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西日本に梅を訪ねて index

2020-08-26 04:17:52 | 西日本に梅を訪ねて

西日本に梅を訪ねて index

 

 1 旅への想い (今回の「花の旅」のいきさつ)

 

 2 霜白き梅林 紅梅に染まる渓 (赤目長坂梅林、月ケ瀬梅林)

 

 3 奈良盆地西部の梅林 

  (大和文華館、追分梅林、みんぱく梅林、馬見丘陵公園)

 

 4 「令和」の時代の梅の花 (万葉の森、広橋梅林)

 

 5 大日川梅林 賀名生梅林 (大日川梅林、賀名生梅林)

 

 6 広島から岩国へ (観音寺の椿、吉香公園)

 

 7 山口県光市の梅林(冠梅園)など (山口フラワーランド、冠梅園)

 

 8 周防と山口の梅、そして五色八重散椿 

  (防府天満宮、両足寺椿、古熊神社)

 

 9 山口の梅と大内文化 (龍福寺、香山公園)

 

10 萩の梅と椿と山茶花 (萩往還、虎ヶ崎園地の椿、指月山サザンカ)

 

11 日本で最も美しい、死ぬまでに行きたい絶景

  (元乃隅神社、角島大橋、鯖釣山椿)

 

12 下関で至福の時を味わう (妙青寺梅園、下関のフグ)

 

13 下関の覚苑寺と老の山公園 (覚苑寺、老の山公園)

 

14 下関市園芸センター (下関園芸センターの梅と椿)  

 

15 東行庵の梅と椿 (東行庵の梅と椿)

 

16 宇部市常磐公園、余田臥龍梅 (常磐公園梅林、余田臥龍梅)

 

17 広島の梅林 

  (広島市植物公園、三篠川堤、三原市浄水場、満汐梅林)

 

18 春の雪 (神崎梅林、津山市梅の里公園)

 

19 岡山の梅林 (RSKバラ園、半田山植物園、岡山後楽園、山麓窯梅園)

 

20 閑谷学校の梅林と椿林 (旧閑谷学校)

 

21 いなべの梅林公園 (いなべ市梅林公園「農業公園」)

 

22 奥三河の梅林 (川売梅園、木下梅園、名号梅林)

 

 

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奥三河の梅林

2020-08-25 17:21:13 | 西日本に梅を訪ねて

 

 いなべ梅林公園(農業公園)の景色を堪能し、次に愛知県新城市の川売(かおれ)梅園を目指しました。


 2010年2月に、愛知県と静岡県の梅林を訪ねましたが、川売梅園は山深い場所で、開花期が他所とズレる為、花を見ることができなかったのです。


 今回逃がすと、ジグソーパズルの絵に欠けたワンピースを見ているような気分が続きます。

 

 今日こそ穴を埋めるぞと、期待が胸に広がりました。


 いなべ梅林でナビに川売梅園の住所をインプットし、一般道経由を選択すると、走行距離136㎞と表示されました。


 車は桑名で国道1号に入り、そのまま名古屋を抜け、豊田市の山間部へと入ってゆきます。


 交通量の少ない田舎道を走っていると足助町と標示される場所に出ました。


 足助には、有名なカタクリの群生地があります。


 足助支所の駐車場に車を入れて、「足助総合案内図」を眺めつつ、カタクリの群生地を確認しました。


 足助のカタクリも、なるべく早い時期に訪ね来たいものです。

 

 
 川売の目的地に近づくと、車は農道のような細い道を進んで行きます。

 


 すると突然、五平餅の幟を掲げた店が現れたので、道路脇の駐車スペースに車を停めました。

 


 見回せば、濃い緑に縁どられた山村が、淡く優しい梅の花に染まっていました。

 


 売店の背に小川が流れ、道路は川を渡った後、山村の中へ蛇行しながら上ってゆきます。


 この先の道へ車で入ると、Uターンするのが難しそうです。


 何よりも、村の方達に迷惑を掛けそうなので、売店の周囲で梅を楽しむことにしました。

 

 
 村人らしき老夫婦が、休耕田で花見を楽しんでおられました。

 


  この光景に空腹感を覚え、五平餅を食べようと思ったのですが、竹串に3個連なる餅が、私には多すぎたので、味噌田楽で腹をなだめました。


 しかし、薬味が利いた甘めの味噌を纏ったコンニャクがぷりっぷりで、何時も食べるコンニャクとは一味違う食感が楽しめ、川売の味噌田楽、なかなかの一品でした。

 


 川売で絵本のような山里の雰囲気を満喫し、次の新城市名号(みょうごう)地区へ向かいました。


 名号地区も梅の開花が遅く、当初から川売と一緒に訪ねる予定だったのです。


 川売を出て、農道より少し広めの道を走っていると、

 

 
 予定外の場所で、華やかに枝垂れ梅が咲く景色を目にしました。

 

 
 すぐに駐車場に車を入れて、梅園に向かって歩いて行くと、

 

 「この梅園は、高齢夫婦が業者に剪定作業を依頼し維持しており、協力金をお願いしたい」旨の掲示と募金箱が置かれていました。


 ポケットに手を入れると、先ほどの味噌田楽のお釣りが手に触れたので、そのまま集金箱に投じました。

 

 


 園に居られた持ち主の木村正雄さんにお話を伺うと、梅の剪定作業時に足を骨折されて以降、梅園の作業は業者に委託しているそうです。


 これ程の梅を、毎年花を咲かせ、無償で解放し続けるのは容易ではないはずです。


 木下さんの善意による木下梅園、何時までも花を咲かせ続けて頂きたいと願わずにはいられません。

 


 木下梅園を出て30分後、ナビが「目的地に着きました」と告げた場所は、静岡県との県境に近い、新城市名号地区、うめの湯の前でした。


 うめの湯で遅めの昼食を摂って、壁に貼られた「梅花&史跡探訪MAP」を眺めますと、村全体に梅林が広がることが分りました。


 そこで、村の中央に位置する石雲寺へ足を運ぶことにしました。

 


 石雲寺で「町ごと屋根のない博物館」と題する掲示を目にしました。


 「節分草・1月下旬~3月上旬 石灰岩質の場所に自生します。

 梅・2月下旬~3月下旬 昭和3年、寺畑に200本の梅を植えました。

 放下・8月14日夜、笛鉦太鼓に合わせ、大団扇を背負って踊るお盆行事」

 と記されていました。
 

 


 寺の裏山の斜面を登りますと、斜面を覆う白い梅花の先に、猫の額ほどの狭間に、黒い屋根瓦を載せた民家が並ぶ、古き良き日本へタイムスリップしたような、懐かしい気分が味わえました。

 

 

 思い返せば、2月23日に東京を出て、長崎まで車を走らせ、長崎から五島へ船で渡り、再度長崎に戻って延々と車を走らせ、今愛知の山郷で梅の花に包まれています。


 そんな私の梅と椿を愛でる旅も、とうとう此処が最終目的地となりました。


 今回の旅から帰えった後は、日本全体がコロナウイルスに犯され、旅もままならぬ日々が続いています。


 しかし、帰路に見た富士山が、冬に雪を被り、春に雪を解かすように、雪も花もコロナも、良きことも悪しきことも、全てが流転する一時のことです。

 

 どんな時も、今を精一杯に生き、楽しまなければ勿体ない。


 どうぞ皆様も用心深く、健やかな毎日をお過ごしください。


 またお会いする日まで、どうぞお元気で、さようなら。

 

 

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いなべの梅林公園

2020-08-20 17:47:10 | 西日本に梅を訪ねて

 

