稚内市北方植物園を訪ねる   (日本最北の稚内市植物園を訪ねました)

 37  クズのない線路脇   (帰路に、線路際にクズがないことに気付きました)

 38  クズの北限   (クズの北限は留萌と襟裳岬を結ぶ線上にあるようです)

 39  最長距離をはしる鈍行列車の記憶   (秋田から奥羽本線を経由します)

 40  今度は青春18きっぷを使って何をしよう   (何をするにも健康第一)

 

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今度は青春18きっぷを使って何をしよう 

2019-10-19 00:08:29 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 新庄で乗り継ぐ山形行きは14時18分に発車します。


 待ち時間が1時間22分ありました。


 この街で昼食を摂ろうと思い、新庄駅を外に出ました。



 

 しかし、信号一つ程駅から離れると、店が殆ど見当たらなくなり、生憎の小雨模様もあって再度駅に戻り、駅舎に併設された蕎麦屋の暖簾をくぐりました。


 私は、蕎麦屋へ入れば、いつもざるを注文します。


 山形の蕎麦もなかなかなので、蕎麦以外に余計なものはいりません。

 



 そして、車を運転している時以外は、これ。



 

 山形も全国に名を轟かせた名酒が沢山ありますが、今回は「初孫」。


 「初孫」は全てが生酛造りです。


 すっきりした飲み口の酒が胃に染みました。

 



 ゆったりと昼食を済ませ、駅のコンコースへ戻ると、「川西町若連」と表示された人形が飾られていました。

 


 どうやらこれは、昨年の新庄まつりに使われた山車で、毎年数多く作られる山車の中から、一番人気の作品が駅のコンコースに飾られるそうです。


 ウィキペディアによれば、1756年(宝暦6年)に始まった新庄まつりは、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録されたそうです。


 新庄から、山形線の普通電車で山形へ向かいました。

 



 電車の座席はロングシートでした。


 このスタイルの車両が走っているのは、利用者が多い証で、この地域で鉄道が一定の機能を果たしていることが分かります。


 鉄道ファンの一人として心安らぐ光景ですが、青春18きっぷの旅人とすれば、日常的すぎて、ちょっと味気無い感じがします。

 



 新庄から山形の間も、緑の田が車窓に続きました。

 



 山形へ15時32分に終着しました。


 乗り継ぐ米沢行きは16時31分発なので、待ち時間は59分あります。

 



 駅周辺を見回し、一番背の高いビルへ足を運びました。


 10年程前に山形新幹線で東京から仕事で来た筈ですが、このビルを見た記憶がありません。


 多分、駅周辺を見渡す時間も、気持ちの余裕も無かったのでしょう。

 


 ビルは霞城セントラルという名で、2001年にオープンした複合施設だそうです。


 最上階の無料展望ロビーへ上ってみました。



 

 昨年ヒガンバナの旅で訪ねた霞城公園が眼下に見渡せました。


 その時、公園管理事務所の方にご案内頂いたスズカケノキを再確認することができました。

 

 

 展望ロビーの南向きの窓から、ヒガンバナの咲く城山を望むこともできました。

 

 

 ちなみに、霞城セントラル展望ロビーの利用時間は朝7時から夜の23時までだそうです。


 この展望ロビーは一見の価値があります。


 山形を訪ねたら、ここに来ないと勿体ないですよ。

 



 この後私は山形駅で、米沢行きの電車に乗り、


 米沢で福島行きに乗り換え、新白河、黒磯、宇都宮、赤羽と電車を乗り継いで、自宅の最寄り駅からタクシーを使って玄関に辿り着いた時は日付が変わっていました。

 

 今回は「花の旅」として初めて鉄道を使いましたが、今回の旅も収穫の多い、思い出深い旅となりました。

 

 しかし、最後は喘息症状に苦しみ、階段を上る時など息切れに悩まされました。

 

 花の旅を楽しめるのも健康であればこそです。

 

 そして、ブログを書き終えて思うのは、今回の旅が、自分の人生の多くを投影した旅になったことです。


 旅を始める前は、そのような意図は全く無かったのですが、ま~ 文は人なりと言いますから、文章を書けば、全てが露わになるのは当然かもしれません。

 

 希望を含め人生100年、今まで以上に健康に留意し、授かりものの命を楽しみながら、これからも悔いのない日々を過ごしてゆきたいものです。

 

 ブログを書き終えた今、次に青春18きっぷを使って何をしようか思案中です。

 

 今回も、ご愛読本当にありがとうございました。


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最長距離をはしる鈍行列車の記憶

2019-10-18 16:29:58 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 青函フェリーで夜中の津軽海峡を渡り、フエリーが着くと、夜明け前の道を、青森埠頭ターミナルから青森駅まで歩きました。

 


 

 しかし、朝の4時頃に青森駅へ着くと、

 

 

 

 駅舎はドアが閉じられ、5時20まで中に入れないことが分りました。

 

 よかった夏で! 冬なら凍え死んでいたかもしれません。

 


 

 駅前のコンビニでホットコーヒーを買い求め、駅舎前の石のベンチに座り、ドアが開くのを待ちました。

 

 そういえば、私が青森駅を利用するのは青函連絡船が運行されていた時以来かもしれません。

 

 あの頃の青森駅は、夜間でも絶え間なくフェリーが発着し、駅舎が閉ざされることはなかったのです。

 

 リンゴ色の帯が印象的な弘前行きの普通列車は、5時46分に青森駅を発車しました。

 


 

 列車はリンゴ畑の中を進みます。

 


 

 弘前で秋田行きの快速に乗り継ぎました。

 

 列車は小雨模様の、木立に囲まれた線路を走り、視界は優れません。

 

 そして1時間程の後、東能代に列車が停車したとき、私はホームに掲げられた「檜山城址と北限の茶畑 能代」の掲示物を見て驚きました。

 

 実はこの掲示を見るまで、私は茶畑の北限は岩手県の大船渡辺りだと思い込んでいたのです。

 

 いつものように「能代 茶畑」で検索してヒットしたページに、

 

 「300年ほど前の江戸時代中期に栽培が始まった秋田県能代市の檜山茶」という記述を見つけました。

 

 江戸時代から、檜山地域には、武士の製茶として茶栽培が根付いた歴史があるのだそうです。

 

 そういえば、能登半島がツバキ自生の北限と言われますので、この辺りに同じツバキ科の茶畑があっても不思議ではありません。

 

