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中舟生と奥久慈のヒガンバナ

2018-09-30 16:54:16 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 棚谷町高野の里の先、荻の窪で小さな峠を越えて、

 

 

 車は県道29号を北西方向へ進んでゆきます。

 

 道の脇に「そば街道」と書かれた石碑が見えていました。

 


 

 写真に撮り損ねましたが、ユーモラスな石像なども見かけました。

 

 対向車とすれ違うことのない道が、緑の中に、あるがままに続いていました。

 

 

 県道29号の最後に久慈川を渡り、国道118号へ右折すると、ほどなく水郡線の無人駅中舟生が見えてきました。

 

 しかし、本当は駅が見えたのではなく、国道をはしっていると、車窓にヒガンバナの群生が見えたので意識した途端、ナビが目的地に到着しました、とアナウンスしたのです。

 

 ナビを中断し、駅裏へ登る道に回り込んで行きました。

 


 

 無人駅のプラットホームを見下ろす小さな駐車スペースに車を止めて、草茂る斜面を適当に下って行きました。

 

 人気のないプラットホームホームに平行して、真っ赤なヒガンバナが花を咲かせ、その横に、僅かに花を付けたコスモスが列をなしていました。

 

 この場所もきっと誰かが草刈などの労務を提供しているはずです。

 


 

 コンビニも見当たらない集落ですが、朝夕はこの駅のプラットホームに、水戸の高校や勤め先に通う若い人達の姿が見られるかもしれません。

 

 無人駅のプラットホームを端まで歩くと、車を止めた丘に登る小道を見つけました。

 

 案内灯のように並んだヒガンバナは、日暮れの頃に帰宅する若人を、月の光の下で出迎えているのでしょうか。

 


 

 中舟生から更に国道を進み、大子町で久慈川を渡り、大子町左貫地区へ向かいました。

 


 

 大子町左貫地区には奥久慈茶の里公園があり、その周囲にヒガンバナを愛でる散策路が整備されていました。

 


 

 長閑な田園風景の中、収穫を終えた田の畔を赤い花が彩っていました。

 


 

 茶の里公園の中を流れるせせらぎの横やコンニャク畑を背にしたヒガンバナが目を楽しませてくれました。

 

 

 

 奥久慈茶は新潟の村上茶にならぶ北限のお茶として知られているそうです。

 

 冬が寒く、昼夜の寒暖差が激しい山間部で栽培されるお茶は味にコクがあって香が強い特徴があります。

 

 以前は「保内郷茶」と呼ばれていたそうですが、市町村合併を機に、今では「奥久慈茶」と称するようになったそうです。

 

 せせらぎの中に、薄紫色の素朴なツリフネソウを見かけました。

 

 山里のひなびた雰囲気にはこちらの方が似合っている気がしましたが、ツリフネソウでは、お客さんは呼べないだろうなと思いました。

 


 

 

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ヒガンバナが咲く条件

2018-09-30 00:12:01 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 次の目的地は水郡線の中舟生駅です。

 

 目的地を繋ぐ最短ルートをナビに入力してあるので、いったん走り出せば、全てがナビ任せです。

 

 常陸太田市の源氏川堤防から県道29号を北上し、和田町を経て棚谷町高野の里に入ってきました。

 


 

 当初の予定にはなかったのですが、雷神山の尾根を越える曲がりくねった道を上って行くと、周囲にヒガンバナの赤い花が咲き並んでいました。

 


 

 県道から脇道へハンドルを切り、路肩に車を止めて、花数が一番多い場所へ歩を進めると、角がまるくなった墓が、真っ赤な曼殊沙華に包まれていました。

 


 

 ヒガンバナは人が住む場所でしか見ることができない人里植物ですが、この場所のような墓や田の畔などに花を咲かせます。

 

 その理由を、先の源氏川堤防の状況と合わせ考えてみます。

 