 3月6日金曜日の朝、私は滋賀県彦根市街の周辺に位置する庄堺公園の駐車場で目を覚ましました。


 昨日は岡山県旧閑谷学校で、中国地方の梅巡りを終えた後、中部東海地方の、未訪問の梅園を訪ねながら、帰京の途に付きました。


 年金生活なので、時間には余裕がありますから、高速道路を走るようなことはしません。


 ナビに、三重県いなべ市梅林公園をインプットし、一般道経由のルートを設定し、ナビに任せて車を走らせました。


 ナビは六甲山裏側の三田市から川西に進み、摂丹街道を経て、京都の嵐山辺りから京都市内に入り、その後1号線を進むルートを選択しました。


 私にとってこのルートは、初めて走る道ばかりだったので、緑の丘陵地を縫って走る車窓から、関西地方の長閑な風景を存分に楽しませてもらいました。


 彦根で右折し国道306号を抜け、いなべへと向かう予定でしたが、彦根に着いた頃は既に20時を過ぎていましたから、閉店前のスーパーで夕食の弁当を購入し、彦根市周辺で、人家から離れた場所を探して、後部座席を倒して寝袋に潜り込んだのです。


 こんな風な車中泊の旅を、かれこれ20年以上も続けてきました。

 

 慣れない頃は心細くて、人家の灯りが見える場所に車を停めましたが、夜分になって、民家近くに他府県ナンバーの車が泊まれば、住民が不安がることに気づき、最近は人家から離れた場所を探すことにしています。

 

 翌朝は、空が明るくなり始めた頃に目が覚めて、国道306号をいなべへと向かったのですが、ナビが途中からあらぬ方向に車を導き始めました。


 不審に思って全ルートを確認すると、ナビは米原から関ヶ原を抜けて国道365号に入り、いなべ市へと至るルートを選択していたのです。

 

 どうやら、鈴鹿山脈の尾根を越える国道306号に通行規制が掛かったようです。


 かなり遠回りですが致し方ありません。


 そして、朝8時を過ぎた頃になって、国道365号を走っていると、正面に見えてきた山が雪で覆われていました。

 

 この時、ナビが迂回路を選択した理由を理解しました。

 


 更に小一時間ほども走ると、目の前に、雪を被った鈴鹿が、心洗うような清しさを見せてくれました。


 しかし、それにしても、夏タイヤであの尾根を越える道に進んでいたらと考えれば、背筋が凍ります。

 

 

 しかし、20㎞以上も遠回りして、走り来た甲斐は十二分でした。

 

 ご覧下さい、この見事な景色。


 今まで見てきた、どの梅園の景色も此処に優るものはないと思うのです。


 白い雪を被った鈴鹿山系を借景とし、朱とピンクと白に染まった梅林の美しさは、まさに桃源郷そのものです。

 


 広い園内を移動しながら、様々な表情を見せる梅林をカメラに納めました。

 

 

 それに付けても悔いのない、本当にいい人生だったな~ って、ん?!

 

 私はまだまだ、この世に別れを告げるつもりはないのですが、

 

 そんな風に、我が人生を思わせる、いなべ市の梅林公園でした

 

 人生の晩年に出会った絶景は、「ああ全て世はこともなし」と思わせてくれます。

 

 いなべ市の梅林公園、此処は、絶対に一度は見ておくべき場所だと思います。

 

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閑谷学校の梅林と椿林

2020-08-19 16:03:12 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山麓窯梅園を後に、2号線を旧閑谷(しずたに)学校へ向かいました。


 旧閑谷学校は、岡山藩主池田光政が寛文10年(1670)に創設した、日本初の(もしかすると世界初?)「庶民のための学校」です。


 私が始めて旧閑谷学校の名を知ったのは、小石川植物園で目にした楷の木(カイノキ)を調べる際、「旧閑谷学校に有名な楷の木がある」の一文に出会ったからです。


 それ以来、一度は訪ねたいと願っていましたが、旧閑谷学校には梅園椿林があることを知り、今回の旅では絶対に外せない施設の一つになりました。


 旧閑谷学校は国道2号線から、備前の谷の奥へ進んだ静かな環境の中にあります。

 


 駐車場に車を停めると、すぐ傍で白い花を咲かせた梅林を目にしました。


 梅の木は全部で20本程ですので、規模はそれ程ではありませんが、この梅林の価値は数で判断すべきものではありません。

 


 入場料200円(65歳以上)を払って旧閑谷学校の構内へ進むと、孔子を祀る聖廟の前に2本の楷の木(カイノキ)が並んでいました。


 楷の木は東南アジアに自生するウルシ科の植物で、大正4年(1915)に林学博士の白沢保美氏が中国孔子墓の楷の実を持ち帰り、育苗した内の2本だそうで、樹齢は100年を超えています。

 


 先ほど訪ねた岡山後楽園のクロガネモチと同様に雌雄異株なので、受付で2本は雌雄ですかと尋ねると、「2本ともにメンタ(雌)です」という答えでした。


 聖廟の前の広場の先に、国宝の講堂が丹精な姿を見せていました。

 

 
 講堂の内部を拝見すると、木の床が鏡のように輝いていました。

 

 こんな光景に接すると、無意識に背筋が伸びるのは何故なのでしょうか。
 

 

 長押(なげし)の上に「克明徳」の3文額が掲げられていました。


 それを説明する掲示物に、「克」は力を尽くして事を成し遂げ、「明」は物を正しく見る力、「徳」は善や正義をわきまえる高潔な品性と解釈する、と記されていました。

 

 


 この講堂では、小・中・高校生だけでなく一般・高齢者も事前に予約すれば、以下の「あいうえお論語」を教材とした学習が体験できるそうです。


「子曰く(し、のたまわく)  巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」などの講義を、この講堂で聴講してみたいものです。

 


 講堂の横の、敷地の奥へ通じる道を辿ってみました。

 


 校地外との境に設えた石塀は、美しいかまぼこ形に組み合わされ、石塀の地下には、深さ2m以上もの基礎が築かれているそうです。


 庶民の教育の為に、これ程の労力を費やした岡山藩主池田光政の情熱に頭下がる思いがします。

 

 

 石塀に沿って進むと、その先に古い校舎のような建物が見えてきました。

 


 この建物は、弘化4年(1847)に火災で焼失した学房後に建設された、私立閑谷中学校の校舎で、その後昭和39年まで閑谷高等学校に活用され、現在は資料館となっています。


 中に入ると、昔の学舎の懐かしい雰囲気が、そのまま保存されていました。

 


 資料館の壁には、閑谷学校のみならず、水戸の弘道館、栃木の足利学校、大分の咸宜園を紹介するポスターが掲示されていました。


 現在この4施設は「近世の教育遺産」としての世界遺産登録を目指しているそうです。
   

 

 

 

 ところで、椿林は何処かと、受付でもらったパンフレットを見直すと、閑谷学校に併設された池田光政の髪や歯などを納めた供養塚(御納所)が椿山であることが分りました。


 一旦外へ出て供養塔へ向かうと、さっき見た講堂の板の間のように掃き清められた土の道が、椿林の中に続いていました。

 

 
 私は今まで数多くの椿林を見てきましたが、これほどまでに手入れが行き届いた椿林を目にするのは初めてです。

 

 
 丁度、竹ぼうきで清掃されていた方に「綺麗な林ですね」と声を掛けると、「猪が荒らすので、手入れが大変です」とのお話でした。


 綺麗なまま保つ為に、手抜きのない労力が注ぎ続けられているようです。


 閑谷学校は何もかもが、楷の木のイメージ通りの、背筋がシャキッとするような、ストイックな雰囲気を湛える、教育の場そのものでした。
 

 

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岡山の梅林

2020-08-18 14:23:14 | 西日本に梅を訪ねて

 

 津山から国道429号を岡山市内へはしり、RSKバラ園の駐車場で開園を待って小ぶりな梅園を確認しました。

 

 

 RSKバラ園で梅園の確認を済ませた後、次の半田山植物園を目指しました。

 

 半田山植物園は一度訪ね来たことがあります。

 

 昔の画像を探すと2006年11月に撮影したツワブキの写真が出てきました。


 スライド用のフィルムで撮影していますが、ツワブキがいつもと異なる印象で撮影されていました。


 多分ツワブキしか咲いていなかったのでしょう。


 岡山駅から津山線に乗り、法界院駅から線路沿いを歩いた記憶が蘇りました。


 あの頃は金曜日に仕事を終えると、貴重な休日を、帰宅するだけに浪費しないよう、出張先の植物園などを訪ね歩いていました。

 