 追記:茶の北限に関するその後の調査で、青森県黒石市に自家消費用に茶が

    栽培されているそうです。

    また、北海道積丹半島の古平町禅源寺に茶の木が栽培されているそ

    うです。(2021年7月に禅源寺を訪ね、確認してきました

 

 それにつけても思うのは、千利休の影響の大きさです。

 

 彼によって日本に茶道が確立されなければ、この地で武士が育てる茶畑は無かったかもしれません。

 


 

 列車は八郎潟周辺でゲリラ豪雨の影響を受け、1時間程遅れて秋田駅に到着しました。

 


 

 秋田で無事に、10時16分発の奥羽本線新庄行きに乗り換えました。

 

 奥羽本線を利用するのは、50年程前の学生時代に周遊キップを使って、青森から上野行き鈍行直通列車に乗車して以来のことです。

 

 この鈍行列車は、その当時に最長距離(756.8km)を運行する鈍行列車だった記憶があります。

 

 車体中央に運転席が設けられたジーゼル機関車に牽かれた、木製座席の茶褐色の客車の最後尾に座り、客車出入口の引き戸の窓ガラス越しに、過ぎ去る線路を眺め続けた記憶が蘇りました。

 

 電車は小雨がぱらつく空模様の下、車窓に広がる広大な田の中を走り続け、

 


 

 秋田山形県境の雄勝峠へと上ってゆきます。

 

 周囲に秋田杉の林が連なりました。

 


 

 峠を越えると、電車は及位駅に停車しました。

 

 駅名の及位は「のぞき」と読みます。

 

 無人駅の周囲はクズや雑草に覆われていました。

 

 この地名の由来は、近くの女甑山(めこしきやま)の険しい断崖の途中に女陰のような「赤穴」があり、修行者が崖に宙づりとなって赤穴に安置された秘仏を拝む命がけの荒行を修めると、高い行者の「位」を得ることができたからだそうです。

 この行に「及第」した行者の位は「及位」と書いて「のぞき」と呼ぶようになり、やがて女甑山付近も「及位」と呼ばれるようになったのだそうです。

 


 

 そして秋田から奥羽本線を走り続けて来た電車は、12時56分に山形新幹線が停まる新庄駅に到着しました。

 

 

 

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クズの北限

2019-10-16 19:40:45 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 列車は14時15分に苫小牧駅に終着しました。

 

 私は35分の乗り継ぎ時間を利用して駅周辺を散策しました。

 

 2015年の自転車旅で来た時に営業していた、駅併設のショッピングセンターはシャッターを閉ざしていました。

 

 あの時は私も、食料の買い出しを、駅から離れた、大きな駐車場があるイオンで行った記憶があります。

 

 北海道に限りませんが、大都市に暮らす人々以外、日々の移動手段は車に頼る生活となっています。

 

 鉄道は、車を運転できない高校生や、中長距離移動、あるいはスイスアルプスの観光列車のような業態で存続することになるのでしょうか。

 

 東室蘭行き普通列車は苫小牧駅を14時49分に発車しました。

 


 

 電車は淡々と海岸線を走り続け、1時間7分後に東室蘭駅に到着しました。

 

 この駅でも、21分の接続時間に駅周辺を散策しました。

 

 初めての街に来ると好奇心が疼き、じっとしてはいられないのです。

 


 

 しかしこれが災いして、東室蘭16時17分発の長万部行き普通列車に乗ると、席は既に地元の高校生達で埋め尽くされていました。

 

 今回の旅で、席に座れなかったのはこの時だけですが、実はこの頃、持病の喘息が悪化し、息切れが酷かったのですが、巡り合わせが悪い時とはそんなものです。

 


 

 幸いにも、一駅二駅と列車が進むほどに高校生が下車してゆき、北船岡を過ぎた辺りで席を得ることができました。

 

 席に座って景色を眺めていると、豊浦辺りから車窓にツルを伸ばしたクズらしき植物が見え始めました。

 

 私は確証が得たく、クズらしきものに向かって、車窓から何度もシャッターを押し続けました。

 

 大岸付近を走行中に写したのが以下の写真ですが、クズにほぼ間違いはなさそうです。

 

 

 

 この辺りは積雪量が少なく、北海道としては気候も温暖だったはずで、日本のクズの北限はこの辺りだろうかと考えました。

 

 記事を書きながら、ネットで「クズ 北限」を検索すると、ヒットした、

 

 草と緑 2:36-41(2010)「クズ(Pueraria lobate Ohwi)」  伊藤操子(NPO法人防草緑化技術研究所)には、

 

 「北限はほぼ留萌市と襟裳岬を結ぶ線にあるといわれている」と記され、

 

 更に、「葛の話シリーズ第五十五話」 2013.06.01 津川 兵衛 に、

 

 「日本の植生学者によると、クズの分布北限は北海道の留萌と十勝支庁の広尾を結ぶ線であるとされてきた。

 勿論、北海道の内陸部の山岳地帯は冬季は極寒の地であるから、クズは生存できない。クズの分布域は沿岸部に限られる。

 クズの北限は留萌と十勝支庁の広尾を結ぶ線よりかなり北上するよう」と記されていました。

 

 ひと昔前であれば、図書館を巡り歩いて調査すべき情報を瞬時に得ることができたのです。

 

 いやはや、何とも便利な世の中になったものです。

 

 ま、それはそれとして、今度北海道に来たら、クズを探しながら、留萌の海岸線を北上したいと思います。

 

 そんなふうに、車窓の景色を楽しみながら、列車はやがて長万部に到着しました。

 


 

 そして長万部で、函館行き普通列車に乗り継ぎました。

 

 長万部を18時15分に発車した気動車からは、国縫駅に灯る灯りが見えていました。

 

 日が暮れてゆくなかを、気動車は噴火湾に沿って南下を続けます。

 


 

 やがて夜の帳に包まれた21時22分、私は五稜郭で列車を降り、夜道を歩いて青函フェリー埠頭へと向かいました。

 

 

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クズのない線路脇

2019-10-15 15:52:44 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 旭川から稚内を往復した翌朝、私は明るい陽射しを浴びる旭川駅エントランスで周囲を眺めていました。

 

 1975年からの6年間をこの街で暮らしましたが、駅の周囲はその頃が思い出せない程に変わっていました。

 

 竜宮城から戻った浦島太郎は、きっとこんな気分だったに違いありません。

 


 

 何よりも、線路が高架となり、駅裏へ駅裏へ抜けられます。

 


 