 ヒガンバナは彼岸の頃に花を咲かせ、花が枯れた後、秋から冬にかけて地に寝そべる姿に葉を広げます。

 


小石川植物園2月

 

 ヒガンバナは、この時期に光合成を行い、球根に養分を蓄えます。

 

 ですから、ヒガンバナは冬に葉を茂らせる椿のような常緑樹の下に咲くことは殆どありません。

 

 そして、他の草や木が頭上に茂らせる春になると、何時の間にか葉を枯らし、彼岸の頃に突然花径を伸ばし花を咲かせるまで、夏の間は休眠状態になります。

 

 また、彼岸の頃に地面に光が注ぐことのない、ススキが茂るような場所にも、ヒガンバナが花を咲かせることはありません。

 

 墓や田の畔など、常に人の手によって除草が行われている場所にだけ、ヒガンバナは花を咲かせることができるのです。

 

 つまり、ヒガンバナは人里にあって、

 

 ● 秋から茂り始める葉に太陽光が降り注ぐような場所であること。

 

 ● 夏の終わりの頃、一定程度の光が地面に届く場所であること。

 

 の二つが、ヒガンバナが花を咲かせる必要条件と考えます。

 

 今回の東北にヒガンバナを訪ねる旅は、上記2条件を検証し、ヒガンバナの開花と気温との関係などを考える旅となりました。

 

 

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源氏川堤防のヒガンバナ

2018-09-29 12:52:46 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 楽しい事なら 何でもやりたい、知らない場所なら 何処へでも行く・・・

 

 などと鼻歌交じりに車を走らせ、常陸太田市新宿町の源氏川堤防にやってきました。

  茨城県常陸太田市新宿町1163番地~1382番地

 

 ドジョウやクチボソが泳ぎそうな、細い流れの両側に築かれた堤防の上に赤いヒガンバナが列をなしていました。

 


 

 周囲の風景の広がりの中でヒガンバナ見ると、それほどのことはないと思えるのですが、近寄っていくと、その数がとんでもないことに気付かされます。

 

  

 

 この場所のヒガンバナは、近くに住む星野良孝さんが2007年頃から堤防を整備しながら球根を植え始め、今では10万本を数えるそうです。

 

 堤防両岸の約300メートル程を、年に5回程除草作業を行ったそうですが、自分の畑でもない場所に費やした、今日までの労力を想像するだけで、ため息が出そうになります。

 

 

 この場所のヒガンバナを眺めながら、先にご紹介した梅津福次郎さんを思い出しました。

 

 この場所にヒガンバナを育てた星野良孝さんも、先の梅津福次郎も、生まれ育った故郷と郷里の人々を想う気持ちは同じです。

 

 私は今まで多くのヒガンバナ群落を見てきましたが、その多くが、花を見に来る人々の笑顔と地域の賑わいだけを考え、私利私欲を離れ、額に汗を流した人達の努力の賜物でした。

 

 誰もが子や孫に無償の愛を注ぐように、周囲の人々の為に、そして自分の満足感の為に、多くの人達が額に汗を流し続けてきました。

 

 そして、そのような場所に、今巡り合えた喜びを、このブログで上手くお伝えできると良いのですが。

 

 さてさて、そしてこんなことを書くのは口はばったい野暮の極みですが・・・

 

 私は、星野良孝さんや梅津福次郎のような生き様を見習いたいとは思いますが、しかしそれは、私が自分の満足感のためだけに山登りを趣味にするのと同じレベルの話と思うのです。

 

 と言うのも、私の周囲の方達は真面目すぎる人が多くて、

 

 私利私欲を離れて汗を流した方を褒めると、そのような人がエライ人、そうでない人は凡人だから、みんなエライ人になれるよう頑張ろう、みたいな話になりがちです。

 

 あの人はエライ、エラクナイって誰もが安易に口にしますが、エラクなければ価値がないと話がすり替わった瞬間、人間を値踏みする議論に繋がる可能性があります。

 