 
 今回の目的は梅と椿ですが、それ以外にも園内をくまなく見て歩きました。

 

 「長寿のソメイヨシノ」は、この場所に給水所が設けられた明治38年(1905)には、すでに植えられていたそうです。

 

 樹齢100年を超えるソメイヨシノは全国的に珍しいとの説明が付されていました。

 


 ジダレエンジュは中国原産で、中国で竜爪樹と呼ばれ、「出世の樹木」として珍重されるそうです。

 

 昭和9年(1934)に最初に日本に導入され、このような大樹は希少だそうです。


 オブジェのような樹形に興味をそそられました。

 


 園内の丘の頂きの一本松古墳は全長65メートルの前方後円墳で、西暦5世紀頃のものと推定され、出土された鉄槍や冑などの副葬品は東京国立博物館で保管されているそうです。
 

 

 日当たりの良い斜面にトサミズキやダンコウバイなどが仄かな花を咲かせ、

 

 

   
 梅林は明るい陽射しに包まれていました。

 


 南向きの斜面で、枝いっぱいにピンクの花を纏った見事なツバキカンザクラが春を告げていました。

 

 

   
 今朝、津山市の駐車場で、雪景色の中で目を覚ましたことが嘘のように思えます。


 しだれ梅が園路に並び、シナマンサクが趣深い花を咲かせていました。
 

 

 

 次に訪ねた岡山後楽園も二度目の訪問のはずですが、池で鯉を見た記憶しかありません。


 園内に入って、大きな茶畑が広がる光景に驚きました。


 庭園の中に茶畑を作らせた岡山藩主 池田綱政の質実合理な発想が窺えます。

 


 今回の訪問目的の梅林も、花を見る為だけのものではないのでしょう。

 


 園内を一通り巡って出口へ向かうと、正門横の鶴鳴館の前に、見事に剪定された二本の木に気付きました。

 

 

 

 しかし周囲に柵が巡らされて近づくことができません。


 気になったので、正門受付の女性に「あの木は何ですか」とお尋ねすると、分厚いファイルをめくって調べてくれて、クロガネモチであることが分りました。


 クロガネモチは雌雄異株なので、雌雄で植えられているのでしょう。


 クロガネモチは庭に植えると「苦労がねえ(なくて)金持ちになる」と云われますので、茶畑も含め、見た目だけではない作庭の意図や趣向を理解することができました。

 

 

 

 岡山後楽園を出て、国道2号線を東へ向かいました。
 
 車中で昼食のコッペパンをかじりながら1時間以上も走り続けると偶然、国道沿いに山麓窯の看板を目にしました。


 以前記したように、今回の旅に出る前に用意した旅程表を、五島のレンタカー会社に忘れてきたので、博多のネットカフェで旅程表メモを作り直しましたが、山麓窯の住所まで調べきれなかったのです。


 山麓窯梅園が気になっていたので、本当に幸運でした。

 

ネットカフェで作成した旅程表メモ

 
 駐車場へ車を入れて、建物に近づくと、梅まつりのポスターの下に「コロナウイルスの影響で中止」のお知らせが添えられていました。

 


 しかし、梅園には紅白の梅が咲き揃い、春の陽射しの中で、数人の方が静かに梅の香を楽しむ姿を見かけました。


 今日は3月5日木曜日の平日ですから、それほど人出は多くないのも当然ですが、陶芸品を展示するギャラリーも閉じられたままで、コロナウイルスの影響が、少しずつ全国に及び始めていました。

 

 

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春の雪

2020-08-17 10:55:02 | 西日本に梅を訪ねて

 広島県を出て岡山県に入りました。


 今回は行けませんでしたが、近いうちに必ず訪ねたい四国の梅ルートを想定し、そこへ繋げる山陽側の見どころを、どのように残すべきかを考えます。

 

 しかし直ぐに「少しぐらいミスったって何とかなる」と思い直します。


 旅の効率を考えすぎ、無理して事故でも起こせば全てゲームセットです。

 

 先を急ぐ車には道を譲り、見知らぬ街の景色を楽しみながらドライブを続けました。

 

 時々遊びであることを忘れて、ムキになるのが私の悪い癖です。


 三原市の満汐梅林から2時間ほど車を走らせ、17時過ぎに岡山市の神崎梅林に到着しました。


 もう既に、周囲は薄暗くなり始めていましたが、小雨が頬を濡らす梅園を歩きながら、梅の花を写真に納めました。

 


 この神崎梅林を含め、岡山市周辺では7ヶ所の梅園を訪ねるつもりです。


 そして今日はこれから、岡山市から北へ70㎞程離れた、津山市梅の里公園へ走ります。


 日が暮れた後は、移動に充てるのが私の何時もの旅のやり方です。


 夜のうちに次の目的地に移動し、夜明けとともに花を見て、朝世間が動き出す前に次へ移動すれば、飛躍的に訪問効率が高まります。


 どうすれば、そのようなルート設定になるかを考えるのも腕の見せ所です。


 この日も、移動途中で目にした田舎町のスーパーでお弁当と寝酒を買い、梅の里公園の駐車場に車を停めて、夕食の弁当を食べながら夜を過ごしました。

 


 翌朝、し~んと静まり返った不思議な気配の中で、車の窓ガラスを指でなぞると、外に雪景色が広がっていました。


 予想もしない事態に驚き、まず最初に頭をかすめたのは、「早くここから抜け出さなくては」でした。


 車は夏タイヤを履いていて、チェーンの用意ないのです。


 しかし一旦車外へ出ると、西の空に薄いベール状の雲が漂うだけで、東の空は明るく、天候は明らかに回復に向かいつつあるように思えました。

 

 此処に閉じ込められる心配はあまりなさそうです。


 それでも、長居をする気にはなれないので、園内を急いで巡ることにしました。

 


 小さな丘に梅林が広がっていました。


 そして梅林は冬と春が同居した、不思議な世界を見せてくれます。

 

 

 簡易舗装された道が、黒く光りながら丘を昇って行きます。

 


 梅園を見下ろす場所で麓を見下ろすと、田園風景が丘陵地の狭間に広がっていました。

 


 めったに、こんな光景に巡り会えるものではありません。


 千載一遇のチャンスと思うと、シャッター回数も増えます。

 


 梅林の中を横切る道は雪を被り、その道へ足を運ぶと、ズック靴に雪がまとわりついて、靴が濡れ始めました。


 去りがたい景色ですが、もし天候が急変すれば、身動きが取れなくなります。

 


 急いで丘を下ると車に戻り、次の目的地を目指し、国道429号線に車を進めました。


 車の進む先に見える峰は、中腹から上が白く化粧を施され、頂付近は霙交じりの雲に包まれていました。
 

 

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広島の梅林

2020-07-19 18:30:59 | 西日本に梅を訪ねて

 

 柳井市の余田臥龍梅を後に、広島へ向かって車を走らせました。


 最初の目的地は広島市植物公園です。


 この公園は私のお気に入りの一つですが、東京からはちょっと遠いので、気軽に来ることはできません。


 なので、今回のような機会があれば、寄らないわけにはいきません。


 小雨降る生憎の天気でしたが、まずは梅林へ足を向けました。


 正門右手の斜面が紅色に彩られていました。
 

 

 その先で、カワヅザクラとカンヒザクラが、季節の到来を告げていました。

 

 


 勿論、椿園も見逃すわけにはいきません。


 奥へ進んで、森のレストランの横を登ると、右手斜面一帯にツバキが花を咲かせていました。

 


 しかしやっぱり、雨の中では気力が続きません。


 温室に逃げ込むと、スイレン温室で熱帯睡蓮が可憐な花を水面に飾っていましたが、空は雨雲に覆われ、フィルム撮影が求める光の条件ではありませんでした。

 

 温室をクルリめぐって、植物公園を早々に切り上げることにしました。

 