 駅裏は川の岸辺が整備されて、緑豊かな公園が設けられていました。

 

 数年前に自転車旅などで旭川を通過した時、線路が高架に変わったことや、駅が改築されたことは認識していたのですが、それを見る為にわざわざ駅に来ることはなかったので、この変化は新鮮でした。

 


 

 今回は、青春18きっぷで普通列車を乗り継いで北海道に渡り、旭川を起点に大雪山の黒岳に登り、稚内を訪ねました。

 

 今日は旭川駅から二日掛けて、再びあの東京の人込みの中へ戻る旅が始まります。

 

 東京に辿り着くのは明日の夜中で、自宅へ戻るのは夜半を過ぎるはずです。

 

 滝川行き普通列車で、10時34分に旭川駅を出発しました。

 


 

 旭川に来たとき、夜の闇に紛れ見えなかった石狩川を渡ります。

 

 次回、川の街旭川を訪ねるのも、そう遠い先のことではないはずです。

 


 

 電車が妹背牛に停車すると、車窓にオオイタドリが白い花を茂らせていました。

 

 オオイタドリは私に、北海道へ来たことを実感させ、この光景に愛着を覚える程です。

 


 

 田園風景の中を電車は走り続けました。

 


 

 滝川で電車を乗り継ぎ、

 


 

 岩見沢へ12時17分に到着しました。

 


 

 一旦駅舎を出て、駅に近いうどん屋で昼食を摂り、12時52分発の苫小牧行き普通列車に乗り継ぎました。

 


 

 一両編成のジーゼル車は、線路脇をオオハンゴンソウが黄色に染める長閑な景色の中を走り続けます。

 

 この様子を見て私は、本州の山間部の線路は、周囲をクズで覆われるのに、この辺りではクズが見られないことに気付きました。

 

 ほっほ~、これは面白い、青春18きっぷ花の旅の新しいテーマを見つけたぞ。

 

 ありふれた車窓の景色の中に新たなテーマを見つけ、のんびり走る普通電車の旅も退屈している暇はありません。

 

 

 

  参考:線路脇の茂みを覆うクズ【JR奥羽本線 山形県 及位(のぞき)駅】

 

 

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稚内市北方植物園を訪ねる

2019-10-11 00:39:17 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 稚内駅は、記憶していた駅と大きく異なっていました。

 

 そもそも線路が一線しかなく、ホームも一つしかありません。

 

 稚内駅に到着した列車が発車するまで、他の列車は駅に入れないことになります。

 

 多分、札幌から来た特急列車は折り返し時間が来るまで、隣の南稚内に待機するのでしょうが、初めてホームに降り立った時はちょっとビックリしました。

 

 この駅の構造は、稚内駅に入る列車本数が、その程度のものと見定めていることになります。

 


 

 改札口に近づくと、「日本最北端の駅 北緯45度25分03秒」 の表示が目に入りました。

 


 

 改札口を出ると

 

 再北端の線路 最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。

 指宿枕崎線 西大山駅 昭和35年3.22開駅

 宗谷本線 稚内駅 昭和3.12.26開駅

 

 の掲示がガラス窓越しに見えました。

 


 

 駅舎全体がすっかり変わり、駅舎の外に、多分稚内埠頭へ伸びていた線路が保存されていました。

 

 

 ところで、私が旭川へ戻る列車の発車時間は18時4分です。

 

 それまでの約6時間を稚内でどう過ごすかを考えていました。

 

 始めて稚内へ来た人であれば、バスやレンタカーで宗谷岬などを訪ねれば、程良い時間が過ごせますが、私は何度もこの地に来ていますので、今更宗谷岬を訪ねる気にはなれません。

 

 そこで、稚内市北方植物園を訪ねて植物を観察し、残り時間を市内散策に充てることにしました。

 

 稚内市北方植物園は日本最北端の植物園の一つで、平成19年以降、NPO法人稚内山野草同好会によって維持管理がなされています。

 


 

 礼文島に礼文町高山植物園があり、日本で植物園と名が付く施設で最北端に位置するのは、多分礼文町高山植物園(2020年に訪ねることができました)ですが、グーグルマップ等で確認してもその差は僅かです。

 

 稚内市北方植物園は植物を愛しむ稚内市民の熱意を感じさせます。

 

 以前から状況を気にしていたので、今回も再優先で訪ねることにしました

 

 稚内市北方植物園は稚内市街を見下ろす丘に設けられた、稚内公園内の開基百年記念塔の付属施設です。

 

 稚内市北方植物園を訪ねるときは、百年記念塔を目印として、稚内公園への道を登ります。

 

 

 稚内市北方植物園の開園期間は4月下旬から11月上旬ごろまで、入園無料で、出入り自由です。

 

 今回は時間がたっぷりありますから、駅から徒歩で植物園を目指すことにしました。

 

 多くの場合はタクシー利用で、稚内駅から約10分、料金は1200円程度のようです。

 

 駅から40分程かけて百年記念塔が建つ丘に登り、稚内港の要に建つ白いサフィールホテル(旧ANAホテル)をアクセントに、日本最北端の大海原の景色を楽しみました。

 

 サフィールホテルの右下辺りに稚内駅が見えていました。

 

 

 視線を東へ移すと南稚内の市街が広がり、晴れた日であれば、北にサハリンが望めますので、初めて稚内を訪ねたならば、稚内公園に足を運ばなければ悔いを残すことになります。

 


 

 稚内市北方植物園内の散策路を巡りました。

 

 利尻礼文の庭にごろごろとした岩が並べられていました。

 


 

 この植物園の岩は、今は持ち出し禁止となった、利尻島の貴重な火山岩で、利尻島や礼文島固有種の生育に適した環境を整ます。

 


 

 既に花を終えたレブンウスユキソウが薄緑色の葉を茂らせていました。

 


 

 初めて見る花が咲いていました。

 

 シュムシュノコギリソウは千島、利尻、礼文などの寒冷地に育ち、7月~8月に花を咲かせます。

 

 シュムシュノコギリソウは千島列島南端の占守(シュムシュ)島で発見された多年草です。

 

 白く咲く花に気品を感じさせます。

 

 

 シコタンハコベは本州中部~北海道の亜高山、高山に分布しますが、北方領土の色丹(シコタン)で最初に発見されたことが名の由来です。

 

 

 カタオカソウは千島列島固有種のオキナグサの一種で、花が咲くまでに数年かかると言われます。

 

 カメラが安価なコンパクトデジカメなので、ピントが合っていないのが悔やまれます。

 