 この堤防にヒガンバナを植え続けてこられた星野良孝さんは、郷里を綺麗な花で飾りたい、郷里を活性化したい思いで作業を続けられたのだろうと思えるのです。

 

 雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の暑さにもまけず、欲はなく、決して怒らず・・・

 

 星野良孝さんはそんな方のように思われ、私もそうありたいものです。

 

 

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常陸太田市の昭和レトロ

2018-09-28 21:28:48 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 西蓮寺を後に、黄色い稲穂が広がる、のどかな田園地帯の中に車を走らせます。

 

 夏の気配を残したまま、白い雲を浮かべる青空の下に筑波山が望めました。

 


 

 はしり続ける片側一車線の国道の赤信号に止めた車窓の中で、静かな湖面を見せた霞ケ浦が濃い緑の灌木に縁どられていました。

 


 

 雲がすこしずつ空に広がってきましたが、僅かにクーラーを利かせた車内に50年代のジャズが流れ、車は交通量の少ない国道を順調に北へスイングしてゆきます。

 

 

 

 常陸太田市に入り、ナビのままに国道293の坂を登り進むと、なにやら昭和レトロな雰囲気の建物が見えてきました。

 

 すぐに路肩へ車を止めて解説板を確認しました。

 


 

 解説板には

 

 「登録有形文化財 梅津会館 昭和11年に太田町役場として建築された。

  南東角に角塔を持ち、正面に大アーチの車寄せを張り出した本格的な庁舎建築である。

 この建物は、常陸太田市出身で23歳の時に北海道函館に渡って海産物問屋を営み、成功を収めた梅津福次郎から三万五千円の寄付を受けて建てられた。

 福次郎は故郷への恩返しを忘れず、対象末期から昭和初期にかけて、この梅津会館をはじめ、久昌寺、太田高等女学校、西山修養道場、若宮八幡宮などに寄付をし、事業の援助を行った。

 

 昭和53年まで常陸太田市役所として利用された後、梅津福次郎の徳に因んで梅津会館と改称し、郷土資料館として活用している。」

 

 と記されていました。

 

 そしてこの方が梅津福次郎さんだそうです。

 


 

 日本には、様々な土地で、このような郷里のために財や労力を投じた人物の話が伝わります。

 

 北九州小倉の白洲灯台を建てた岩松助左衛門、愛知県知多半島の愛知用水完成に労を尽くした久野正太郎さん、等々。

 

 そして、それほどの規模なくても、人知れず、世の為人の為に小さな善意を積み重ねる人々が、私の心に温かな灯をともし続けてくれます。

 

 常陸太田市の市役所があったこの辺りは、鯨ヶ丘と呼ばれています。

 

 丘陵の起伏があたかも鯨が浮遊している様子に似ることから、この辺りを「久自」と名付け、それば「久慈」から「鯨が丘」に変じたと説明されます。

 

 そして、この辺りは平安時代末から500年近くに亘ってこの地を治め、後に秋田へ国替えとなった佐竹氏の居城があり、古くから商業や文化が栄えた場所だそうです。

 

 梅津会館の先で十字路を右に折れると、粗挽きそば、石臼うどんの暖簾を掲げた塩町館が目に入りました。

 

 この店は明治30年に建てられた旧太田銀行の建物を利用しているそうで、私は暖簾を潜りたい誘惑に駆られましたが、旅は始まったばかりで、今日のスケジュールを考えると、昼は予定通り、ハンドルを握りながらのコッペパンで我慢することにしました。

 


 

 車を路肩に止めたまま、塩町館の先へ足を運ぶと、三階建ての赤煉瓦作りの建物が見えてきました。

 

 この建物は、この地で酒造業を営んでいた「稲田屋」の稲田敬造氏が明治43年に建造したそうです。

 


 

 周囲を見回すと、往時には多くの人々が行き交う賑わいを見せたであろう商店街が、今は静かに息をひそめ佇んでいました。

 