 何事も、ダメと分かれば、すっぱり諦めることが肝心です。

 


 広島市植物公園を出た後、雨に濡れた国道を北上し、杉林が広がる峠を越え、

 


  広島市北西部の「ヒロテック梅の里」を訪ねました。


 ヒロテックは広島市に本社を置く自動車部品製造会社です。


 その㈱ヒロテックの湯来工場に梅林を訪ね来ましたが、残念でした。

 

 

 事務所の方にお話を伺うと、工場敷地の改築中で、一般公開の継続を検討中とのことでした。


 梅見客が怪我でもすれば大変ですから、ごもっともなお話です。


 そして次に、広島県三原市を目指しました。


 ナビにアドレスを入れ、画面の「案内開始」をタッチし、ナビのお嬢さんのアナウンス通りに車を走らせます。


 広島の北部を東へ、三篠川(みささがわ)に沿って県道37号(白木街道)を走ると、対岸の梅並木が花を咲かせているのに気付きました。


 川堤に桜並木はよく見かけますが、梅の並木が川面に映る景色は初めて見る気がします。
 

 

 桜の可能性もあると思い、国道を左折して白木山橋を渡り確認しましたが、梅の花に間違いはありません。


 下がそのときの写真です。


 ウメとサクラの見分け方は以前「春の景色に巡り会う」に記しましたが、梅は枝に一輪ずつ付きますが、桜は複数輪が束になって花を咲かせます。

 

    
三篠川堤の梅           小石川植物園のソメイヨシノ

 

 1時間半ほど走り、三原市浄水場の敷地内にある西野梅林に到着しました。


 この辺りは、旅の途中で菅原道真が梅を植えたことから、地区に「梅林」という地名が残るほど、江戸時代は多くの梅が花を咲かせていました。

 

 しかしその後の宅地開発などで梅が減り、それを嘆いた市民有志が、この場所に梅を植え育てているそうです。


 地域の子供たちが、郷土に誇れるものを作りたい思いがあるようです。


 日本という国は、何処にいっても各地に、将来を背負う子供たちの為に汗を流す人々の姿を見かけます。


 私は新潟に6年暮らしましたが、このような話を聞くといつも「長岡藩の米百俵」を思い出します。

 

 
   

 次に三原市深町の菰口山山頂に広がる満汐梅林を訪ねました。


 しかし入り口にロープが張られ、その先の坂に、止め石のようにプラスチック製のビールケーズが置かれていました。


 閉園中かと思い、先に来ていた広島ナンバーの方に「休園なんでしょうか?」と聞くと、さっき管理者に電話をしたら、2~30分後に行くと言われ、待っているそうです。

 

 そうですよね、こんな時に携帯かスマホがあれば便利でしょうね。


 暫くして、車で来た元気なおばさんの後について坂道を上ると、見事な梅林の広がる景色を見ることができました。


 園内の七福神巡りを勧められましたが、今回の旅の主旨を説明し、この梅林の由来などをお聞きしました。

 


 満汐梅林を経営する濱浦さんは、元は「満汐丸」という漁船を有する尾道の漁師さんだそうです。

 

 お父様がこの場所を開墾し梅を育て、観光農園の営業もしつつ、梅ジャムや梅ジュースなどの加工も行う6次産業農家さんなのだとか。


 電話を受けて、尾道から車を走らせ、ゲートを開けにきてくれたそうです。


 私はお話を聞かせてもらったお礼のつもりで、お土産に梅プリンを買いましたが、帰宅後に、満汐梅林の景色を思い出しながら、上品な味の梅プリンを楽しむことができました。

 

 

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宇部市常磐公園、余田臥龍梅

2020-07-18 16:07:41 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山口県宇部市の常磐公園は、温室の花を撮る目的で2010年12月24日に来ていますので、今回は10年ぶり二度目の訪問ということになります。

 


 常磐公園にはかって、カッタ君という人気者のモモイロペリカンがいたので、常磐公園の名は全国に広く知られていました。


 私のパソコンを探すと、10年前に、池に浮かぶ白鳥を写した写真が出てきました。


 あの時は、ここにも白鳥が飛来するのか! と驚いた後すぐに勘違いと気付いた記憶があります。

 

 なにしろ北海道や新潟での生活が長かったので、冬にシベリアから飛んでくる白鳥しか見たことがなかったのです。

 


 
 常磐公園の正門に着いた頃は16時頃だったので、梅林の位置を確認すると、急いで車を梅林に近い東駐車場へ移動しました。

 

 しかし常磐公園の梅林は、来るべきタイミングを完全に外したようです。


 100本あるという、紅梅と白梅の殆どが花を散らせていました。


 花を訪ねる旅は、タイミングを合わせるのが本当に難しいのです。

 

 


 常磐公園で梅林の様子を確認し、本日の花巡りは終了です。


 そして私は、次の目的地である山口県柳井市余田川添の臥龍梅を目指し、国道の車列に加わりました。


 ナビには目的地まで、100㎞弱の距離と3時間強の走行予定時間が示されていました。


 途中のスーパーマーケットで、夕食のカツ弁当と寝酒の缶酎ハイ、朝食用のクロワッサンとミルクティーなどを買い求めました。


 何処だったかをはっきりと覚えていないのですが、多分防府を過ぎた辺りで銭湯を見つけ、二日ぶりのお風呂を楽しみました。


 その夜は、霧雨が降る余田臥龍梅の駐車場に車を停め、寝袋の中で500mlの缶酎ハイを飲み干し、後は白河夜船でした。


 翌朝外が明るくなる気配に目を覚まし、寝袋に半身を納めたまま朝食を済ませ、車のドアを開けて、カーペット状に広がる、雨に濡れた枯れ草に下りて臥龍梅を眺めました。

 


 臥龍梅は元株が既に枯死し、その株から伸びた枝が地に根を張って独立した「飛び梅」が、山の斜面に梅林を成しています。


 この梅も花の盛りは過ぎて、白い花の後に残る萼が、枝を微かに赤く染めていました。

 


 元株の梅は室町時代のものと伝えられ、昭和8年に国の天然記念物に指定されたときは、根廻が5.5メートルもあったそうです。
 

 5年前に九州の梅を訪ねた時、各地で幾つかの臥龍梅を見てきたことを思い出しました。


 そこでふと、全国に臥龍梅がどれぐらいあるか気になり、ネットで検索調査してみました。


 全国に32か所を数えましたが、仙台市の臥竜梅は、その殆どが一本の木から株分けされたものらしく、実際には全国で十数株程度と判断すべきかもしれません。

 

 

全国の臥竜梅 茶色は非公開

 

北海道松前町

松前公園の臥竜梅

松前町字松城(松前公園 松前神社) 

岩手県山田町

大沢の臥竜梅

岩手県下閉伊郡山田町大沢

宮城県登米市

旧亘理邸の臥竜梅

登米市迫町佐沼字内町63-20

宮城県松島町

瑞巌寺の臥竜梅

宮城郡松島町松島字町内91

宮城県仙台市

西公園の臥竜梅

仙台市青葉区桜ヶ岡公園1-3

宮城県仙台市

大願寺の臥竜梅

仙台市青葉区新坂町7-1

宮城県仙台市

瑞鳳殿の臥竜梅

仙台市青葉区霊屋下23-2

宮城県仙台市

片平公園の臥竜梅

仙台市青葉区米ヶ袋1-140-6

宮城県仙台市

柏木の臥竜梅

仙台市青葉区柏木1丁目5-2

宮城県仙台市

高等裁判所の臥竜梅

仙台市青葉区片平1-6

宮城県仙台市

愛子の臥竜梅

仙台市青葉区愛子中央5丁目8番25号

宮城県仙台市

伊達政宗公の臥竜梅

仙台市若林区古城(宮城刑務所)