 

 ヒマラヤトラノオは中国雲南省からヒマラヤにかけて分布する高山植物で、日本では限られた施設でしか目にすることができない植物です。

 


 

 などなどですが、既に今回は花の季節が終わりかけていますので、今度は7月上旬ごろに、利尻礼文を含め、花の最盛期に再訪したいと願っています。

 

 

 そして私はこの夜、稚内発の普通列車を名寄で乗り継ぎ、23時39分に旭川駅に降り立ち、宗谷本線の長い旅の一日を終えました。

 

 

 

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終着駅稚内

2019-10-10 02:25:25 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 列車は勇知駅に停まりました。


 私は相変わらず左側の席に座ったままで、右側に接したホームと駅舎は見ていません。


 鉄道の旅が好きで、青春18きっぷを使って、はるばる東京から勇知まで鈍行列車で旅してきましたが、駅や駅舎を見るのが今回の旅の目的ではありません。


 何に興味があるかと言えば、やはり花と木。


 私は車窓から、勇知駅の横に育つヤナギ科の木を見ていました。


 葉の様子などから、ネコヤナギだろうか、エゾノカワヤナギだろうかと考えながらシャッターを押しましたが、勿論車窓から離れ見て判断できるようなものではありません。


 それより何より、ヤナギ科の木の多くは水辺に育ちますので、勇知駅の横に水の流れを予想しました。


 勇知という地名もアイヌ語の「それ(蛇)・多い」を意味するイオッイ(イオチ)に由来するそうで、湿気の多い場所であることに間違いはなさそうです。

 


 勇知に続いて列車は、稚内の二つ手前の抜海駅に停車しました。


 駅の名所案内に「抜海岩陰住居跡」「天然お花畑」と記されています。


 「抜海岩陰住居跡」は、抜海漁港すぐ後ろの高さ30m程の小山で、大岩が小岩を背負ったように見えるそうです。


 抜海の地名も、この岩の形から「子を背負う・もの」を意味するパッカイ・ペに由来しますが、この岩の下に海食洞があり、発掘調査でオホーツク土器や擦文式土器、続縄文式土器などが確認されています。


 「天然のお花畑」は説明不要ですが、初夏の頃、この辺りの海岸を飾る草花は本当に可憐です。



 

 列車が抜海駅を発車した瞬間、駅舎が見せるレトロな雰囲気に気付いて、慌ててカメラのシャッターを押しました。

 

 抜海駅駅舎は大正13年(1924年)の開業時に建てられたものそのままで、写真を見直すと、サッシではない窓枠や、手動式のガラス張り引き戸などに、哀愁にも似た感情が沸いてきます。


 この駅舎のノスタルジックな雰囲気は多くの人の琴線に触れるのか、映画やドラマのロケに何度も使われてきたそうです。


 そして、このような木造駅舎が100年近くも、この北限の地の厳しい冬を耐え忍んできたことに驚かされます。

 



 下の写真は、抜海駅を出てすぐの車窓風景です。


 駅の周囲にクマザサ茂る原野が広がっていました。

 



 原野の周囲の木々は、平屋程の高さに背を揃えますが、冬に雪で埋まる高さが植物の高さを規定しているのかもしれません。


 車窓から見えるカシワの木は、まるで盆栽のようなフォルムを見せていました。

 



 列車は抜海原生花園の背後の河岸段丘を走り、利尻富士が視界に大きく広がりました。

 



 進行方向に稚内西海岸と野寒布岬へ伸びる平坦な丘陵が望めます。


 あの丘の裏側で、今日の旅の終着駅となる稚内が、旭川から走り来た一両編成のジーゼルカーを待っています。

 

 可憐な乙女の姿がそこにあれば、映画のワンシーンのような光景になるだろうなと、そんなことを思わせる程に浮世離れした風景でした。




 列車は河岸段丘を北東へ下り始めました。

 



 そして稚内市街地に入り、南稚内駅を出た4分後、

 



 列車は旭川駅を出発後、259.4kmを6時間5分かけて、終着の稚内駅に到着しました。



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宗谷線は車掌車駅舎の宝庫

2019-10-09 16:41:20 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 列車は下沼駅を離れてゆきます。


 下沼駅の光景も独特の雰囲気を感じさせます。




 写真を拡大すると、車掌車を改造した駅舎の窓に目が描かれ、単調な光景に温かみを添えていました。


 ウィキペディアで「下沼駅」のページを見ると、駅舎は下沼駅のイメージキャラクター「ぬまひきょん」を表しているようです。


 出入口に庇が付けられ、お年寄りへの配慮でしょうか、段差を無くす為のスロープが設けられていました。



 ところで、記憶を辿ってみても、車掌車を改造した駅舎を北海道以外で見たことがありません。


 そこで、車掌車駅舎を調べると、2017年4月現在全国に32駅あることが分りました。


 その内28駅がJR北海道の駅で、道外は、陸中夏井駅(岩手県)、平原駅(長野県)、御来屋駅(鳥取県)、清流新岩国駅(山口県)の4駅だけらしいのです。

 

 車掌車は、かって貨物列車の最後尾に連結され、車掌が乗務していましたが、1985年以降、国鉄は貨物列車への車掌の乗務を廃止し、大量の車掌車が廃車になりました。

 

 その時から34年が過ぎて、現存する車掌車は限られた数しか残っていないはずです。

  

 つまり、車掌車自体が貴重な存在で、それに加え、車掌車を駅舎に転用した駅は北海道以外ではめったに見ることができないのです。

 

 更に、そのような駅は多くが廃駅リストに名を連ねていますので、今のうちに、車掌車駅舎の希少性を認め、保存を考える必要があるのかもしれません。

  

 そして宗谷線は、そのような貴重な車掌車駅舎の宝庫なのです。

 


 下沼駅を出てほどなく、牧草地の奥に利尻山の島影が見えてきました。

 



 少しずつ近づく利尻山を撮影しようと、ズームを利かせながら何度もシャッターを切りました。

 



 自転車で国道40号を走ったときに見た利尻山とは一味違って見えるのは、列車に揺られる呑気な状況がそう思わせているだけなのかもしれません。

 

 

 列車は豊富で名寄行き普通列車とすれ違い、終着駅の稚内を目指します。



 

 豊富の手前で宗谷線は海岸から離れ、利尻山が見え難くなりました。

 

