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神田川に咲く花と かぐや姫のあの歌

2021-06-30 01:10:18 | 自転車で神田川

伏見橋を左岸に渡り、再び「神田川四季の道」に戻りました。

 

 
 ゆったりスペースで進む遊歩道に、様々な種類の野草が花を咲かせていました。


 ワルナスビは、明治39(1906)年に成田の御料牧場で牧野富太郎に発見、命名された、アメリカ南東部原産の帰化植物です。

 有毒植物で、特に果実に強い毒性があるので注意が必要です。


 ラジロチチコグサは南米原産の帰化植物で、昭和40年代後半に日本に帰化したようです。

 

 春の七草のハハコグサ(御行:おぎょう、ごぎょう)も古い時代に、中国や朝鮮半島から帰化したと言われています。

 

  

 
 キキョウソウは北アメリカ原産の帰化植物で、6月頃に上品な紫色の花を咲かせます。

 

 ダンダンギキョウの別名を持ち、福島県以南に移入分布しています。

 

 ナガミヒナゲシの花の季節は過ぎたようで、殆どの株が実を付けていました。

 地中海原産の帰化植物で、1961年に東京都世田谷区で初めて確認されています。

 

 一つの果実に1600粒の種子を含み、一株に100個の果実を稔らせるので、農地などで見つけたら、早めに駆除すべきです。

 

 


 ヒメヒオウギズイセンは南アフリカ原産の交配種ですが、全国に野生化しています。


 アフリカハマユウは明治時代に移入されてからずっと、インドハマユウと呼ばれてきました。

 

 両者はよく似ていますが、アフリカハマユウは花柄が長い特徴で見分けられます。

 

 

 

 そしてヤマブキがフサフサの葉を豊かに茂らせていました。

 

 ヤマブキは美しい山吹色の花で目を楽しませてくれますが、花が終わった後も、程よい緑が何ものにも代えがたい日常を演じてくれます。

 

 

  神田川の畔に静かな散歩道が続いていました。

 


 所々に、キリシマツツジやリュウキュウツツジなどのネームフレートを見かけました。


 中野区も新宿区も、ツツジが区の花だそうです。

 


 
 そして、神田川支流の桃園川の合流部に作られた小さな公園に出ました。


 桃園川は荻窪駅の北側辺りを源流としますが、その全てが暗渠となっています。

 

 川は下水となり、その汚水は全て河口へ至る前に、落合水再生センターへ送られ、平常時はこの合流点から神田川に流れ出る水は殆どありません。

 

 

 そして、その公園の一画に、あのかぐや姫が歌った「神田川」の歌碑が掲げられていました。


  貴方が描いた 私の似顔絵


   うまく描いてねって 言ったのに


  いつもちっとも 似てないの


   窓の下には神田川


  三畳一間の 小さな下宿


   貴方は私の 指先見つめ


  悲しいかいって 聞いたのよ

 

 

 そんな歌詞とわずかに重なる季節が、私にもあったことを思い出します。

 

 

 

 

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神田川にアユとサケ

2021-06-29 12:54:59 | 自転車で神田川

 写真は淀橋の横断歩道からの新宿方面です。


 三叉路の右が青梅街道で、左が東新宿へ向かう通称税務署通りです。


 三叉路の角にマンションが建ち、その後ろにオフィスビルなどが見えています。

 


  淀橋の辺りは、江戸時代に青梅街道を使って運ばれてきたソバを挽く有名な水車がありました。

 

 ペリー来航をきっかけに、火薬製造に転用され、嘉永7(1854)年に爆発事故を起こし、江戸市民を驚かせた記録があります。


 この逸話のように、淀橋は武蔵野の農村部から様々な農産物を江戸市内へと運ぶ物流拠点だったことが分かります。


 淀橋から下流を眺めると、右岸から桜の木が川を覆っていました。


 水は川床をサラサラと流れ、川底の所々に水草が緑を添えています。

 


  神田川の左岸を進むと、コブシが緑の葉を茂らせていました。


 そして、マスクを付けた女性ランナーとすれ違いました。

 

 

 この道は「神田川四季の道」と名付けられているようです。

 