宮城県仙台市

林香院の臥竜梅

仙台市若林区新寺5-1-1

宮城県仙台市

松音寺の臥竜梅

仙台市若林区新寺4丁目6-28

宮城県仙台市

聖ウルスラ学院の臥竜梅

仙台市若林区一本杉町1−2

宮城県仙台市

野草園の臥竜梅

仙台市太白区茂ヶ崎二丁目1-1

宮城県仙台市

園芸センターの臥竜梅

仙台市若林区荒井字切新田13-1

福島県福島市

浄楽園の臥竜梅

福島市桜本字荒神38

茨木県水戸市

偕楽園の臥竜梅

水戸市常磐町1-3-3 複数個体

茨木県水戸市

弘道館の臥竜梅

茨木県水戸市三の丸1-6-29

茨木県水戸市

鹿島神社の臥竜梅

茨木県水戸市三の丸1-6-4

千葉県四街道市

名主屋敷の臥竜梅

四街道市鹿渡626

神奈川県横浜市

三溪園の臥竜梅

横浜市中区本牧三之谷58-1

長野県須坂市

興国寺の臥竜梅

須坂市臥竜3丁目3番1号

三重県伊勢市

新開の臥竜梅

伊勢市御薗町新開

山口県柳井市

余田臥竜梅

柳井市余田河添2450番地

福岡県大牟田市

普光寺の臥龍梅

大牟田市大字今山2538

大分県大分市

吉野梅園の臥龍梅

大分市杉原537

宮崎県新富町

湯之宮座論梅臥竜梅

新富町大字新田字湯之宮

宮崎県宮崎市

月知梅臥竜梅

宮崎市高岡町高浜323-2

熊本県八代市

松井神社の臥龍梅

八代市北の丸町2-7

熊本県天草市

延慶寺の兜梅臥龍梅

熊本県天草市浜崎町9-32

 

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東行庵の梅と椿

2020-07-16 23:36:51 | 西日本に梅を訪ねて

 高杉晋作の墓所に約100本の梅が花を咲かせる、だけの知識で東行庵(とうぎょうあん)を訪ねました。

 

 「東行」というのは高杉晋作の号であることも認識していませんでした。


 駐車場に車を停めると、最初に高杉晋作の像が出迎えてくれました。

 

 
「東行庵」を説明する掲示を目にしました。

 

 

 そこに、


 「この地は清水山と称し、幕末の頃騎兵隊軍監山縣有朋が草庵を建て無隣庵と名付けた。

 

 1867年(慶応3年)4月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を騎兵隊の本拠に近いこの地に葬った。

 

 晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)が出家したので、山縣は1869年(明治2年)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。


 現在の庵は明治17年に伊東博文・山縣有朋・井上馨等の寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。」


 と記されていました。
 

 そして、「曲水の梅苑」の名を刻んだ石碑とともに、

 


 晋作が最も好んだと言われる梅が、枝々に花を飾っていました。

 


 墓碑に「東行墓」と刻まれた高杉晋作の墓が、晋作を紹介する一文を添えて、石柱に囲まれていました。

 

 


  
 「高杉晋作(号東行)は1839年(天保10年)長州藩士の長男として萩に生まれた。

 

 18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村熟に入門したのを転機に稀代の革命戦略家として頭角を現す。

 

 1863年(文久3年)長州藩が外国艦隊と砲火を交えるに及んで奇兵隊を組織し自ら初代総督となる。

 

 以後各地に封幕線を指揮し明治維新のさきがけとなったが1867年(慶応3年)4月13日下関において結核のためその雷電風雨の如き27歳8か月の生涯を閉じた。


 遺言により、ここ奇兵隊本拠地吉田清水山に土葬される。」

 

 

 

 すぐ近くで、愛人うの(梅処尼)の墓が緑に包まれていました。

 


 そして東行庵には椿がある筈です。


 案内図を頼りに、椿の路を100メートル程も進むと、

 


 千本椿園の看板を掲げた椿園に致りました。

 


 東行庵の第3世庵主である谷玉仙尼は椿が好きな方で、東行庵椿会を設立し、椿展を開催したり、椿の第一人者の桐野秋豊さんを招き、指導を受け、近隣をめぐって椿の探訪をしたそうです。

 

 そして、谷玉仙尼がこよなく愛したのがあの「玉之浦椿」だそうで、今も椿園のどこかに花を咲かせるそうです。


 幾つかの木に花を見かけましたが、残念なことに名札が見当たりません。


 椿園芸種は名を伴ってこそなので、勿体ないことです。

 

 そう言えば、先に訪ねた下関覚苑寺の乃木希典の銅像には、


「武士(もののふ)は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそおしけれ 希典」


 と記されていましたが、椿も武士同様に、名が大事なのです。

 

 


 椿園から戻る途中、多くの墓碑を見かけました。


 これら墓碑は、東行庵三世谷玉仙尼が、維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くが10代、20代の青年だったこともあり、無縁仏となって荒れ果てるケースが多いのを嘆き、各地から隊士の墓を集め供養したそうです。


 花を愛した谷玉仙尼には、新しい日本を夢見て、命を散らせた若者達の心の花が見えていたのでしょう。

 


 東行池の周囲を歩くと、池の畔に、樹齢50年のサザンカ「藤の峯」を見かけました。


 東行庵は「山陽花の寺二十四か寺」の第8番札所だそうで、サザンカが約100本植栽され、11月下旬にはサザンカ・ツバキ祭りが開催されるそうです。


 少し余談ですが、樹齢50年のサザンカの幹の太さに着目して下さい。

 

 この木の太さに比べると、指月山サザンカの凡その樹齢が推測できます。

 

 

 

  
 東行庵ではツバキ、サザンカ以外に、ツツジやハナショウブなども花を咲かせるそうです。


 これからも可能な限り続けたいと思う「花の旅」の途中で、幾度かお寄りすることになりそうです。

 

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下関市園芸センター

2020-07-14 14:20:38 | 西日本に梅を訪ねて

 

 往路で閉園時間に間に合わなかった、下関園芸センターに向かいました。

 

 今回ナビに誘導された場所は園芸センター裏手の駐車場でした。

 

 駐車場に掲げられた案内図を確認し、園芸センターを左回りに巡ることにしました。

 

 

 車から降りて鑑賞温室に近づくと、ビオラ品種展示会の準備が進められていました。

 

 

 夫々の鉢に咲く花のどれもが可憐で、花弁の配色が魅力的です。

 

 急いで車に戻り、三脚とフィルムカメラを持参し、ビオラの撮影を始めました。

 

 

 

 以前のページでも紹介しましたが、私がブログ「花の旅」を始めた切っ掛けは、ホームページの「四季の花」に写真を掲載し始めたことに因ります。

 

 「四季の花」をスタートさせて数年後に、掲載する写真は掲載日の前後4日以内に撮影したものと定めました。

 

 スタートした頃は、機能性に優れた一眼レフのデジカメが超高価だったので、学生時代から使いなれたニコンのカメラで、コダック社のリバーサルフィルムを用い、全国の植物園などで撮影を続けていました。

 

 リバーサルフィルムは現像をラボに依頼しますので、翌年以降に掲載する写真のストックがなければ、撮影日前後4日以内の掲載はできません。

 

 当初は写真のクオリティを省みる余裕はありませんでした。

 

 しかし今では、100歳を超えて対応できる掲載予定日もあります

 

 そして次の目標は、週2回更新できるストックとクオリティーの確保です。

 

 実現するか否かは別にして、撮り溜めた花の情報を集め、コメントを考える作業は本当に楽しいものです。

 

 

 

 

 園芸センターの温室で、当園オリジナルの「海峡の翡翠」と名付けられたスイレンが花を咲かせていました。

 

 

 この花は咲きすすむにつれて、水色から翡翠色に花色が移ろい、キンモクセイカトレアよりも甘く強い香りを放つそうです。

 

 この花を撮影した写真もストックしましたが、現在使っているフジフィルムは赤が強調され過ぎるので、それを掲載すべきか否かが悩ましいところです。

 

 

 

 観賞温室のエントランスで、あの「玉之浦椿」が花を咲かせていました。

 