 しかし私は相変わらず目で島影を追い続けました。


 そんな窓から見える牧草地に牛の餌となる牧草ロールがころがっています。


 今年の夏は北海道も気温が高かったようで、牛の餌に不自由はなさそうです。


 

 列車は徳光駅に停車しました。


 とは言っても、私は利尻山を見る為に左側の席に座っていましたので、列車右側に接した駅舎とプラットホームは見ていません。


 原野の先に白く見えているのは兜沼でしょうか。


 沼の手前に、人の手を感じさせない原野が広がっていました。



 

 列車は徳光駅を出て10分後に兜沼駅に停車しました。

 



 名所案内の掲示に「言問の松 北海道記念保護樹林(樹齢約1200年)」と記されています。




 あれ~ 


 北海道北部にマツは育たないはずなのに、私の認識が間違っていたかと思い、まだまだ知らないことが多いな~と自らの不明を恥じたのですが、後で「言問の松」はイチイ(オンコ)であることが分りました。


 それにしても、イチイを松と呼ぶことがあるのかと、書物を当たってみると、「イチイの別名は、水松(ミズマツ)、蘭(アララギ)(関西地方での呼び名)、オンコ(北海道での呼び名)、笏の木(シャクノキ)、スダオノキなど」という記述を見つけました。


 だとすれば、イチイを「言問の松」と呼んでもおかしくはなさそうです。


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動物写真家 富士元寿彦さんが暮らす街

2019-10-08 17:54:52 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 列車は10時35分、旭川から約200㎞をはしり、幌延のホームに身を委ねました。


 ここで21分停車するとのアナウンスがあり、改札を出て駅の周囲を散策することにしました。



 

 幌延には車で何度も来ていますが、駅をまともに見るのは今回が初めてかもしれません。




 町の様子は昔と大きくは変わらないように思えました。


 そして空の青さが格別です。




 実は、この町には、学生時代に所属していた自然を観察しながら山野を歩くクラブで一緒だった、一年後輩で動物写真家の富士元寿彦さんが暮らしています。


 この記事の為に、幌延町の現状を確認しようと、ネットで幌延町で検索すると、ウィキペディアの「出身およびゆかりのある有名人」の欄に彼の名を見つけました。


 そこで今度は「富士元寿彦」で検索すると、


 サロベツ発 <富士元寿彦> というブログがヒットしました。


 年月を数えれば、あれから約半世紀の歳月が流れています。


 学生のクラブはワンダーフォーゲル部と生物部を合わせたような活動をしていました。


 私は今もその頃と同じようなことをして遊んでいますが、富士元寿彦さんは卒業後も一貫して、幌延で自然を見続ける人生を過ごしてきたのです。


 私は生きる糧を得ることを優先し、富士元さんのような生き方はできませんでした。


 一度しかない人生に対する価値観、己の生き様に対する勇気、とでも表現すべきなのでしょうか。


 ただただ脱帽なのです。

 

 幌延駅のホームにコスモスが揺れていました。

 



 稚内行き普通列車は定刻の10時56分に幌延を発車しました。

 



 稚内まで残り約60㎞、宗谷線最後の旅が始まりました。



 

 幌延駅を出るとすに見渡す限り、青と緑と白だけからなる単純で、おおらかで、強い者だけが生きてゆける景色が広がりました。



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宗谷線の秘境駅

2019-10-07 21:03:11 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 天塩中川を出た列車は10分後に歌内駅に停車しました。

 

 歌内の名の由来はアイヌ語の「肋、川」を意味するウッナイだそうです。

 大正12年の開業当初の駅名は「宇戸内(うとない)」でしたが、昭和26年に歌内へ変更したそうです。

 

 歌内がどんな場所か知りたくてググってみると、素敵なページを見つけたのでリンクさせて頂きます。 歌内駅

 

 

 歌内駅の周囲に広大な牧草地が広がっていました。

 

 牧草地と線路の間に、オオイタドリが白い花を咲かせています。

 


 

 オオハンゴンソウらしき黄色い花が見えます。

 

 オオハンゴンソウと言えば「北の国から ’98時代」で、蛍にプロポーズした正吉が、蛍からの承諾を得る為に、野辺に群生するオオハンゴンソウの花を毎日送り続けたシーンが思い出されます。

 

 でもね実際の話として、多くの場合、オオハンゴンソウの花を女性に送り続けたとしても、殆どの場合ストーカー扱いされますので、男性はこの話を真に受けないほうがいいです。

 

 まぁね、長い年月、多くの女性を眺め続けて来た老狐の独り言です・・・

 


 

 列車は糠南駅に停車しました。

 

 この記事を書くにあたって、ネット検索で知ったのですが、糠南駅は淀川製作所の物置を駅待合室に転用した秘境駅として、鉄道ファンに名が知られているそうです。

 

 多くの秘境駅ファンが訪問記事を書いていました。

 

 糠南駅に関する数多くのブログから、

 

 「正々堂々と秘境駅に行ってきた」をリンクさせていただきます。

 

 ちなみに、糠南はアイヌ語の「原野の・冷たい・川」を意味するヌㇷ゚カナㇺペッが名の由来だそうです。

 


 

 糠南駅を出た列車はほどなく、天塩川の岸に出て、山裾に架けられた陸橋を渡りました。

 

 地図を見ると分かりますが、天塩川はこの辺りで蛇行を繰り返し、川の周囲に多くの三日月湖が点在します。

 

 車窓に眺める川は流れを感じさせません。

 

 川の奥先に宗谷山系のパンケ山が見えていました。

 

 

 

 蛇行する天塩川と宗谷線は、合うと分かれを繰り返しました。

 

 私は列車の最後尾から景色を眺めますが、進行方向右手にヒグマが生息する森が迫り、左手は雑草が茂る原野が広がります。

 


 

 しばらく進むと、列車は宗谷線唯一の下平トンネルを抜けました。

 

 下平トンネルは昭和40年(1965年)に開通したトンネルで、このトンネルができるまで、宗谷本線にトンネルはありませんでした。

 

 このトンネルができる以前は、宗谷線は天塩川右岸の山裾を、下平陸橋で通過したのですが、雪崩や地滑りなどの被害が重なり、下平トンネルを掘って線路を山側に移したそうです。

 

 

 

 トンネルを出るとすぐに、列車は雄信内駅に停車しました。

 

 車両後方から写したので、写真の景色が進行方向と逆ですが、下の写真で、線路の先に見える右下がりの尾根が下平トンネルで抜けた場所です。

 

