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冬の花 山茶花の旅 index

2021-07-26 17:12:30 | 冬の花 山茶花の旅

「花の旅」 総合目次 

 

冬の花 山茶花の旅 index

 

2010年11月の旅

  1.関東の山茶花の不思議 (山茶花古木の分布)

  2.岐阜に山茶花を訪ね (11月下旬に岐阜を目指す)

  3.豊川総合動植物公園 (温室で出会った貴重な花)

  4.デンパーク (デンパークのコスモス畑)

  5.岐阜の夜 (岐阜駅周辺で岐阜の酒を飲む)

  6.岐阜の山茶花巡り (村瀬家古津の山茶花)

  7.山茶花日和 (真聖寺 樹齢300年の山茶花)

  8.大智寺の暖かな山茶花 (枯死した山茶花と暖かな山茶花)

  9.関市の山茶花 (宗休寺、長昌寺の山茶花に出会う)

  10.正武寺の山茶花 (樹齢270年の山茶花が満開)

 

2019年11月の旅

  11. 日本一のサザンカ寺を目指す豊橋の医王寺 (豊橋のサザンカ寺)

  12. 上下留のサザンカ(心温かい人々の里に咲くサザンカ)

  13. 御作(みつくり)のサザンカ 日本屈指の一株 (本当に見事なサザンカ)

  

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自転車で神田川 index

2021-07-20 08:49:08 | 自転車で神田川

「花の旅」 総合目次 

 

 

自転車で神田川 index

 

1. 神田川の源流をスタート (コロナの時代を楽しく暮らしたい)

 

2. 神田川にミクリの花 (絶滅危惧種のミクリの花)

 

3. 変わらぬものと、変わるもの (花は咲き続け、川は名を変えた)

 

4. 神田川の神田橋 (神田橋の上流に神田上水橋が架かる)

 

5. 人見街道が川を渡る (江戸時代以前からの人見街道)

 

6. 丘の上に玉川上水 (玉川上水と神田上水の位置関係)

 

7. 多くの人々が支える川 (川を支える人々の工夫と努力)

 

8. 神田川 環八のなかへ (神田川は東京環状8号線の中へ)

 

9. 乙女橋は渡れない「お留橋」だった (御三家の鷹場に架かる橋)

 

10. 「神田川流域案内板」が興味深い (鎌倉街道や旧石器時代の解説)

 

11. 幸福橋の架かる川 (幸福橋の名がぴったり)

 

12. 奇跡の荒玉水道道路 (大都会に9㎞もの直線道路が存在)

 

13. 神田川は北へ (杉並区永福辺で川は北へ向かう)

 

14. 環七地下河川構想はスケールがでかい! (環七の地下に川を作る)

 

15. 3つ目の神田橋 (神田橋は神の田へと渡る橋)

 

16. 早く帰ってビールが飲みたい (東京中野の地ビール)

 

17. 東京メトロ 丸の内線の不思議な支線(地下鉄丸ノ内線の歴史)

 

18. 花見橋からのアーバンな景色 (中流域のアーバンな景色)

 

19. 神田川を人生に例えてみると (全長24.6㎞を人生に例えてみれば)

 

20. 宝橋は神田川の中間地点 (宝橋付近が神田川の中間地点)

 

21. 神田川沿いの植物や歴史など (水車が回っていたそうです)

 

22. 神田川にアユとサケ (アユが毎年が確認されるそうです)

 

23. 神田川に咲く花と かぐや姫のあの歌 (青春のあの頃)

 

24. 東京で暮らすのであれば (駅に近く、桜並木を眺める暮らし)

 

25. 小滝橋は中野区最下流の橋 (小滝橋の昔話や神田川四季の道)

 

26. 新宿区落合で川が落ち合う (落合で神田川と妙正寺川が合流)

 

27. 高田馬場渓谷 (山手線の下で川幅が狭まる)

 

28. 下水処理水の植物への影響 (下水処理水は温度が高い)

 

29. 神田川の不思議な現象 (川の流れに沿わない区境の不思議)

 

30. 東京を支える東京層が見えた (東京の地盤を支える地層)

 

31. 肥後細川庭園の花 (旧熊本藩細川家の庭に咲く花)

 

32. わが国最初の神田上水(この川が江戸市中へ上水を供給していた)

 

33. 神田川が江戸川であった頃 (この川は江戸川と呼ばれていた)

 

34. 川は歴史を語る (江戸時代に1mを超える鯉が泳いだ)

 

35. 山を削って川を通した (神田川は山を掘削して流れを変えた)

 

36. 橋が繋ぐ (川は物を運び、橋は人を繋ぐ)

 

37. 本当に必要なものは (ゴミのない川を支えるモラル)

 

38. 世界を見てきましたが (世界の旅に劣らぬ深い記憶が残りました)

 

 

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自転車の旅  自転車でコスモスの島へ 

      

 

 

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世界を見てきましたが

2021-07-09 20:06:26 | 自転車で神田川

 左衛門橋の横に台東区が「旧町名由来案内」を掲げていました。


 慌てて地図を確認すると、神田川は左衛門橋の直前で千代田区を抜け、その先の左岸は台東区、右岸は中央区となっていました。


 掲示板に記された説明は


「平右衛門という人物が浅草上平右衛門町(へいえもんちょう)を開いた。

 天正18年(1590)家康に従い江戸へ入り、元和2年(1616)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町屋を開くことを命じられた。

 

 平右衛門は名主となり、平右衛門町が町名となった。

 