 高さが1メートルにも満たないので、大事に温室で育られているようです。

 

 

 園芸センターは、この観賞用温室以外に、熱帯果樹温室、鉢物温室、洋ラン温室、サボテン温室、ベゴニアアナナス温室が整備されていました。

 

 それ以外にも花ショウブ園やバラ園などを見かけましたが、花好きの人には嬉しい施設だと思います。

 

 温室を一通り見終え、管理事務所の前を通り、小高い丘のツバキ園に向かいました。

 

 

 ツバキ園には東洋系ツバキ80品種、西洋系ツバキ70品種が植栽されています。

 

 下関園芸センターは近年、「壇之浦」「赤間手毬」「下関千年浪漫」という品種を作出し、日本ツバキ協会が新品種を認定しています。

 

 

 こんもり茂るツバキの中を進み、梅園へ向いました。

 

 梅園には10品種、鹿児島紅、緑萼、緑萼枝垂、鶯宿、吾節舞、呉羽枝垂、甲州最小、白加賀、乙女舞、豊後紅梅、が植栽されているとの掲示を目にしました。

 

 

 園芸センターには14品種の梅が見られるそうですから、他の4品種は梅園以外で花を咲かせているのでしょうか。

 

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下関の覚苑寺と老の山公園

2020-07-12 16:51:33 | 西日本に梅を訪ねて

 

 2月24日に奈良の梅林を巡った後、広島から山口県の防府、山口、萩を経て下関へと旅を続けました。


 2月28日に下関から長崎へ移動し、29日のフェリーで長崎港から五島列島に渡った旅は「五島列島の世界遺産と椿」と題するブログに記した通りです。


 3月2日の夜に五島の中通島から長崎港へ戻りましたが、実はこのとき私は、中通島のレンタカー会社に旅の行程表を置き忘れていました。


 そのことを、長崎港の駐車場の自車に戻って気付きました。


 かなり入念に作成した行程表がなければ、旅を続けることは殆ど不可能です。


 そこで博多のネットカフェで、自分のホームページなどを参考に、もう一度旅程を組み立て直すことにしました。


 長崎でネットカフェを探すより、博多に行くほうが早いと判断したのです。


 これが、3月2日の夜に博多の屋台で寝酒を飲むことになった経緯です。

 

旅の行程表の一部

 

 
 ネタ晴らしは以上ですが、3月3日の10時半ごろ私は、下関の覚苑寺(かくおんじ)の境内で梅を探していました。


 覚苑寺は毛利家の菩提寺の一つで、1698年(元禄11年)に毛利綱元が建立しています。

 


 
 境内に、日露戦争で難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木希典(のぎまれすけ)の銅像を見かけました。


 この像は、乃木将軍を敬愛する住職が、昭和14年に托鉢で基金を募り建立しましたが、戦時中の金属不足で供出された後、昭和30年に、全国からの寄付で再建されたそうです。

 

 そう言えばふと、子供の頃に「だるまさんがころんだ」の遊びで、意味も分からずに「乃木さんは偉い人」と唱えたことを思い出しました。

 

 

 境内の一画に梅園を見つけました。約50本の梅が花を咲かせるそうです。

 


 覚苑寺が建つ場所は、明治から大正にかけての発掘踏査で、奈良時代に日本で最初に流通した貨幣「和同開珎」が鋳造された長門国鋳銭所跡であることが分り、出土遺物は国の重要文化財として、長府博物館に所蔵されているそうです。

 


 次に、彦島の老の山公園に向かいました。


 この時私は初めて、下関の先端部が島であることを知りましたが、今筆を走らせつつここを「本州最南端」と書こうとしましたが、ふと気付き、地図で本州最南端は和歌山県潮岬であることを再確認しました。

 

 フー 危うく嘘を書くところでした。

 

 

 老の山公園は老の山の頂上一帯を整備した公園ですが、駐車場に車を停めて、芝生広場を高見へ進むと、眼下の響灘に幾つかの島々が見えてきました。

 


 更に園路が伸びる先へ進むと、目の前にゴルフ場のような景色が広がり、この公園がとてつもなく広いことが分りました。


 老の山公園は当初の予定になかったのですが、昨晩、博多のネットカフェで新に加えた場所なので、私は此処へ何しにきたのかが分からなくなっていました。
 

 

 致し方なく目に付いた椿を撮影してお茶を濁しましたが、今調べ直すと、この公園のどこかで、80本の梅が香を放つようです。

 

 
   

 

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下関で至福の時を味わう

2020-07-10 19:47:29 | 西日本に梅を訪ねて

 

 思いがけない場所で椿群生地を見出し、気分良く、山口県を日本海に沿って南下しました。


 次の目的地は下関市豊浦の「リフレッシュパーク豊浦」です。


 私は全国の植物園や花公園のリストを作り、それをホームページで公開しています。

 その中の候補の一つである「リフレッシュパーク豊浦」を植物園か花公園のリストに加えるべきか迷っていました。


 植物園や花公園は「多種類の植物を観察できる場所」を判断基準とします。

 コスモス畑バラ園などに特化した施設は、夫々にページを分けています。 

 


 車を降りて門へ進み、受付で「どんな花が咲いていますか?」と尋ねました。


「今は、奥でナノハナが咲いています」とのことでした。


 受付横のガイドマップに、バラ、コスモス、パンジーなどの写真が掲げられていました。

 

 10月上旬にコスモスが100万本咲くことが確認できましたので、従来通りに「コスモスの名所」にリストしておくことで間違いはなさそうです。

 


 次に同じ豊浦町の、妙青寺梅園に向かいました。

 


 妙青寺が風格ある山門を備えていました。

 

 山門を潜り、静寂に包まれた境内へと歩を進めました。

 

 本堂の裏にまわると、雪舟が構築した庭が池に水を湛えていました。

 


 そして、その先の小高い斜面に、100本の梅からなる梅林を見出しました。


 梅は樹齢が進んだ故か、花を付けた若枝が少ない気がします。

 


 妙青寺は周防・長門の守護職の大内持盛が1431年(永享3年)に川棚に国清寺を建立し、江戸時代になると、長府の初代藩主毛利秀元が実姉の妙青大姉を埋葬するために伽藍を修理し、妙青寺と名を変えたそうです。


 この地の川棚温泉は、1932年(昭和7年)に種田山頭火が3ヶ月滞在し、300を超える句を詠んでいます。


 その句が句碑となっていました。


   「湧いてあふれる中に ねている」

 

 山頭火の句碑を見るのは今回が二度目です。


 前回は大分の宇佐神社の境内でしたが、その時も九州の梅を巡る旅の途中でした。


 句碑の横に、山頭火が川棚温泉に滞在した経緯が記されていました。

 

 

 山頭火は托鉢をしながら句作を続け、昭和7年5月、50歳の時に川棚温泉にたどり着きます。

 

 この地で草庵を結びたいと願いますが、その夢は叶わずに、山口市小郡へと去ったそうです。

 
 「山頭火の旅」を検索し、ウィキペディアに次のような記述を見つけました。

 

 山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父、セルゲイ・ツルゲーネフに似ており、美男子で体格がよく、意志薄弱で好色、結婚も財産目当てであった。

 

 竹治郎はセルゲイよりもお人好しで、寛容な人物であったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。

 

 冷ややかで好色、意志薄弱という特徴を備えていた。

 

 いやはや何ともですが、こんな人が父親だったら、神経をやられるのは当然かもしれません。

 

 もう書いても、誰も傷つかないと思いますが、私の実母の父(祖父)も相当な人物だったようです。

 

 下関園芸センターで、見事な大寒桜が満開の花で出迎えてくれました。

 


  事前の調査で、下関園芸センターには14種50本の梅と200種420本の椿が植栽されている筈です。


 管理棟から出てきた職員らしき人に、梅園はどちらでしょうか?と尋ねますと、


 「4時で閉園しました」と言われました。


 実は、この時はすでに16時30分を過ぎていたのです。


 迂闊でした、下関に着く頃はまだ青空が広がっていたので、すっかり時間を忘れていたのです。


 まあ、出直せばいいだけのことですが。

 

 

 そして実を申せば、私の意識の多くは、下関=フグなのです。


 大学受験に失敗しての予備校で、講義中に講師から、下関でフグを食べた話を聞かされて以来、私も下関へ行ったら絶対にフグを食べるぞと、50年程も念じ続けてきました。


 何時もの如くコインパーキングに車を停め、下調べしておいた、下関駅近くの「おかもと鮮魚店」という大衆居酒屋の暖簾を潜りました。


 18時を少し過ぎた頃でしたが、既に店は満席でした。


 そして席について、最初にひれ酒、

 

 
 そして次が白子、

 (久しぶりの白子があまりにも嬉しくて、写真撮影の前に箸を付けています)

 


  至福の時が流れました。


 ひれ酒の追酒をたのみつつ、刺身の盛り合わせを注文しました。

 

 

 ん~ どれもこれもが満足至極で、極楽とんぼ。


 生きててよかった!
 