 私は、この辺りの地名が「おのぶない」なので駅名も同じと思っていましたが、駅名は「おのっぷない」と読むことを初めて知りました。

 

 雄信内の名はアイヌ語の「川尻に原野のある川」の意のオヌㇷ゚ウンナイに由来するそうです。

 

 糠南駅を見た後に雄信内駅を見ると、とてつもない立派な駅舎に見えます。

 

 駅舎は昭和28年(1953年)に改築されたものを、修復を加えながら使い続けているそうです。

 


 

 列車は10時21分に安牛に停車しました。

 

 酪農地帯に安牛の名はそぐわない気もしますが、これもアイヌ語の「魚をすくうところ」を意味するヤシウシイに由来し、天塩川に上る鮭をすくう網引き場があったことに因るそうです。

 


 

 10時25分に南幌延に停車。

 


 

 10時29分に上幌延に停車と、列車は順調に宗谷線を北上しました。

 


 

 上幌延駅でハマナスの花を見かけました

 

 ハマナスは主に海岸の砂地に自生するので、誰かが浜から持ってきて植えたのでしょう。

 

 そしてハマナスが、海が近づいたことを告げていました。

 


 

 そしてハマナスの横にビロードモウズイカの姿を認めました。

 

 函館港に上陸し、フェリーターミナルから五稜郭駅まで歩いた道に、ハマナスが咲いていたのを思い出します。

 

 つい数日前のことですが、遠い昔の話だったような、不思議な感慨に包まれました。

 


 

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車窓から天塩川の風景を楽しむ

2019-10-06 23:07:03 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 列車は音威子府(おといねっぷ)に到着しました。

 

 音威子府村は北海道にある15の村で、最も人口が少ない村です。

 

 年々人口が減少し、昭和25年には4000人を超えていましたが、令和元年9月現在の人口は734人だそうです。

 

 しかし毎年、村立おといねっぷ美術工芸高校へ生徒が入学し村民となる為、15歳~19歳の人口構成比が高く、全国に比べて女性の有配偶率も高いそうです。

 

 若者の声が明るく響く、穏やかな日々が想像できます。

 


 

 普通列車は9時8分に音威子府を発車しました。

 

 ここから稚内まで、列車は130kmを3時間かけてはしり続けます。

 

 距離も時間も、音威子府の先に、全工程の半分が残されています。

 


 

 列車は音威子府を出るとすぐに、天塩川の右岸をはしり始めました。

 

 天塩川は、音威子府の先で音威子府渓谷を流れ下ります。

 

 線路は覆いかぶさる木々の間に曲線を描き始めました。

 


 

 私は左側の席に座って、天塩川の景色を眺め続けました。

 

 振り返えれば、森の影を映しながらモスグリーンに染まる川面の先に、音威富士らしき山容が見えていました。

 

 そして対岸の森に、国道40号が獣道のような、一筋のシルエットを刻んでいました。

 

 


 

 列車は音威子府を出た8分後に筬島(おさしま)駅に停車しました。

 

 この駅で降りて天塩川を渡ると、国道40号の下流を2kmほども進んだ辺りに「北海道命名の地」碑が建てられています。

 

 この碑は、開拓判官の松浦武四郎が、天塩川を探査中にこの地を訪ねたとき、アイヌの古老から聞いた話を基に、明治2年に「北加伊道」と言う名を考え、これがのちの北海道になったとの史実を刻みます。

 


 

 筬島を出た後、列車は天塩川の流れに沿って右岸を走り続けました。

 


 

 そしてほどなく、天塩川は右岸の天狗山(標高517m)、左岸の神居山(標高398m)に挟まれた神路(かみじ)渓谷に入りました。

 

 とは言っても、音威子府渓谷と神路渓谷は境界が明らかでなく、両者を同じする考え方もあるようです。

 

 この辺りの天塩川は、流れ下る川面を緑の森が優しく包み、旅人の心を安らげます

 

 40年程前に私は、週毎に仕事でこの辺りを車で廻っていました。

 あの頃は、何時かのんびりと、列車の窓から神路渓谷を眺めて旅してみたいと願っていました。

 

 そして今、それが現実となっています。

 

 日本の最北限のエリアを任され、ブリザードが吹きすさぶ季節を走り続けた時代を、懐かしく思いだしました。

 


 

 神路渓谷を抜けると次に、列車は佐久駅に停車しました。

 

 そして佐久駅を出た辺りから、列車は川岸を離れ、窓に牧草地が広がり始めました。

 

 それにつけても、空の青さと牧草地の緑のなんと美しいことでしょうか。

 

 北海道では当たり前の、青と緑と白で描かれる景色は、私の好きなアンドリュー・ワイエスの世界と重なります。

 

 こんな世界で暮らしたいと願ったこともあったのですが、私はその為の勇気と熱意に欠けていました。

 


 

 佐久駅の次に、列車は天塩中川駅に停まりました。

 

 この駅も無人駅ですが、駅舎が見事な風格を漂わせます。

 

 箒を手にした私服の女性が、駅の周囲を清掃する姿を見かけました。

 

 町民が駅を大事にする気持ちが、その姿からかいま見えた気がしました。

 

 この駅に来るのは初めてですが、4年前の2015年9月に、この町の森林公園に建てられた、宿泊無料のログハウスに泊めて頂いたことがあります。

 

 自転車で北海道を縦断する旅の途中でしたが、日暮れて辿り着いたこの街のスーパーで生姜焼き弁当と缶ビールを買い求め、夕食を摂りながら、ログハウスの先客と談笑しつつ、早々に寝袋に潜り込んだ記憶が蘇りました。

 

 

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北海道を旅する感慨に浸る

2019-10-04 17:08:27 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 美深を出た列車は初野まで直線区間を走り続けます。

 

 線路に真新しい砂利が敷かれていました。

 

 1時間に6本列車が走る線路も、1日に6本列車が走る線路も、保線に掛かる費用は同じはずです。

 

 宗谷本線がどれほどの収入を得ているかは知りませんが、線路に平行する国道40号線は、平成17年の美深付近の交通量が24時間平均約220台だそうですから、来年も、普通列車で稚内へ旅ができる保障はないと思うのです。

 

 今回、黒岳に登った翌日、青春18きっぷで稚内へ向かうことにしたのは、そんなことを考えてのことでした。

 

 何ごとも、できるときにやっておくことが、人生を後悔しな為の極意なのです。

 


 

 列車は紋穂内(もんぽない)に停車しました。

 