 四季の道の案内図には、年間を通じて花を楽しめること、ジョギングを楽しめることが記されていました。

 

 


 淀橋から150mほど進むと栄橋に出ました。


 川床を見ると、水路幅が丁寧に調整されている様子が分かります。


 両岸には、静かな都会の住宅が広がっています。

 

 


 栄橋を渡って、右岸の新宿区の側道に入ると、こちら側は「水とみどりの散歩道」と名付けられていました。

 


  その掲示物に、神田川に生息する魚の種類と水質基準が記されていました。


 何と!アユの名があります。 神田川にもアユがいるようです。

 

 

   
 興味を覚え「神田川 アユ」で検索すると、新宿区の「神田川生き物実態調査」で、毎年アユが捕獲されていることが分かりました。


 更に驚くべきことに、平成27年にシロサケが確認されています。


 夢のある話です。

 

 世界屈指の大都会東京の川をアユやサケが遡上すれば、水俣や阿賀野川の公害で苦汁を飲んだ日本の、再生力の象徴となるはずです。 

 

 今は都議選の真っ最中ですが、そんな発想の候補者は居るのでしょうか

 

 

 「水とみどりの散歩道」に、サクラの緑が木陰を広げていました。

 

 
 栄橋から右岸を200mほども進むと伏見橋に出ました。


 伏見橋は、明治時代の後期、川の左岸の中野区中央1丁目辺りに皇族「伏見宮家」の広大な別邸(高歩院)があったことに因むそうです。


 右岸の新宿区側には桜並木、左岸の中野区側にはコブシの並木が続いていました。

 

 


 伏見橋から上流を振り返ると、西新宿の高層マンションが初夏の雲の中に聳えています。


 川の流路が更に狭まり、川は傾斜を増したようです。


 この川をサケが遡上する姿を見てみたいものです。

 

 

 

 残りの人生、そんなことのお手伝いに費やすのも悪くはなさそうです。

 

 

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神田川沿いの植物や歴史など

2021-06-28 10:06:51 | 自転車で神田川

 緑の道を進むと、川の柵に絡まる蔓が実を付けていました。


 ミツバアケビの実です。


 しかし、こんなところでミツバアケビを見るとは思いませんでした。
 

 

 

 小さな広場でイチジクとモモが緑の実を付けています。


 そう言えば、今の中野駅の南側一帯に八代将軍吉宗が植えたモモが、広大な桃園を作り、春になるとモモの花が咲き広がり、江戸の花見の名所となっていたそうです。

 

 中野駅前に、山梨笛吹市のようなモモの花の景色が広がっていたようです。

 

 


 「神田川はなひろば」と名付けられたスペースがありました。

 


 
 初夏の陽射しの中でハナミズキが枝を広げ、ベンチで本を広げる人の姿を見かけました。

 


  側道と川岸の柵との間にヒュウガミズキやハナツクバネウツギなどの植え込みが続きます。


 側道に人と自転車以外は入れないよう、さりげなくゲートが施されていました。

 


 ほどなく相生橋の袂に出ました。


 昭和の末まで、この橋の付近には幾つかの水車が回っていたそうです。


 相生橋から通じる道の先の、右岸の新宿区の背の高い建物が気になっていたので、自転車を走らせ、60階建ての高層マンションであることを確認してきました。

 

 

 

 そのマンション脇の緑地の中に旧けやき橋通り商店街のモニュメントが設置されていました。


 【・・・、昭和の面影を色濃く残していたけやき橋商店街がここにあっ 

  た。

 

  ・・・新宿周辺が次々と再開発されるなか、最後迄残っていた西新

  宿のけやき橋商店会もついに再開発の波に飲み込まれる。

 

  2017年に60階建てタワーマンションが竣工された記念として設立す

  る。  平成28年3月吉日】


 と記されていました。

 

 昭和の頃は、八百屋、魚屋、大衆食堂などが並ぶ商店街で買い物をするのが当たり前でした。そんな光景も今は昔となってしまいました。

 


 相生橋の次の豊水橋(とよみずはし)から見た神田川は川幅一面に水を湛えていました。


 水の流れも緩やかに見えます。


 川の傾斜に合わせ、神田川は表情を変えるようです。


 川底と両岸をコンクリートで固められた川でも、緩やかな流れは淵を作り、急流は瀬を見せるのでしょう。

 