 

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日本で最も美しい、死ぬまでに行きたい絶景

2020-07-09 20:01:48 | 西日本に梅を訪ねて

 

 萩を11時頃に出て、昼を過ぎた頃、山口県長門市の千畳敷で海を眺めていました。


 目の前の海岸で虫垂のように突き出た今岬の奥に青海島が、更にその奥に萩市沖の島々が見えていますが、写真でははっきりしません。


 青海島の周囲には、9000万年前の火山活動や地殻変動で生じた断崖や奇岩、洞門などからなる「海上アルプス」と称される絶景が連なり、それを海から眺める遊覧船が運航されていますが、今回はパスしました。

 

 今は2月下旬なので、もう少し温かい季節にまた来ようと思います。

 


 今居る場所の千畳敷は標高333メートルの高台に草原が広がる絶景の地ですが、この日は強烈な風が吹き荒れていました。


 キャンプ場もあるので、新緑の季節に、ここで星を眺めながら夜を過ごせば、思い出深い旅となることでしょう。

 

 今度来る時はそうしたいと思います。

 

 (鬼がどこかで笑っていますが、無視、無視)

 


 千畳敷から10数分程はしると、元乃隅神社に到着しました。


 アメリカのテレビ局が元乃隅(もとのすみ)神社を「日本で最も美しい場所31」に選定して以来、日本国内より先に海外にその名が知られた場所で、昭和62年から10年かけて建てられた123本の朱塗りの鳥居が、100メートル以上も海へ向かって連なります。


 今回の旅の目標の一つだったのですが、正直なところ「日本で最も美しい場所」とまでは思いませんでした。

 

 多分、アメリカ人の目と私の目には若干の位相差があるのでしょう。

 


 元乃隅神社のすぐ横で、竜宮の潮吹きと呼ばれる噴潮現象(岩礁内に縦穴があり、その下口に波が打ち寄せると潮が空に吹き上がる)が見られる場所がありますが、こちらは冬に北東風が吹き付けるときにだけ見られるそうです。

 


 前回のブログに書きましたが、50年程前に一度、普通列車でこの辺りを通過しましたが、山口県の日本海側を旅するのは初めてに等しいので、花だけでなく、主要な観光地も見て歩く予定です。

 

 次に訪ねたのが角島大橋でした。


 この橋は「死ぬまでに行きたい!世界の絶景」(何と大仰な!)で第3位に選ばれた名所中の名所です。

 


 角島大橋は1993年(平成5年)に着工し、2000年(平成12年)に開通しました。

 

 橋は国営公園内に位置する為、景観への影響と考慮し、橋脚の高さを押さえた構造になっています。

 

 更に景観保護の観点から、本土と角島の間の鳩島を迂回する架橋ルートにしたことなどが評価され、2003年に「土木学会デザイン賞2003」の最優秀賞を受賞しています。


 テレビCMのロケ地として使われることも多いので、誰もが見覚えのある景色の一つかもしれません

 

 

 この橋を見て、渡ってみたいと思わない人は居ないはずです。


 島に渡り、角島灯台や牧崎風の公園などを訪ねました。


 この日は何処に行っても風が強く、牧崎風の公園の遊歩道を歩くと、躰が風にもっていかれそうになりました。

 

 


   
 角島を出て、国道191号を淡々とはしり、たまたま信号停止した場所で、赤いマジックで「中止」と記された「鯖釣山椿祭り」のポスターに気付きました。


 「椿祭り」ということは、鯖釣山にツバキの群生地か椿園があるはずです。


 しかし、ナビを確認しても鯖釣山へ至る道が分かりません。


 周囲にコンビニも見当たらないので、道路に面した一軒の民家のドアをノックして、鯖釣山への道を尋ねました。


 鯖釣山の登山道は、国道と並走する山陰本線の反対側の旧道(県道270)を進み、山麓の鉄筋アパート横の細道を数百メートル程も進んだ先の、小さな砂防ダムの横にありました。


 登山口脇の「鯖釣山自生椿群生林整備事業」と題する掲示に


 「ふるさとのシンボル的な森林の再生を目的として、国土緑化推進機構「緑の募金」の活用と、地域の方々の参加協力により実施されたものです。

 

 「緑の募金」は「ファミリーマート夢の掛け橋募金」からの寄付金によるものです、と記されていました。

 


 砂防ダムの横に車を停めて、登山道を少し登ってみました。

 


 鞍部まで登ると、右手に小高いピークが見えてきて、そのピークと登山道が伸びてゆきます。


 登山道の周囲のツバキ林に赤い花を認めました。

 


 私はこの場所で、鯖釣山椿群生林の凡その状況が理解できたと判断し、この場所から車へ戻りました。


 しかし実は、本当の鯖釣山182mのピークは鞍部の左手にあって、山頂への道はシダが茂る藪道だそうです。

 

 ちなみに、上の写真に写っているのは湯玉城山193mで、多くの人がこのピークを鯖釣山と勘違いするそうです。

 

 「鯖釣山椿祭り」が中止となったように、新型コロナの影響が全国に及び始めていました。

 

 私はぎりぎりのタイミングで旅を続けていたようです。

 

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萩の梅と椿と山茶花

2020-07-05 20:32:31 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山口の瑠璃光寺から錦鶏湖の脇を通り、峠を越えて、萩へ向かいました。


 はしり抜けたのは萩往還道と呼ばれるルートです。


 国道262号を進み、萩市街の手前で県道32号に入りトンネルを抜けると、
「道の駅萩往還」に出ました。


 「道の駅萩往還」に松陰記念館が併設され、数体の銅像が見えました。


 下の像は、右が初代内閣総理大臣の伊東博文、中央が五箇条の御誓文・廃藩置県などを提言した木戸孝允(桂小五郎)、左が二度の内閣総理大臣や枢密院議長などを務めた山縣有朋です。


 この三名は吉田松陰の松下村塾に学んだ俊英で、江戸から明治の変革期に、日本が先進国に追いつく基礎を作り上げた人達です。
 

 更に奥に、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の像があることを後から知りましたが、予定時間を過ぎていたので先を急ぎ、見落としてしまいました。

 


 道の駅萩往還から1km程進んだ場所で、萩往還梅林園の梅が、紅白にたなびく雲の如き景色を見せていました。


 これも後から知りましたが、萩から山口・防府へ通じる萩往還を旅すると、ここを過ぎると町が見えなくなり、萩を振り返ることができる最後の場所だそうです。

 

 人はここで松並木の間に見え隠れする萩に別れを惜しんで涙したことから、「涙松」と呼ばれ、

 

 吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られる時ここで


 「かえらじと思いさだめし旅なれば、ひとしおぬるる涙松かな」

 

 の一首を残しています。

 


 時間は既に17時を過ぎていました。


 今日はもうここが限度と考え、たまたま目にしたスーパーで地酒と食料を買い求め、潮騒に包まれた海岸に寝場所を求めました。

 

 

 次の日の朝、観光客が繰り出す前に、市内を一回りしました。

 