 紋穂内は、かっては木材の出荷駅としの役割を担っていましたが、今は車掌車を改造した待合室だけの無人駅です。

 

 地名はアイヌ語の「小さい野の川」モヌプオナイに由来します。

 


 

 紋穂内を発車した後、車両後方の窓から駅を振り返ると、大きな木の下に置かれた白い待合室がノスタルジックな雰囲気を醸し、郷愁溢れる光景を見せてくれました。

 

 こんな光景は、北海道で普通列車に乗らなければ気付くことがないかもしれません。

 


 

 列車に乗り合わせた旅人は、殆ど私と同類の方達のようでした。

 

 網棚に置かれた荷物が、長旅であることを物語ります。

 

 皆さん高齢男性で、無言で車窓の景色を眺め続けていました。

 


 

 恩根内に停車しました。

 

 駅舎の後ろに数件の民家らしき建物が見えています。

 

 それにしても、何処までが駅なのでしょうか。

 

 都会では駅構内に入るとき入場券が必要ですが、勿論この駅では必要なさそうです。

 

 そういえば、かって何度か無人駅を見学するために、駅の敷地内に入ったことがありますが、あれって何かのルールや法に触れるのでしょうか。

 


 

 列車は、ロマン溢れる景色の中を北上します。

 

 真っすぐ伸びる鉄路に沿って、冬の厳しさを語る防雪林が続き、牧草地の奥の針葉樹林の横にポツンと民家。

 

 列車が進む先に山が蒼く横たわり、その山の上を左から右へ雲が流れ、北の大地を刻む時を告げています。

 

 こんな風景に出会えば、誰もが北海道を旅する感慨に浸ることができます。

 

 何年か前、車でアメリカを旅したとき、「何もない曠野に、道が地平線に向かって伸びる」景色に感動したことを想い出しました。

 

 

 旅の目的は人様々ですが、同じ列車に乗り合わせた旅人は、どちらかと言えば、鉄道マニアが多いようでした。

 

 豊清水駅で特急列車とすれ違うときなど、多くの乗客がホームに降りて、通過する特急列車に熱心にレンズを向けていました。

 


 

 豊清水の二つ先の咲来も無人駅ですが、さっくるという響きと、咲く、来るという字が印象に残ります。

 

 咲来も他と同様、地名の由来はアイヌ語の「夏道」を意味するサルで、夏季には、ここから咲来峠を越え、歌登を経てオホーツクに道が通じることに因るそうです。

 


 

 咲来を出ると、見事なソバ畑が車窓に広がりました。

 

 咲来も含めて音威子府村は蕎麦が有名で、殻が付いたまま製粉するそば粉を使用した蕎麦は香りが強く、色が黒い特徴があります。

 

 4年前に自転車でこの街に来た時も、国道に面した食堂で蕎麦を味わいましたが、音威子府に来たら、蕎麦を食べない手はありません。

 

 

 旭川を朝の6時3分に発車した列車は、129㎞の距離を3時間かけて、定刻の9時5分に音威子府駅に到着すべく、速度を落とし始めました。

 

 

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一両編成の列車で北へ

2019-10-03 15:26:35 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 名寄まで最後尾の車両に座っていましたが、名寄に着くと巡回してきた駅員から「この列車は名寄で切り離します、先頭車両へお移り下さい」と告げられました。

 


 

 一両編成となった気動車は、車体に一本の赤い線が入る、軽快な印象のデザインでした。

 

 もしかすると、長距離運行機能を持っ車体かもしれません。

 

 列車は7時52分に名寄駅を発車しました。

 

 後方の窓から見ると、切り離された車両が次第に遠ざかってゆきます。

 

 

 

 一両編成の気動車は昇降口の横以外、シートが全てがボックス席で、車両先頭の昇降口の横にトイレが付いていました。

 

 車内は明るく、快適な旅を約束してくれそうです。

 

 

 

 列車は名寄を出てすぐに名寄川を渡りました。

 

 名寄川は名寄市内で天塩川と合流しますが、名寄という名はアイヌ語で川の合流点を意味するナヨロフトに由来するとされます。

 


 

 運転席の横に運賃箱が設けられ、運転席周囲の全てがガラス張りで、乗客は前方の景色を存分に楽しむことができます。

 

 運転席の後ろに「運転手へのはなしかけは停車してからお願いします」の一文が表示されていました。

 

 ということは、停車中であれば話しかけてもいいと判断し、

 

 停車中の運転手に「稚内まで運転するの」と問いかけてみました。

 

 「ええ、そうです」の答えを頂きました。

 

 「それは大変だ、今日は稚内泊まりですか?」

 

 「いいえ、稚内から特急列車を運転して今日中に帰ります」

 

 「おお、そうなんだ! 冬は大変でしょ?」

 

 「ええ、でも冬より夏は、時々鹿が線路へ飛び出て、ぶつかるんです」

 

 「えっ! ぶつかったことあるの?」

 

 「ええ何度かあって、鹿を退ける作業が大変でした」

 

 などと、興味の尽きないお話を聞くことができました。

 

 30歳前後ぐらいの、誠実温厚な人柄が滲み出るような運転手さんでした。

 


 

 列車は日進駅を出て、防雪林が整備された鉄路を進み、すぐに車窓左手に天塩川が見えましたが、線路脇の木立が邪魔で、シャッターチャンスを狙っているうちに川を写し損ないました。

 


 

 川と線路の狭間に牧草地が続きます。

 

 下の写真には写っていませんが、牧草地の奥に天塩川が流れ、その後ろに迫る丘陵地を、広大なヒマワリ畑が黄色く染めているはずです。

 

 2010年の夏に北海道のヒマワリを訪ねましたが、そのときに見た広大なヒマワリ畑が記憶に蘇りました。

 


 

 牧草地の横でハンゴンソウが黄色い花を咲かせています。

 

 十年以上も前に、全国のヒマワリの名所をリスト化し、全国にヒマワリを訪ねる旅を初めて以降、私の中の晩夏は、陽を浴びた黄色のイメージに染まっています。

 

 

 

 列車は8時18分に美深に到着しました。

 

 宗谷線は単線ですが、この駅で対向列車とすれ違いました。

 

 美深という地名はアイヌ語で「石の多い場所」を意味するピウカに由来するそうです。

 


 

 列車が美深駅を出ると、オオイタドリの白い花に飾られた線路が北へ伸びていました。

 

 灌木のようにも見えるオオイタドリが線路を包む光景なんて、北海道以外に見たことがありません。

 