 明治5年(1872)には東西にわかれ、その後西側が浅草橋一丁目となった。


 一方、左衛門町は、明治5年に、庄内藩酒井左衛門尉邸があった地に町屋が開かれ、当初は新平右衛門町と称していたが、後に神田川に沿う場所を、俗称として左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。(要旨)」


 と記されていました。


 そして、橋の前に屋形船が浮かび、その先の正面にビルが立ち並ぶ景色が見えていました。


どうやら隅田川の左岸が見えてきたようです。


 と云うことはつまり、神田川と隅田川の合流点はもうすぐそこです。

 

 


 左衛門橋を過ぎると、川岸に野田屋という船宿がありました。


 橋の上から見えていた屋形船を営む船宿のようです。


 看板には花火船の文字も見えます。


 隅田川の花火大会の時に、この辺りから船を繰り出すのでしょう。
 


 そしてその下流に三浦屋さん。


 柵に腰かけた男性がひとり、スマホを見ていました。


 コロナ騒動が収まるまで、客は戻ってこないかもしれません。

 


  そして東京駅付近から馬喰町、浅草を経て隅田川の言問橋を超え、水戸街道へと続く江戸通りに出ました。


 その江戸通りを渡す橋が浅草橋です。


 案内図で現在地を確認すると、隅田川はもう目と鼻の先です。

 


 川の中に屋形船が連なっていました。
 

 

 川岸に沿って、自転車を一漕ぎすると、緑色のアームを見せる柳橋が近づいてきました。

 


 ここにも「旧町名由来案内」があって、


 「昭和9年(1934)に幾つかのまちが統合され、神田川の隅田川合流点近くの「柳橋」に因んで浅草柳橋とした。

 

 柳橋の名は、江戸時代から花街として知られ、橋のほとりに船宿が並び賑わっていた。

 

 「柳橋」は元禄11年(1698)に初めて架けられ、当時は川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋をよばれるようになった。現在の橋は昭和4年に架けかえられた」


 とのことです。

 


 
 柳橋のすぐ下で、神田川は隅田川と水を交えていました。

 


 井の頭公園を出てから僅か24.6㎞。


 いままで、アフリカやヨーロッパなど、世界各地を訪ね歩きましたが、今回の旅はそのいずれにも劣らぬ、新鮮で印象深い記憶を残すことができました。


 神田川河口の写真を見直すと、アムステルダム運河クルーズの景色を思い出します。

 

 
 このように何気ない、当たり前の、身近な日常にこそ、何ものにも代えがたい価値があるのだと思います。


 日本人が当たり前と思う、安全で清潔な日々の暮らしが、これからも末永く続くようにと願い、「自転車で神田川」の筆を収めることに致します。


 最後まで、ご愛読ありがとうございました。

 

 連日のように(いいね)の励ましを頂きました。感謝しております。

 

 記事を書くに当たり、以下のページを度々参照させて頂きました。


 ありがとうございました。


 東京の橋:神田川下流域 (djq.jp)
 神田川・橋一覧 (kanda-gawa.com)
 ぶらっと遡上探索 神田川に架かる橋--153 

 

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本当に必要なものは

2021-07-09 12:09:11 | 自転車で神田川

 万世橋に近づくと、交差点に面した千代田区万世橋出張所の玄関に「新型コロナウイルス ワクチン接種会場」の看板が掲げられていました。

 

 良く見ると、その建物のガラスに、自転車にまたがってカメラを構える私が写っています。


 世の中はコロナ感染でピリピリしていますが、こうして一人で風を切って自転車で走る分には、感染する、させる心配は殆どありません。

 


 万世橋から下流を望むと、秋葉原駅に停車する山手線がスピードを落としながら川を渡っていました。


 ところで、ちょっと余談ですが、秋葉原を「あきばはら」と読む人がいますが「あきはばら」が正解です。


 ですが、秋葉原の名の由来となった「秋葉神社」は ‘あきばじんじゃ’  や  ‘あきはじんじゃ’と呼ばれており、呼称は統一していませんでした。

 

 しかし、明治23年に貨物用の駅ができ、その駅の読み方が‘あきはばら’に決まったことから、地名も‘あきはばら’と呼ばれるようになったそうです。

 


 JRの線路の下を抜けると、和泉橋の横の岸に、階段状に掘り込まれたテラスが設けられていまいた。

 


 そして、そのテラスの入口に「親水テラスについて」という説明が添えられています。


 「この親水テラスは、防災船着場への乗り入れのために整備したものです。

 

 親水テラスの範囲は児童遊園として利用できますが、河川区域なので水位に十分注意するとともに、下記事項を必ず守って下さい。」


 と記されていました。


 高田馬場付近の源水橋にも同様の設備がありましたが、あれも同様の機能を持つのでしょうか?

 

 
 和泉橋の先に、ビルの谷間に流れる神田川の姿がありました。


 そして、その先の美倉橋下流も同じような景色が続きます。


 水の透明度は高くありませんが、川に空き缶やペットボトルなどの浮遊物が無いことが、逆に不思議です。

 

 これだけ多くのコンビニや自販機で缶コーヒーやペットボトル飲料が販売されている現状を考えると、この光景を得る為に、きめ細やかな対策が打たれている筈です。


 それとも、全て日本人のマナーが為せる技なのでしょうか。


 私はそう信じたいのですが。

 

 

 

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橋が繋ぐ

2021-07-09 11:39:36 | 自転車で神田川

 

 お茶の水橋から谷を覗くと、御茶ノ水駅でバリアフリー化に向けた工事が行われていました。


 完成予定は2023年だそうです。

 


