徒歩で乗船する10数人の客が、出航20分前に船内に導かれました。
ラウンジのディスプレーにフェリーの位置が示されています。
青函フェリーは定刻の23時30分に青森港を離れました。
椅子席もありましたが、私はカーペットが敷かれた客室の片隅に寝場所を得ました。
トイレついでに、船内を見歩くと、電子レンジや給湯機が設置されていました。
弁当やカップ麺を持参する客への配慮でしょうか。
乗船時間は4時間程なのでドライバーは慎むべきですが、コンビニでワンカップを買って持ち込めば、熱燗を楽しむこともできそうです。
船が港を離れるとすぐに、私は深い眠りに落ちました。
そして「当船はまもなく函館港に着岸します」のアナウンスで目を覚ましした。
デッキに出て船外を見ると、夜空を燈す函館市街が見えていました。
函館港の待合室で7~8人の客と一緒に夜明けを待ちました。
函館行きの始発電車は五稜郭駅6時48分です。
待合室の時計が6時を過ぎた頃に、五稜郭駅へ向かって歩き始めました。
道端にビロードモウズイカがレモンイエローの花を咲かせていました。
東京とは空の青さが明らかに異なります。
五稜郭駅の改札で、青春18きっぷに二回目の日付記載が入ります。
改札を出ると、ホームに入ってきた、函館行きのシック列車に乗り込みました。
列車は5分ほどで函館駅に到着しました。
函館駅のコンコースを出ると最初に目にした「函館本線0マイル地点記念碑」をカメラに収めました。
今ブログを書くに当たり、撮影した解説文を読んでみました。
「北海道開拓の重要性から鉄道国有化の世論が起こりつつあった明治35年12月10日に第一期工事(函館・桔梗・七飯・本郷(現在の渡島大野))が完了し、旧函館駅が現在の「海岸町10番地」に開業しました。
しかし、港の連絡に不便が多いため、明治37年7月1日に函館駅が現在の地に移設され、旧駅は「亀田駅」と改名されましたが、明治41年3月に類焼し、同年8月29日に廃駅となりました。
この記念碑は、昭和37年10月14日に道南地方の鉄道発祥の地として函館市海岸町10番地に建立され、平成2年7月には海岸町の宅地化に伴い、青函連絡船が運航されていた頃の岸壁付近に移設されましたが、平成26年10月には、より多くの皆様にご覧いただき永く記念するため、「碑」をこの地に移設しました。
と記されていました。
明治35年は西暦1902年ですから、今から107年前のこの年の1月25日に旭川地方気象台で氷点下41.0度の日本最低気温が記録されています。そして同じ日に八甲田山で雪山訓練中兵士の大量遭難事件が起きています。
日本初の私立大学として早稲田大学が開校し、第一生命保険が設立された年でもあります。
まだそんなものと思うか、もうそんなにと思うかは人夫々ですが、私はもうすぐ70歳に手が届きます。
そして改めて、107と70の数字の近さに言葉を失います。
駅を出て、函館朝市を訪ねましたが、
何と! イクラとウニとマグロを乗せた小ぶりな海鮮丼に3800円という値札が付いていました。
実態を知らない、中国や韓国からの観光客目当ての商売という話を耳にしました。
べらぼうな値段に驚いて、早々に函館を退散することにしました。
こんなことをしていれば、必ずしっぺ返しがくる筈です。
駅に戻り、電光掲示板で7時19分発の大沼公園行きを確認し、ホームに走り、気動車に飛び乗りました。
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