 

 車に戻り、ナビのガイドのままに車を進めると、国道が丘を下り始めた場所に豊かな緑に包まれた神社を見かけました。

 


 

 殆ど車が通らない国道に車を止めて、神社名を確認すると、若宮八幡宮と記されていました。

 

 若宮八幡宮といえば、梅津会館の解説板に記載されていた、梅津福次郎さんが寄付をした神社です。

 

 石段を上って参拝してゆくことにしました。

 

 苔むす石畳みが社殿まで続いていました。

 


 

 参拝を終えて車へ戻るとき、巨大な二本のケヤキが、圧倒的な存在感を誇って空を覆っていました。

 

 ケヤキの根本に

 「若宮八幡宮のケヤキ、幹回 11.4m 根本 25m 樹高約30m 推定樹齢640年」

 

 と記された掲示板が掲げられ、茨木県の文化財に指定されているそうです。

 

 若宮八幡宮は1394年(応永元年)に13代佐竹義仁が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を奉り、1708年(宝永8年)に現在の場所に移されたそうですから、このケヤキは移築前からこの地に枝を広げていたことになります。

 


 

 神社を囲む石柵に寄ると、なだらかな丘陵地に挟まれた谷中に続く街並みが望めました。

                                  

    

 

 20年近い歳月、全国に花を求めて旅を続けてきましたが、今回初めて常陸太田市を訪ねることができました。

 

 車に寝具一式を積んで、日本全国津々浦々に足を運んできましたが、魅力的、個性的な文化と歴史に彩られた街が、まだまだ各地に眠っているのだろうなと、思わせてくれた常陸太田でした。

 

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西蓮寺のヒガンバナ

2018-09-27 12:07:42 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 西蓮寺の仁王門を入ると、ヒガンバナが境内の林の床を赤く染めていました。

 


 

 そんなヒガンバナの花の上を、黒揚羽が蜜を求め、ひらりひらりと舞っていました。

 

 そして不思議なことに、数多くの場所で私が見た限り、ヒガンバナに集うのはアゲハ蝶だけなのです。

 

 それがどのような理由なのかに興味を覚えます。

 

 更に不思議なことに、日本産のヒガンバナは、ほゞ全てが三倍体で種子を作りません。

 

 つまり、ヒガンバナは蜜を蝶に供給しても、蝶に花粉を運ぶという対価を期待していないのです。

 

 これだけ鮮やかな花姿に、花咲く理由を窺わせない不思議さが漂います。

 

 

 

 振り返れると、燃え立つようなヒガンバナの先に、初秋の明るい陽射しを浴びた仁王門が白く輝きました。

 

 

 

 西蓮寺は西暦783年(延暦元年)最澄の弟子の最仙上人が開山したと伝わり、常陸の高野山といわれると、解説板に記載されていました。

 

 境内には二本の大きな雄イチョウが枝を広げています。

 

 左の木は幹回り約6m、樹高25m、右の木は幹回り約8m、樹高27mで、両樹ともに樹齢千年を超えるとされ、見事な樹形を見せています。

 

    

 

 一本のイチョウの横に、見慣れぬ塔を目にしました。

 

 この塔は国指定の重要文化財である相輪橖で、元寇の戦勝を記念して、西暦1287年(弘安10年)に建立されたそうです。

 

 石造りの基壇の上に、木芯の周囲に銅製の筒をかぶせ、つなぎ目に帯わが巻いてあるそうです。

 

 相輪橖は天台宗の象徴とされ、比叡山延暦寺、日光輪王寺のものとならぶ貴重な構造物なのだそうです。

 


 

 車へ戻る途中、寺の敷地の横の小さな谷底を覗くと、赤いヒガンバナが緑の谷をまだら模様に染めていました。

 

 種を作らないヒガンバナがこのように増える理由は、球根が拡散する栄養繁殖以外にありません。

 