 外堀通りを東へ進み、聖橋を抜けた場所で橋を見上げると聖橋は綺麗な放物線を描いていました。


 下流部に東京メトロの橋梁が架かり、今まさに地下鉄丸ノ内線の電車が走り抜けてゆきます。


 この電車は、霞が関から新宿を抜けて、荻窪まで走り続けます。

 

 

  
 外堀通りの相生坂を下りきった場所に昌平橋が架かります。


 御茶ノ水駅を出た総武線が、川の上に橋梁を架けて、秋葉原駅へと鉄路を伸ばしていました。


 川の対岸には中央線の前身となった、甲武鉄道の万世橋駅の一部だった赤レンガが見えます。

 


  昌平橋の説明が掲げられていました。


 そこに示された1850年(嘉永3年)の絵がとても興味深いので、拡大しました。


 説明文には

 「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1924~44年(寛永年間)に架けられたと伝わります。

 

 橋際から駿河台に登ると、一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。

 

 他にも、相生橋という呼称もありました。

 

 その後、1691年(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子生誕地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。

 
 少し下流にあった筋違門(すじかいもん)とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。」

 

 と記されています。

 

 

   
 上の絵に、下の現在の景色を重ね合わせ、何だかクラクラするような、不思議な感覚を味わいました。


 後100年もしたら、この景色はどう変わっているのでしょうか。

 


 そして同じ場所に、神田旅籠町を説明する一文が掲げられていました。


 「この周辺は、かって神田旅籠町と呼ばれていました。

 

 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。


 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。

 

 また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。

 

 こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです・・・


 街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。」 


 そうだったのですか!


 頭の中で次第に、江戸の街のジオラマが浮かび上がってきます。

 


 そんな昌平橋を支える石壁にヒメツルソバが花を咲かせていました。


 ヒメツルソバはヒマラヤ原産のタデ科の多年草ですが、園芸用に日本に導入され、今は野生化して、都内のあちこちで花を見かけます。金平糖のような花の形が人々に好まれます。


 そのうち、クローバーの花のように、日本の日常に定着すると思います。



 

 

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山を削って川を通した

2021-07-09 02:07:04 | 自転車で神田川

 神田川は飯田橋の交差点の下で、東へ向きを変えます。


 飯田橋の交差点は、目白通りと外堀通りの他に、大久保通りと水道橋分水路上を通る都道が交差しています。

 構造が非常に複雑で、文章で分かりやすく説明できる自信がないので省略させて頂きます。


 東へ向かう神田川の岸から振り返ると、船河原橋の一部と、その後ろに飯田橋が重なって見えていました。


 飯田橋は新宿区、文京区、千代田区の区境となり、ここから先の神田川右岸は千代田区です。


 目の前を流れる神田川は、首都高を乗せたまま、緩い右カーブを描いていました。

 

 

上流を振り返る          下流は緩く右へカーブ

 

 良く整備された外堀通りの歩道を進んでゆくと、
 

 

 小石川橋の袂に出ました。


 この場所が日本橋川の分水口で、日本橋川の最上部には三崎橋が架かります。


 江戸時代初期までは、この日本橋川の流路を、神田川の前身である平川が流れていました。

 

 しかし、その河口である日比谷入江が埋め立てられ、そこに建てられた大名屋敷などが川の氾濫で流される被害が続いた為に、平川の東に位置する神田山(本郷台地)を切り開いて流れを変え、南へ向かう流路を埋めたのです。 


 しかし明治時代になって、水運物流が盛んになると、再度埋め立てた場所を掘り直し、船を通す為に、神田川に繋げて、日本橋川と名付けたのです。


 右下写真が東へ向かう現在の神田川ですが、ここから先は、江戸時代に掘削した人工の河川なのです。

 

 

日本橋川の上の三崎橋と総武線     現在の神田川は東へと流れる  


 日本橋川との分岐点の先にJR水道橋駅があります。

 


 駅前から外堀通りに出る後楽橋と、その横に、川と外堀通りを併せまたいで、東京ドームへと続く人道橋の後楽園ブリッジが架かりますが、殆どの人が後楽園ブリッジを利用します。

 

 


 JR水道橋駅の横に「水道橋」が架かります。

 

 この橋の名は、神田上水を、樋で神田川の上を渡していたことが名の由来です。

 

 


 神田川に沿って、外堀通りを水道橋交差点の先に進むと、


 神田上水懸樋(掛樋)跡に石碑が置かれ、次のように記されていました。


 「江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで江戸の東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました」

 


 外堀通りは上り坂となって、御茶ノ水駅方向へ向かいます。


 坂を上って、順天堂大学の辺りで川を見下ろすと、木立が葉を茂らせた斜面の下に、静かな神田川の流れを認めました。


 この辺りは、二代将軍・徳川秀忠の命により、本郷台地先端の神田山を、仙台藩祖の伊達政宗が切り開いた人工の谷で「仙台堀」や「伊達堀」とも呼ばれています。


 更には、山を掘削したことで水質の良い清水が湧き出て、それを二代将軍秀忠に、お茶に用いる水として献上したことから、この谷を、茶を意味する「茗」の字を用い「茗渓」と呼ぶようになったそうです。

 


 
 木立の緑に包まれた谷の斜面は、現在文京区によって風致地区に指定されています。

 

 

 

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川は歴史を語る

2021-07-08 22:35:50 | 自転車で神田川

 石切橋を渡ってみました。

 

 

 左岸の橋の出入り口に、可動式のゲートが設けられていました。

 