 
 その後郊外へ車を走らせ、萩港の北に位置する笠山の虎ヶ崎に向かいました。


 笠山の麓の虎ヶ崎園地に椿群生林があり、約25000本のヤブツバキが自生しています。


 今回の旅は梅が主目的ですが、2月中旬~3月下旬に見ごろを迎える笠山椿群生林を見過ごす訳には行きません。


 椿林の中に歩を進めると、常緑樹のツバキ林特有の、下草の少ない林床が、一面の落椿に飾られていました。

 

 
 岬から日本海を望むと、これから訪ねる長門市辺りに幾つかの島影が見えます。

 


 北の方角にも、日本海に幾つかの島が浮かんでいました。


 もう20年程の昔ですが、転勤生活で、新潟の潮騒の丘に暮らしましたが、海の上にはいつも雲が浮かんでいました。


 陽射しの明るい広島から、三方を山に囲まれた萩に下った毛利輝元は、この景色の中で何を想っていたのでしょうか。
 

 

 虎ヶ崎で椿を眺め、もう一度萩市内へ戻りました。


 今から50年ほど前に、テントと寝袋を詰めたキスリングザックを背負って、学割の周遊券で山陰を旅したときに、萩の街を徒歩で巡りましたが、その時一番印象に残ったのが、塀に覗くナツミカンでした。


 もう一度その景色を見たいと願いましたが、高杉晋作の生家の近くで、記憶通りの光景に出会うことができました。

 

 

 そして初めて、高杉晋作の生家を訪ねました。

 


 さて、萩で是非とも見たいを思ったのが、自生北限と称する指月山のサザンカです。

 
 指月山は指月公園内にあるので、公園料金所でサザンカの存在を尋ねました。

 


 すると、園内を左手に少し進んだ茶室の裏手辺りにあるとのことでした。


 指月山の奥深い場所を予想していたので、ちょっと意外でした。


 そしてすぐに「指月山サザンカ自生北限地」の看板を見付けることができました。

 


 茶室裏手の山裾に、数十本の野生種らしきサザンカが葉を茂らせています。


 サザンカに花が咲く季節ではありませんが、葉などの特徴から野生種らしいことに間違いはなさそうです。

 

 しかし以前、九州でサザンカの自生地を訪ねた時の様子と、個々の木の樹高、太さが比較になりません。

 

 今日まで全国にサザンカの古木も見てきましたが、この場所のサザンカは若すぎます。


 私の目の判断では、この場所のサザンカはどう見積もっても、100年を超えることはない筈です。

 

 

 

 更に、この場所は実生サザンカが、100年持たずに枯れる環境には見えません。

 

 つまり、自生地という説に疑問符を付けざる得ないのです。


 但し、明治大正の頃に渡り鳥が種を運び来て自生地になっです経緯も考えられますが・・・

 

 詫び錆びを好む、茶人が出入りする茶室の裏に自生地があるのは偶然でしょうか。

 

 

 指月公園を去るときに、毛利輝元公の姿をお見受けしました。


 もしかすると、サザンカの自生地であるか否かは、輝元公であればご存知かもしれません。

 

 

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山口の梅と大内文化

2020-07-04 16:09:31 | 西日本に梅を訪ねて

 

 山口市街へと車を進め、龍福寺を訪ねました。


 私は、山口市を訪ねるのは今回が全く初めてです。


 今回はネット検索で、龍福寺に梅が咲くと知って訪ね来ました。

 


 しかし旅から帰り、記事を書きつつ龍福寺を調べますと、日本の鎌倉時代から室町時代かけて、この場所に関わる様々なできごとが、その後の歴史に、少なからぬ影響を与えていることを知りました。


 龍福寺は、平安末期から鎌倉室町時代にかけて、周防(山口県の瀬戸内側)を中心に活躍した大内氏の館跡に建てられました。

 


 大内氏は大内義隆の時に、山陰山陽から北九州までも支配下に置き、学問や芸術にも熱心だったことから、後に大内文化(山口文化)と呼ばれる最盛期を迎えています。


 私は今回、そのような知識もないままに、龍福寺の門を潜りました。


 龍福寺の境内には50本の梅が咲くそうですが、山口市内は海沿いの場所より寒いのか、梅は2分咲き程でした。

 

 

 明治14年に龍福寺は禅堂と山門を残し焼失し、その後、大内氏の氏寺であった山口市内の興隆寺から釈迦堂を移築し、本堂としています。


 本堂(釈迦堂)は1479年(大永元年)に建立されたもので、室町時代を代表する寺院建築として、昭和29年に国の重要文化財に指定されました。
 

 

 境内に「豊後岩の由来」と題する、興味ある掲示を見かけました。


 その内容は


 「大内氏は歴代政庁を山口に置いて、西日本に覇をはっていたが、防・長・芸・備・岩豊・築の七か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかた。

 

 当時世の中は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和で、いわゆる西の都の繁栄があった。

 

 大内氏は多くの来客をもてなすために、邸前に広大壮麗な築庭をし、当時珍しいソテツを植え、豊後から舟でもってきた岩を配置した。


 しかし、これらの岩は、豊後を恋しがり、雨の夜に「豊後に帰りたい」といって泣いた」

 

 と記されていました。

 

 

 しかしなぜ、豊後(九州の大分)からもってきた岩があるのでしょうか、少し唐突です。


 そして今回、大内氏の歴史を紐解き、その謎を知ることができました。


 この地に一時代を築き上げた大内義隆は、1541年の出雲の尼子晴久との戦いで、大内家を継ぐ養子を失い、1544年に豊後の戦国大名である大友義鑑の次男大友晴英を後継ぎに迎えます。

 

 当時は家督相続と所領がセットだったので、後継ぎは無くてはならないものでした。


 しかし大内義隆は1551年、重臣の陶隆房の謀反を受け、下関の大寧寺で自害し、大内氏の血筋は絶えます。

 

 一方、重臣だった陶隆房は晴英を君主に迎え、晴英の名を大内義長に変えて傀儡とし、大内氏は表面的に存続します。

 

 しかし陶隆房は1555年(天文24年)、安芸の宮島の厳島の戦いで毛利元就の奇襲を受け命を落とします。

 

 大内義長と名を変えた、大友義鑑の次男晴英も1557年(弘治3年)毛利元就の侵攻を受け、下関の勝山城で自害し、大内氏は名実ともに滅亡しました。


 大内氏の館跡に建つ、龍福寺の庭に豊後由来の岩があり、その岩が豊後を恋しがって、「豊後に帰りたい」と言って泣く話は、きっと歴史の真実を知る後世の人々が語り継いできたのでしょう。


 唐突に感じた、龍福寺の豊後岩は私に、この地を舞台にした波乱万丈の歴史ドラマを教えてくれました。
 


 次に瑠璃光寺を訪ねました。


 この場所で最初に香積寺を建立したのは、大内氏に前期全盛期をもたらした大内義弘です。

 

 しかし、義弘は1399年(応永6年)に足利義満と争った応永の乱で、大阪堺で敗死。

 

 弟の盛見が兄の菩提を弔うために、香積寺に五重塔の造営を図り、1442年(嘉吉2年)頃に落慶しています。

 

 その後、関ヶ原の合戦に敗れた毛利輝元が萩に入り、香積寺を萩に引寺したため、跡地に山口県仁保から瑠璃光寺を移築し、今日に至ります。

 

 瑠璃光寺の五重塔は大内文化の最高傑作といわれ、日本三名塔の一つに数えられることもあるそうです。

 


 香山公園と呼ばれる境内は、桜や梅の名所としても知られています。


 五重塔を背にした広場で、3分咲き程の梅が微かな香を放っていました。

 


 この場所を訪ね初めて、私は、大内氏が1350年頃から勢力を拡大し、1551年に滅亡するまでの約200年間、大内氏が山口で果たした役割と、花開かせた文化を知ることができました。

 

 今も瑠璃光寺に漂う梅の香には、芳醇な大内文化のエッセンスが含まれています。

 

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