 そしてヒガンバナは人が住む場所だけに見られる、いわゆる人里植物ですから、最初は人の手によってその地に持ち込まれた筈ですが、ヒガンバナは球根にリコリンという毒が含まれ、モグラ除けとして田の畔に植えられる程ですから、動物が球根を拡散するとはあり得ないでしょう。

 

 とすれば、この谷にヒガンバナを広げたのは、降雨によっての、地表を洗う水流だった筈と、そんなことを考えながらカメラのシャッタを押しました。

 


 

 参考までに、小石川植物園で観察したヒガンバナ球根の状況を紹介します。

 

 ヒガンバナの球根は地中の浅い場所に作られます。

 

 雨などによって地表が洗われると、球根は容易に地表に露出します。

 

 

 

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そうだ、ヒガンバナを見に行こう

2018-09-26 15:15:19 | 東北のヒガンバナを訪ねて

 

 2018年の夏はとても暑く、東日本の6~8月の平均気温は平年比 +1.7℃で、統計を取り始めてから最も高く、西日本も平年比 +1.1℃を記録し、統計開始後としては二番目の暑さだったそうです。

 

 私は夏は暑い方が、冬は寒ければ寒いほうが季節感を感じて好きだったのですが、流石に前期高齢者になって体力の衰えを意識し、35℃を超えるような日は炎天下に出ることを控え、今夏は机に向かい植物のデータ整理に時間を費やしてきました。

 

 しかし、そんなことを続けていると、身も心も委縮し始め、このままでは本当に年寄りになってしまいそうで、新しい刺激に出会う旅への欲求が高まっていました。

 

 9月になると、台風が日本列島を横切り、日本海に秋雨前線が伸びて、東京は雲に覆われる日々が続き、気温も30℃を下回るようになってきました。

 

 ホームグラウンドにしている小石川植物園も、オミナエシやクズなどの秋の草花が咲き出し、優しい色を見せてシュウメイギクが風に揺れ始めました。

 

  

 

 9月7日に、最初の花を咲かせたヒガンバナが、16日にはほぼ満開状態となっていました。

 

 

 

 そうだ、ヒガンバナを見に行こう、そう思い付きました。

 

 2009年にはヒガンバナを求めて九州へ、そして2011年に山陰山陽地方へヒガンバナを訪ねましたが、関東北部と東北地方のヒガンバナは訪ねきれていません。

 

 車に寝具一式を積み込んで今東京を出発すれば、東北地方で満開のヒガンバナに出会えるはずです。

 

 そしてもう一つ、この数か月関心を持って調べ続けているアメリカスズカケノキが宮城、山形、岩手の3県に存在します。

 

 アメリカスズカケノキは、東京では小石川植物園や日比谷公園などに植栽されていますが、元からその数が少ない上に、確実にアメリカスズカケノキと判断できる木は都内でも10本前後を数えるのみです。

 

 アメリカスズカケノキを確実に識別する方法を確立したいのですが、特徴を見極める為には、更に観察数を増やす必要があります。

 

 ですから、アメリカスズカケノキを観察するためだけでも、上記3県を訪ねる価値はあると考えました。

 

 そして土日と敬老の日が重なる3連休が明けた9月18日火曜日、朝早く走り出した車は通勤ラッシュ前に都内を抜け出し、国道6号線を北上して、茨木県の土浦市を過ぎてから東へと進路を変え、10時半ごろ行方市の西蓮寺に到着しました。

 

 

 西蓮寺の駐車場には、既に観光客のものと思われる数台の車の姿がありました

 

 その駐車場の桜の木の下に、赤い毛氈を広げたような曼殊沙華が花を咲かせていました。

 

 正面に見える仁王門は国指定の重要文化財で、1543年(天文12年)に建立されたとのことで、掲示板には「室町時代末期特有の地方色をみることができる。」と記されていました。

 

 なかなかのお寺さんのようです。

 

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