 


  豊水橋を左岸に渡り、側道を進んでゆくと、

 


  300m弱で淀橋に出ました。

 

 

   
 淀橋の右岸に「淀橋の由来」が掲げられていました。


 【淀橋の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名付けたと云われます。

 

   古くからあるこの橋は、昔は『姿みずの橋』とか『いとま乞いの橋』

  いわれました。

 

   この辺りで中野長者と云われていた、鈴木九朗が、自分の財産を地中

  隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投

  込みました。

   九朗と橋を渡るときには見えていた人が、帰るときには姿が見えなか

  ったことからその名が付いたと云われます。

 

   江戸時代の初め、鷹狩りのためにこの地を訪れた将軍家光はこの話を

  き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改

  るよう」に命じ、それ以降、その名が定まったそうです。】

 

 

 

 

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宝橋は神田川の中間地点

2021-06-27 11:53:23 | 自転車で神田川

 桔梗橋の先へ続く側道は公園に準じた管理が為されているようです。

 


 側道と民家との境を、常緑樹のレッドロビンの生垣が覆います。

 

 
 生垣の先のスペースで、アジサイが小さな花塚を作っていました。

 

 
 川は東郷橋の辺りで進路を曲げ、川の先に西新宿のタワーマンションなどが見えてきました。

 

 

   
 そして、神田川が山手通りと交差する場所に架かる橋が長者橋です。


 今から約600年前の応永年間(1394~1428)に、紀州から流れきた武士の鈴木九郎がこの地を開拓して大金持ちとなり、中野長者と呼ばれました。


 その「中野長者」が、この橋のあたりに居を構えたと伝えられます。

 


 神田川を長者橋で渡る山手通りは、環状六号線(環六)の別名で呼ばれます。


 東京には、皇居を囲む内堀通を環状1号(環一)とする八つの環状道がありますが、山手通りはその内の一つです。


 山手通りは、品川区東品川からJR山手線に沿って北上し、板橋区仲宿まで、東京の西半分をカバーする都道317号線ですが、戦前の計画では江東区南砂までが予定されていました。

 

 
 神田川は山手通りの中へ、いよいよ東京の核心部へと流れ込んで行きます。


 次の宝橋まで来ると、目の前に60階建てのマンションが見えてきました。


 西新宿辺りをうろつくと、必ず見えていたので、何の建物かと気になっていたのですが、今回やっと高層マンションだと分かりました。


 この橋から河口までの距離が12.31㎞ですから、この橋の辺りが神田川の中間点です。


 神田川は宝橋を過ぎると、再び進路を北向きに変えます。

 

 


 川岸でカシワバアジサイが白い花房を垂らしていました。

 


  私はさっきまで、宝橋の下流の菖蒲橋(あやめはし)を「しょうぶばし」と読んでいました。


 このブログは「花の旅」のコンテンツの一部なので、少々説明しますと、

 

 アヤメとハナショウブとショウブは全く別の植物です。

 

 しかし、それらを総称して「アヤメ」と呼んできましたので、菖蒲をアヤメと読んでも間違いではありません。

 

 ではありますが、全国各地のアヤメ園やハナショウブ園で見られる多彩な品種は殆ど全てがハナショウブです。

 

 そして更に、五月の節句の菖蒲湯に使うショウブは、アヤメやハナショウブとは科も異なる、サトイモ科(APGショウブ科)の植物です。

 

 

   
 菖蒲橋の近くでナンテンが花を咲かせています。


 ナンテンの花は目立ちませんが、冬になると赤い実を付けて、小鳥達を招きます。


 このナンテンも、もしかすると小鳥が運んで来たのかもしれません。

 

 菖蒲橋を過ぎて右岸が新宿区に代わりました。


 この橋から望む神田川の景色は大都会そのものです。


 水質は確保され、水草が川底に、緑のストライプを描いていました。

 

 


 私は気まぐれに、右岸と左岸を行き来しながら自転車を進めました。


 川に沿って続く、人と自転車の専用道は綺麗に整備され、心安らぐ道が緑に包まれていました。

 