 水嵩が増した時、このゲートは閉められるようです。


 右岸の目白通りは、下に江戸川分水路を通すときに、嵩上げされたのかもしれません。

 


 次の西江戸川橋から下流を眺めると、ピンクの小桜橋と青い凸版印刷本社ビルが見えていました。


 凸版印刷は明治33年の創業で、現在の売上高は1兆円を優に超えます。


 初めて西江戸川橋の名を耳にする人は、何で神田川に江戸川なのかと訝るかもしれませんが、明治後期の資料によると、この橋は、左岸の旧西江戸川町と右岸の旧牛込五軒町の間に架かる木橋だったそうです。

 

 

 小桜橋を過ぎて中ノ橋が近づく頃、護岸壁は更に高さを増してきました。


 江戸時代、この辺りには鯉が多く、1mを超える鯉もいたようです。


 鯉は将軍家が放流したので、禁漁区となっていましたが、味が抜群で、紫鯉の名で呼ばれていたそうです。

 


 中ノ橋に上がると、車専用で一方通行の新白鳥橋が見えました。


 この場所の右岸に、江戸川橋分水路一列分の吐口があり、その流水を引き受ける形で、左岸に新に水道橋分水路が設けられましたが、その吞口が新白鳥橋の下に見えています。


 水道橋分水路を整備する時、その上に都道が作られ、その道へ車がスムーズに入れる為の新白鳥橋です。

 

 

 下が新白鳥橋から白鳥橋を眺めた写真です。


 この場所で神田川は大きく曲がるので、江戸時代には「大曲(おおまがり)」と呼ばれていました。


 明治19年(1886)に、ここに「大曲橋」が架けられましたが、その後架け替えられ、この辺りにあった白鳥池に因んで「白鳥橋」の名が付けられました。

 

 
 そして白鳥橋から下流の眺めは・・・

 

  
 新隆慶橋は、文京区役所などの後楽園エリアから、大久保通りを抜け、新宿方面に至るルートを繋ぐ、片側3車線の大きな橋で、私も時々利用しますが、たしか去年頃、大久保通りに繋がる道の整備が終わり、かなり使い易くなりました。


 新隆慶橋のすぐ下流に隆慶橋が架かります。

 


 今の隆慶橋は昭和10年(1935)頃に架けられましたが、1644年頃の江戸時代初期の資料は、同じ場所に橋が描かれています。

 

 


  JR飯田橋駅前の交差点に架かる船河原橋に着きました。

 

 上流を振り返ると、神田川が高速道路の下で水を湛えていました。

 

 右岸に江戸川橋分水路の吐水口がみえています。


 江戸時代はここまでを江戸川、この下流を神田川と呼んでいました。


 この交差点で目白通りは外堀通りが交わりますが、外堀通りは、東京都内を同心円状に繋ぐ8本の環状道の一つで、環状2号に相当します。


 そして、目白通りは環2を超えて中心部に向かい、九段下交差点で内堀通に接続します。


 この内堀通りこそが環状一号なのです。

 

 

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神田川が江戸川であった頃

2021-07-08 15:02:32 | 自転車で神田川

 江戸川橋の下に江戸川橋分水路の吞口が見えます。


 神田川沿いに建造物が密集する為に、物理的に川幅を広げることができません。


 そこで治水対策として、目白通りの下に二列の分水路が作られたのです。

 


  江戸川公園を出るとき、「目白台・関口の歴史」が掲示されていました。


 その中に記された「大井玄洞の胸像」の説明に


 「明治43年(1910)の大洪水の後、大井玄洞は人々の治水の願いを叶えるために尽力しました。

 

 大正2年(1913)に護岸工事に着手し、大正8年(1919)に完成させています。

 

 人々は、この治水事業の功績を称え、昭和3年(1928)神田川沿いの江戸川公園に玄洞の銅像を建てました。」とあります。

 

 自転車で神田川沿いを走っている時は、殆ど説明文を読まずに、写真だけ撮って済ませていました。


 そして今初めて、この説明文を読み、先のブログに書いた「神田川の不思議な現象(区の一部境界が川とズレる)」は、この時の玄洞の治水事業による可能性が高いと考えました。


 何だか、もやもや気分が晴れて、スッキリしました。

 


 江戸川橋の上に突然、高速道路が現れました。


 首都高速5号池袋線です。


 この高速道は神田川に沿って進み、日本橋川の上に抜け、あの天下の日本橋の上で悪名高い景観を作りだします。

 


 江戸川橋から下流を眺めると、両岸に桜並木が続く風情は消え、運河のような姿の神田川が水を湛えていました。

 


 江戸川橋の下流の二つ目の橋が掃部橋(かもんはし)です。

 

 フリガナが無ければ、どう読むのか見当も付きませんが、江戸時代には、橋の傍に吉岡掃部という紺屋(染物屋)があったそうです。

 

 江戸時代はこの辺りで染物を晒すほど水が綺麗だったのです。


 ちなみに掃部は昔、宮中で掃除や儀式時の設営を行ったスタッフの役職名だそうです。

 

 


 掃部橋から二つ目の橋が石切橋です。


 この辺りは、左岸にビルが並び、右岸を高速道が覆う、代り映えのない景色が続きます。


 石切橋の袂に、橋の由来が記されていました。


 そして掲示板に、問い合わせ先は、新宿区 道とみどりの課とあります。


 実は、この石切橋の上流50mほどからの右岸は新宿区となり、その状態が飯田橋まで続きます。


 掲示板には、「この橋は江戸時代の初期、寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ、橋の周辺に石工が住んでいたと伝わります。

 