 澄んだ空に浮かぶ雲の下、オオイタドリがおおらかに枝を広げ、白い花を咲かせる光景は、北海道であればこそのものです。

 

 

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北海道へ来たな~と思わせる風景

2019-10-02 15:50:58 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 北剣淵で多くの高校生が下車してゆきました。


 どうやら学校は、駅の北の方角にあるようです。


 多くの自転車が駅に停め置かれ、自転車で学校へ向かう生徒の姿が見えます。


 視線を動かすと、ホーム横に白い花を咲かせた灌木が見えていました。


 ガクアジサイかと思いますが、ガクアジサイだとすればかなりの巨木です。




 列車は7時15分に士別に停車しました。


 士別はアイヌ語で「大いなる川」を意味するシペッに由来します。


 士別は東の北見山地、西の天塩山地に挟まれた盆地の街で、北見山地最高峰の天塩岳を源流とする天塩川と塩狩峠から流れ出す剣淵川が市内で合流します。


 士別に限りませんが、昔から川と川が合流する場所に村や町が作られてきたのです。


 市西部の丘にある緬羊牧場では顔の黒いサフォーク種の羊が飼われ、牧羊犬が羊の群れを追う珍しい光景を見物することができます。

 

 


 下士別駅のホームの横にオオイタドリが白い花を咲かせていました


 オオイタドリはイタドリによく似たタデ科の雑草で、人の背をはるかに超える高さに成長し、葉の基部が心形であることがイタドリと異なります。


 オオイタドリが繁茂する光景は、私にとって、北海道へ来たな~と思わせる景色の一つなので、次ページでオオイタドリが咲揃う様子を紹介するつもりです。

 



 次の多寄駅のホームでは、エゾノコンギクが秋の気配を漂わせながら、柵の間から顔を覗かせていました。

 



 エゾノコンギクの隣で、オオヨモギが人の背丈を超える高さに繁茂していました。


 これが昨日黒岳で出会ったオオヨモギ(黒岳の頂きへ)と同じものとは到底思えません。

 

 

 

 そして7時45分、旭川を出てから100分程の時間をかけて、列車は名寄駅に到着しました。



 

 名寄まで3両編成だった列車は後ろ2両が切り離され、稚内まで一両編成の運行となります。




 名寄も懐かしい思い出が重なる街です。


 この街の旅館に泊まった数十年前の冬の朝、マニュアル車のエンジンを始動したとき、ギアがニュートラルであるにも関わらず、車が動いたのです。


 驚いて、宿の主にそのことを話すと、寒さが激しい日はクラッチオイルが凍って、ギアがニュートラルでも車が動くことがあると説明されました。


 あの頃、吹雪でホワイトアウトした夜の国道を、大型トラックのテールランプを頼りに、旭川までの国道を運転して帰ることもたびたびでした。


 そして、あの頃の日々の連なりの先に、今日を旅する日があると思えるのです。


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気動車は青春通学列車と化す

2019-10-01 19:54:01 | 「青春18きっぷ」花の旅 北海道

 

 車窓に田園風景が広がります。


 北海道の農業は酪農と畑作のイメージが強いのですが、実は米の生産量は新潟県に次ぐ国内第2位のシェアを誇り、新潟県との差はごくわずかです。


 北海道は、長い間稲作に向かないと言われてきましたが、「ゆめぴりか」「ななつぼし」などの品種改良でコメの食味も改善され、現在の石狩平野には広大な田が広がっています。

 



 やがて列車は蘭留(らんる)に停車しました。


 語源はアイヌ語で下り道を意味するラン・ルだそうです。


 同じ発音で、使い古しの布を意味する襤褸という言葉があります。


 この言葉で思い出すのが「襤褸の旗」という、足尾銅山鉱毒事件解決に闘いを挑んだ田中正造の半生を描いた映画です。


 昭和49年に公開され、田中正造役の三國連太郎の演技が評判になりました。


 日本はこの映画の主題となった足尾銅山鉱毒事件の後、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの経験や反省を経て、昭和46年(1971年)に環境庁を発足させるに至りました。


 そんな時代背景の中で公開された映画でした。



 

 線路脇にドイツトウヒの防雪林が続いていました。


 北海道の防雪林の四分の一がドイツトウヒですので、鉄道で北海道を旅するときによく目にする光景です。


 この先の剣淵・士別間防雪林は、北海道の鉄道防雪林にドイツトウヒを導入した深川冬至氏の功績を称えて「深川林地」と呼ばれ、平成17年に土木遺産に認定されています。



 

 列車は蘭留に続き塩狩に停車しました。


 塩狩駅のある塩狩峠は標高273メートルです。


 SL全盛期にこの峠を超えるために、前の蘭留駅と次の和寒駅間で補助機関車を連結したことから、SLの勇ましい写真が撮れたので、全国の鉄道ファンにはよく名の知られた駅でした。


 明治42年には、この峠を通過中の列車で、最後尾の客車の連結が外れ、客車が逆走する事故が起きました。


 このとき長野政雄さんという車掌さんが命を賭して列車を止め、乗客は全員無事でしたが、敬虔なクリスチャンだった長野さんは命を落とされました。


 この実話をもとに三浦綾子が書いた小説が「塩狩峠」です。

 

 塩狩峠には長野政雄さんの顕彰碑と三浦綾子さんの旧宅を再現した記念館が残されています。

 



 塩狩駅を出た列車は、6時53分に和寒に停車しました。


 列車前方のドアに多くの高校生が列を作っています。


 ワンマンカーなので乗車口は一ヶ所しか開かないのです。

 



 和寒町の名の由来はアイヌ語で「ニレの木のそば」を意味するアッ・サムだそうです。


 「ニレの木のそば」などと、なかなかにロマンチックな町名です。

 



 和寒を出た列車は6時59分に、次の東六線駅に停車しました。


 東六線駅は、長さ一両分のホームからなる無人駅で、私の乗った車両はホームから外れ、駅に接する道路に掛かる踏切上に停車しました。


 一日に数本しか止まらない列車にたまたま居合わせた運の悪いトラックが、列車の出発をのんびりと眺めていました。



 

 そして剣淵駅でも多くの高校生が乗り込んできました。


 剣淵町の名の由来は、アイヌ語で「はんの木の多い川」を意味するケネ・ペツだそうです。



 

 私の周囲の席は高校生で埋まり、気動車は青春通学列車と化して、青春18きっぷの旅を大いに盛り上げてくれました。


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