 明治時代の記録では、橋の長さ15m、幅5m強の木橋で、当時この付近で最も幅広の大きな橋で、当時は江戸川大橋と呼ばれていたそうです」

 

 と記されていました。


 江戸の初期から大きな橋が架かっていたとすれば、ここから先の流路に、時代による変化は生じなかったのでしょう。


 そして現在、石切橋の長さは20mですから、江戸川と呼ばれていた頃の、凡その状況を思い描くことができます。

 

 

 

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わが国最初の神田上水

2021-07-08 00:00:48 | 自転車で神田川

 細川庭園を出て神田川沿いを進むと、庭園の塀を過ぎた辺りに胸突坂の説明が示されていました。


 「坂下の西に水神社が(神田上水の守護審)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。」とあります。

 

 東京は川が台地を削った街ですから、山手は坂が多いのです。

 

 
 川に沿う遊歩道の脇にサツキが紅色の花を咲かせ、正面にホテル椿山荘が見えています。

 

 
 椿山荘の冠木門は閉じられていましたが(ご入館は正門玄関へお廻り下さいと記されています)、その横の関口芭蕉庵の紹介に、「俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画しこの地に住んだ。後に芭蕉を慕う人々が「龍隠庵」という家を建て、これが現在の芭蕉庵につながる。」

 等が記されていました。

 

 
 そして再び、里程標 「すみだがわ6.5㎞ みなもと18.1㎞」を目にしました。

 

 
 その先の大滝橋の袂に、神田上水 取水口大洗堰跡の説明が掲げられていました。


「徳川家康の江戸入りの直後、井の頭池からの流れを、関口に取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で取水された水は水戸殿に給水し、云々」とあります。

 

 
 大洗堰は、大滝橋の少し下流にあったようですが、橋の上から川を眺めても、今は堰の気配を感じさせるものはありません。


 また、1965年(昭和40年)に河川法が改正されて、井の頭公園の源流から、隅田川の合流地点までの流路が全て、神田川の名に統一される前は、この堰から下の流れは江戸川と呼ばれていました。


 その当時は、源流から堰までの流れと、堰で取水した後の流れを神田上水と呼んだのです。


 源流からこの堰までの流れを神田上水と呼べば、水を汚すことへの妨げとなった筈です。


 そして、そのことに思い至る時、大洗堰ができる前、井の頭公園からの上流部の流れに、別の名もあった可能性がありそうです。
   

 

 

 椿山荘が建つ関口台地の丘裾に、江戸川公園が細長い姿を見せ、左側に石の構造物が見えています。
 

 

 石の構造物は神田上水の取水口の石柱だそうです。


 「わが国最初の神田上水は、大洗堰で水位をあげ、上水路で水戸上屋敷(現後楽園)に入れた。そこから地下を樋で神田、日本橋方面に給水した。

 大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するための「角落」と呼ばれた板をはめ込む石柱が設けられた」の説明が付されていました。

 

 
 神田上水の一部が、江戸川公園内に復元保存されていました。

 

  
 細く続く江戸川公園の形は、明治時代に廃止した神田上水跡地を、大正8年(1919)に公園として整備したことに因ります。

 

 
 江戸川公園の中から神田川を覗くと、川の中に鯉の群れを認めました。

 

 江戸時代のこの付近の流れは、名品の鯉が泳ぐことで知られていました。

 

 
 そしてその付近に、餌となる小魚の存在を示すコサギの姿がありました。

 


 

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肥後細川庭園の花

2021-07-07 00:16:08 | 自転車で神田川

 文京区立 肥後細川庭園の門柱に

 

 「幕末、ここは肥後熊本藩細川家の下屋敷、抱屋敷であり、明治15年(1882)からは細川家の本邸となった。

 

 その後、都立公園として開園し、昭和50年(1975)、文京区に移管された」

 

 と記されていました。

 


 細川庭園の周辺案内に、松尾芭蕉の住居跡に建つ関口芭蕉庵、神田上水の守護神であった水神社、細川家伝来の美術品などを収めた永青文庫、旧細川候爵邸の和敬塾本館など、幾つもの施設が紹介されていました。


 とても気になる、これら施設は、日を改めて訪ねたいと思います。

 

 
 庭園は、地形の変化を巧みに利用した池泉回遊式庭園で、やり水形式(平安貴族の寝殿作りの細流)で湧き水を池に取り込んでいると、紹介されていました。

 

 
 庭園の裏手の、学習院辺りから伸びる台地が緑に包まれ、

 

 
 その台地の中腹に湧く水が池を潤します。

 

 
 「西行桜」の名札を付けた、フリル状に八重の花弁のハナショウブが池の畔を飾り、

 

 
 「琴姫」の名札を添えたハナショウブは、紫から白に変化するグラデーションを水面に映していました。

 


 ハナショウブはアヤメ科の多年草です。

 

 江戸時代に野生のノハナショウブから多くの品種が育成され、現在の品種数は2000を超えるようです。

 
 ハナショウブは下の「皇玉」を見れば分かるように、花弁の付け根が黄色で、アヤメのような網目模様がありません。

 

 品種が開発された地域毎に、花が豊満な肥後系、花弁が垂れる伊勢系、変化に富む江戸系などが知られます。


 この庭園は肥後熊本の細川家が所有していましたが、熊本では江戸時代から明治にかけて、肥後藩士によって育成された肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花が肥後六花と称されます。

 

 この庭にハナショウブが咲くのも、そんな背景があってのことです。

 

 
 池の周囲の散策路で、ガクアジサイが初夏を演じていました。

 

 

 ボダイジュの名札を付けた木が、黄色い花を一面に咲かせていました。


 ボダイジュは中国原産のシナノキ科の落葉高木ですが、お釈迦様が木の下で悟りを開いたインドボダイジュはクワ科の熱帯樹で、全くの別種です。

 

 そして、シューベルトの歌曲で知られるセイヨウボダイジュはシナノキ科のナツボダイジュと冬ボダイジュの自然交配種で、リンデンバウムの名でも良く知られています
   

 

 

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東京を支える東京層が見えた

2021-07-06 02:04:02 | 自転車で神田川

 三島橋から川を覗くと川底に岩が露出していました。


 高戸橋辺りまでは確か、川底もコンクリートだった筈です。


 何だろうと思い調べてみると、最後の間氷期に東京の奥まで海が入り込み、海底に植物や砂などが堆積し、それが泥岩や砂岩となった東京層が露出していることが分かりました。

 

 


 そして、その状況を見ると、川の流れに沿って溝状の構造が見えていました。


 わざわざ岩を刻む必要はないので、東京層の地層断面が現れ、断面毎の硬さの違いで、水の浸食度が異なると推測したのですが、自信がありません。


 そこで、「東京層」でネット検索して、東京の地質を解説するページを見つけ、ずうずうしく、「この現象の理由を教えて下さい」とメールで質問しました。


 すると翌日、東京地質コンサルタント 代表取締役の岡部様から以下のような回答を頂きました。

 「この付近には固結シルト(泥岩に近い粘性土)と砂層が互層状に分布すると思われます。砂層は河川により浸食されやすく、固結シルトは浸食されにくい土質です、このため、河床部では凸状に固結シルトが残り、見た目、溝状となっているものと考えます。」


 頂いた回答を十分に理解していませんが、河床の縞模様は、土質の異なる層が互層状に分布し、それらの浸食度の差によって生じた結果であると理解しました。

 


 三島橋を渡り、左岸を進んで行きます。


 川に沿って、人気のない静かな道が続いていました。 

 


 仲之橋を右岸に渡りました。


 川床の岩が気になるので、橋がある毎に川を覗きました。

 

 

   
 豊橋(ゆたかはし)辺りで、川底の岩はテーブル状となっていました。


 そしてこの橋は、両岸が束の間の新宿区です。


 橋から延びる道の先に豊川稲荷があり、その先に豊坂があります。


 文京区教育委員会が設置した「豊坂」の解説に、豊坂の名は豊川稲荷に因むと記されます。


 豊橋も同じ理由の筈です。

 

 

  
 豊橋を過ぎて目にした「いきいきウォーク新宿」の案内によれば、高戸橋から1040mの地点が文京区との区境だそうです。


 つまり、昔の神田川は、この場所から今の神田川の右岸へ向かって蛇行していたことになります。

 

 

 文京区に入って暫く進むと、

 


  駒塚橋に出ました。


 駒塚橋は江戸時代、今の場所より下流に架けられており、橋近くの老松に馬を繋げたことから、馬繋橋と呼ばれましたが、松が枯れた後、誤って馬塚橋と呼ばれ始めたと伝わります。

 

 橋の上から見えるのはホテル椿山荘です。


 椿山荘は古くから椿が自生する景勝地でしたが、明治11(1878)年に山縣有朋が屋敷を構え、幾度かの変遷を経て、現在は藤田観光がホテルと一体管理を行っています。

 


 橋を渡ると、肥後細川庭園の案内板があったので、寄っていくことにしました。

 


  庭園へ行くついでに、左岸の道を豊橋まで探索すると、里程標が現れました。


 「すみだがわ7.0㎞ みなもと17.6㎞」と刻まれています。


 と云うことは、この場所が全行程の約70%となります。


 え! まだそんなもの、と思いますが、もうちょっと楽しめるぞ、の感慨も湧いてきます。


 まさに、来し方70年の人生そのままの気分。(鬼が後ろで笑っていますが)


 すぐ近くで、岸辺の柵にツルを伸ばしたトケイソウが、エキゾチックな花を咲かせていました。


 トケイソウは熱帯植物のイメージがあるので、これには驚かされました。


 良しに着け悪しきにつけ、昨日までの経験を覆すような、明日が待っているかもしれません。

 

 そして、幾つになっても、柔軟性だけは失いたくないものです。

 

 

 

 

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神田川の不思議な現象

2021-07-05 00:16:37 | 自転車で神田川

 神田川の上を渡る高戸橋のすぐ横に、都電荒川線を渡す橋梁があります。

 

 私はこの電車に一度も乗ったことはありませんが、片道14,000円弱の貸し切り制度があるので、何かの機会に使ってみたいと考えています。

 


 高戸橋の交差点から新目白通りの歩道を進み、最初の脇道を左へ曲がると、曙橋が緑に包まれていました。


 この橋の竣工は1981(昭和56)年だそうです。

 

 親柱に嵌められた橋名札が40年の歳月を物語ります。

 

 

  
 曙橋の袂から、豊島区側の左岸を走り始めました。

 


  「神田川桜並木 自転車・歩行者専用道路」の掲示に、この桜並木は、豊島区制施行50周年記念として設けられたもので、延長830m ソメイヨシノ77本 つつじ2880本 ヤマブキ230本が植栽されたことが記されていました。


 豊島区制施行50周年は1982年ですから、僅か40年で、こんなに見事な桜並木が育つのですね。

 


 曙橋の100m程下流に面影橋が架かります。


 「面影橋」という言葉の曲が私の耳に残っていたので、ネット検索すると多くの曲がリストアップされました。


 私の耳に残る歌と重なったのは六文銭の「面影橋から」でした。


 それにしても、本当に数多くの曲で「面影橋」が歌われていることに驚きました。

 

 

  
 橋の袂に「面影橋の由来」が説明されていました。


 「目白台から続く鎌倉街道を推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。


 橋名の由来には諸説あり、公明な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、

 

 鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、

 

 近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説、

 

 などが知られています。


 なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。」

 

 
 橋を右岸に渡ると、都電荒川線の「面影橋駅」に電車が到着するところでした。


 次の「早稲田駅」が都電荒川線の終点です。

 

 
 面影橋から右岸を100mほど進んだ先に三島橋があります。


 橋の位置を地図で確認すると不思議な現象に気づきました。


 下の概念図をご覧下さい。


 水色の太い線が神田川で、赤い線が豊島区、新宿区、文京区の区境です。


 黒い を記した三島橋の付近で、不自然に新宿区が豊島区に嵌り込んでいます。


 疑問に思って調べてみると、神田川が直線状に整備される前、川の流れに沿って区境を決めた結果であることが分かりました。

 

 


 
 新宿区が発足したのは1947(昭和22)年です。


 しかし、国土地理院がウエブ上で公開している、1928年頃に撮影した空中写真を確認すると、神田川は既に現在の流路とほぼ同じです。

 

 しかも、区境線と同じ線を描く、三日月湖状のものも見えています。


 神田川沿いの区境の不思議は、1914(大正3)年に、当該地区で旧戸塚町が町制施行した時代に遡る話だと思います。

 

 
出典:国土地理院撮影の空中写真(1928年頃撮影)

 

 

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下水処理水の植物への影響

2021-07-04 01:04:52 | 自転車で神田川

 カルガモがお尻を空に向けて、川底の水草を食んでいます。


 川底がはっきり見えるほど、水は透明ではありませんが、カモが餌に困らない程度に水草は育つようです。

 


 川の縁にマンションが建ち、その場所の川壁がツタで覆われていました。


 ヒートアイランド対策だろうと思います。


 植物の緑を利用した、クーラーの消費電力を抑える努力が、未来の脱炭素社会に繋がる筈です。


 いっそのこと、神田川のコンクリート壁を全部緑で覆ってしまえばと思うのですが如何でしょうか。

 


 源水橋の手前の右岸に、2mほど低いスペースが設けられていました。


 人々が水辺に近づく為だろうと思いますが、現状は中途半端に見えます。


 それとも何か他に目的があるのかもしれません。


 そして下流に、新目白通りが渡る高田橋が見えてきました。

 

 

   
 高田橋に着いて神田川を振り返ると、鈍色に光る神田川が、ビルの中を流れていました。


 飛び石伝いに対岸に渡れた源流から此処までの川の景色が、我が人生と重なります。


 水嵩は増えましたが、雑多な物を蓄え、流れは緩慢です。


 そして急ぐ必要もないのです。

 


 高田橋を左岸から右岸に渡り、高戸橋の交差点に出ました。


 新目白通りが明治通りと交差しています。

 

 そういえば、この明治通りが環状5号線であることを知る人は、そう多くないかもしれません。

 

 神田川は環状5号線を超えて、更に深く東京の核心部へと進んでゆきます。

 

 

 

 神田川は高田橋の下を抜けた直後、流れを東に変えて、明治通りが架ける高戸橋を潜り、新目白通りに並走して飯田橋へと向かいます。


 私は高戸橋交差点を渡って、神田川を覗き見ました。

 

 目の前に高田馬場分水路の吐水口が口を開けていました。


 新宿区の落合から、新目白通りの下を流れ来た高田馬場分水路は、高田馬場渓谷を迂回して、約1.5㎞先の、この場所で神田川に合流します。

 


 高戸橋に移動して吐水口を観察すると、合流地点に三本の流れを認めました。


 一番左が神田川の本流で、中央と右の流れが高田馬場分水路です。


 高田馬場分水路は落合で妙正寺川と合流した後、道路を支える為と思う隔壁で二列に分けられ、この吐水口へ流れ下ります。


 そしてこの時、面白い現象に気づきました。夫々の吐水口ごとに、河床の緑の濃さが異なるのです。

 


 そこで再び高田橋に戻って川を見下ろすと、上の写真の中央部の緑が最も濃く、次いで右側、次に神田川本流の緑が少ないことが分かりました。


 最初は、透明度の差と思ったのですが、透明度にそれ程の差があるようには見えません。


 そこでネット検索すると、次のようなデータがヒットしました。


 「神田川水系の生物相に及ぼす下水処理水の影響


 詳しい説明は省きますが、中央の吐水口は下水処理水の割合が高く、本流の水温より10度ほども高いようです。


 冬期水温に10度の差があれば、以下の写真のような、水生植物の生育に差があっても不思議ではありません。


 しかし、すぐに水温は均一になる筈で、生態系への影響を語るまでの必要はないと思います。

 

 

 

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高田馬場渓谷

2021-07-03 00:53:12 | 自転車で神田川

 田島橋を渡ると「さかえ通り商店街」が店を連ねていました。

 

 

   
 神田川沿いに連なる商店街に自転車を進めます。


 実は以前から、この商店街が気になっていたのです。


 高田馬場駅を時々利用しますが、その時々に、駅から川に向かって伸びる道に、ノスタルジックな雰囲気を漂わせる飲食店が並び、私の好奇心を刺激するです。


 さりとて、わざわざ訪ね来るほどでもないので、この街が気にかかって、はや20数年、今日はやっとその念願が叶いました。

 


 商店街に入った左手に「定食 こめこめや 丹精こめて 愛をこめて」の看板を見て、いいぞ いいぞ と呟きました。

 

 あの寅さんの口上を聞いているような気分です。


 電柱の陰の「沖縄島唄ライブ 島唄カーニバル B2」の看板を目にして「たまには沖縄ジャミセンを聞きたいな」と独り言。


 オムライス研究所の店先には十数種類のメニューが掲げられていました。

 

 学生は大盛無料だそうです。

 


 青果 加藤商店の店内に、スイカ以外に目ぼしい商品がないことに驚きました。


 しかもその様子を、奥の壁に飾られたマリリンモンローが満面の笑顔で眺めています。


 なんとも昭和的な、一生懸命でありながら微笑ましい、そう、まさに長谷川町子さんが描くところの、サザエさんの世界を見ているようです。


 そんな風に、さかえ通り商店街は、私の期待に応えてくれる光景に満ち溢れていました。


 以前の記事で紹介した西新宿のけやき橋商店街も、こんな風情に溢れていたと思います。

 

 


 さかえ通り商店街の真ん中辺りで、神田川に向かう露地先に清水川橋が架かっていました。


 上流に田島橋と東京富士大学構内の校舎を繋ぐ橋、下流に西武新宿線とJR山手線の鉄橋が重なって見えました。

 

 広角レンズの写真なので分り難いのですが、JR山手線の線路の下で川幅が極端に狭くなっています。


 神田川が増水すれば、この場所がネックになることは明らかです。

 

 


 さかえ商店街を抜け、早稲田通りに出てから、左へ進みます。

 


 西部新宿線のガードを抜けるとすぐに左折し、神高橋(かみたかはし)に出ました。


 神田川に架かる、新宿区高田馬場と豊島区高田を結ぶ橋だから神高橋なのでしょうか。


 神田川は、西武線の青い鉄橋を過ぎて、左岸は豊島区となります。

 

 
 神高橋から上流を望み、山手線の下で川幅が狭まる様子を確認しました。


 JRの鉄橋の為に川幅を広げられないのです。


 この場所は高田馬場渓谷と称されますが、この渓谷が高田馬場分水路を作らせた最大要因であることは間違いありません。

 


 神高橋の次の高塚橋で下流を眺めると、神田川は明らかに川幅を広げていました。


 そして、この橋と戸田平橋までの右岸の地域、更にその先の源水橋から高戸橋までの右岸の一部地域が不自然な形で豊島区です。

 

 何かいわくありげな状況に見えます。


 多分、川が今のように整備される前は、豊島区と新宿区の区境に沿う形で川が流れていたのでしょう。
 

 

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新宿区落合で川が落ち合う

2021-07-02 13:41:37 | 自転車で神田川

 側道が中野区を抜けて新宿区に入ると左手に、コンクリートの上にフェンスを巡らせた施設が現れました。


 落合中央公園です。


 落合中央公園は落合水再生センターの屋上部分を開放した公園です。


 子供向けの遊具の他に人工芝の野球場とテニスコートなどを備えているそうです。

 

 そしてここから先は、神田川の両岸が新宿区です。

 


 落合中央公園の中央付近に久保前橋が架かります。


 この辺りの旧地名が久保田だったことが橋名の由来だそうです。

 

 

  
 落合中央公園を過ぎると直ぐに、せせらぎの里公苑の入口が門を開いていました。


 以前この公苑を訪ねたことがありますが、園内にせせらぎが流れ、コナラを主とする雑木林が、安堵感を覚える情景を見せていました。

 


 せせらぎの里公苑の北東の出入り口の前に、都の下水道局が架けた、せせらぎ橋があり、その橋の辺りから川は、流れを東へ変えます。

 

 


 せせらぎ橋を渡って右岸を走ると、対岸に高田馬場分水路の吞口が見えました。


 神田川が増水したとき、水が自動的に分水路に導かれる構造です。


 高田馬場分水は此処から西武新宿線の下を抜けて妙正寺川と合流し、新目白通りの下を暗渠となって流れ、高戸橋の手前で神田川と合流します。


 昔は、この辺りで妙正寺川が神田川に合流していました。


 新宿区落合の地名は「川が落ち合う場所」を意味します。

 


 そしてこの先で、川に沿う道が途絶えました。


 周囲の様子を見ながら、新堀橋を渡って左岸に戻り、なるべく川から離れないルートを探します。

 


 適当に自転車を走らせていると、滝沢橋の脇に「神田川に沿って歩くコース」が示されていました。


 このガイド図で、滝沢橋と田島橋の間は、川岸に道が途絶えることが分かったので、途中の橋を交互に渡りながらジグザクに進路を取ることにしました。

 


 落合橋を左岸から右岸に渡りました。 流れの先に宮田橋が見えていました。


 次に宮田橋を左岸に戻りつつ下流を望むと、東京富士大学の校舎を繋ぐ橋と田島橋が見えました。

 

 


 東京富士大学の横に掲示されていた案内図で現在地を確認しながら田島橋へ向かいました。


 私はこのように、見知らぬ街の見知らぬ道を、うろうろ彷徨うのが好きです。


 この道は何処へいくの、この先に何があるの、の好奇心のままに、何も考えずに彷徨うひと時を楽しみます。

 


 東京富士大学の正門前に出ました。


 テレビ番組で時折、トキオのメンバーが、この大学の屋上に作ったビオトープで遊ぶ様子が放映されています。
 

 

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