 

 

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神田川を人生に例えてみると

2021-06-26 16:50:45 | 自転車で神田川

 花見橋の先の月見橋の近くで、レモンが緑色の実を稔らせています。


 この木を育てる人は、月のように黄色い実を期待して、月見橋でレモンを育てているのでしょうか。

 

 なかなかの風流人です。

 

 

 
 月見橋を渡り、右岸へ移動しまます。


 右岸の道は、平日午後の穏やか色に染められていました。

 

 
 左岸で、午後の陽を浴びたクチナシが、白い香を放っていました。

 

 
 花見橋を過ぎて見え始めた都庁が視野の中で存在感を増してゆきます。


 今まさに、東京で生きることを実感したい人に、この場所はお勧めです。


 これまでの日々、これからの空、その移ろいの時に、東京の流れの中で生きることのメモリアルを、この橋は確実にレコードしてくれる気がします。

 

 

   
 ほのかな青味を帯びたコンクリート製の神社が濃紫色の幟を掲げていました。


 無機質色のコンクリートは、全ての色を拒むことなく受け入れます。


 東京をコンクリートジャングルと称する人もいますが、そこに暮らす人々の心模様は多彩です。


 光が進路を曲げることもあるように、当たり前の日常を超える情景が広がっていました。

 


 皐月橋の名札を付けた赤レンガの親柱の脇で、クチナシが白い花弁を広げていました。


 紅色の橋に、白いクチナシが薫りを添えています。

 

 


 皐月橋からの景色を桔梗橋が区切り、その先に、次の東郷橋の姿があります。

 

 
 実は、先ほどの花見橋や桔梗橋、そしてそれに続く東郷橋までの6つの橋は、西暦2000(平成12)に架けられています。


 東京が21世紀を迎えた年に架けられた橋が、首都を象徴する景色の中に連なります。


 そんな神田川の岸辺で、地中海生まれのアカンサスが花穂を並べていました。


 赤い灯籠も地中海の花も、全てが違和感なく揃う、コスモポリタンな光景を目にすることができまた。
 


 神田川は5月サツキの名を冠した皐月橋を過ぎて、110m下流で、9月初秋に咲くキキョウの名を冠した桔梗橋に至ります。


 ここまで書いて、いたずら心が湧きました。


 この110mを人生に換算すると、どれ程なのか?


 PCの電卓を叩くと、寿命が93歳ならば、二つの橋と橋との距離110mは、サツキ咲く5月から、キキョウ咲く9月までの5か月間にぴたり一致しました(させました)。

 

 つまり、神田川の全長24.6㎞を一生に例え、寿命が93歳だとするなら、神田川の264mが一年となり、一か月は22mです。

 

 なので110mは、110÷22=5か月分  との計算が成り立ちます。

 

 

   
 人生100年と言われる時代です。


 神田川の全長24.6㎞を、人生の持ち時間(この場合は93年)に置き換えれば、距離を年齢に重ね合わせ、過ぎし日々とこれからの歳月を実体感することができます。

 

 ご自身の人生に例え、神田川を源流から河口まで歩いてみるのも一興かもしれません。

 

 その計算では、70歳の私はちょうど今、源流から下り来て、高田馬場の山手線の鉄橋辺りに居ることになります。

 

 因みに、現在の日本人男性70歳の平均余命は15.96ですから寿命は85.96歳、女性70歳の平均余命は20.21ですから寿命は90.21歳が一応の目安です。

 

 ボケてる暇はなさそうです。

 

 

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花見橋からのアーバンな景色

2021-06-25 12:48:10 | 自転車で神田川

 中野新橋を過ぎ、良く整備された側道を東へ向かいます。


 この辺りの住所は中野区本町3丁目で、対岸は弥生町2丁目です。


 現在の中野区本町1~5丁目と弥生町1~2丁目の、神田川を中心とする一帯が旧本郷村で、江戸時代には中野富士見町の堰から水を引く水田が広がっていました。

 

 大正5年(1916)年ごろまで、小学生がこの辺りでホタルを狩り、歩いて皇居前広場まで行って、ホタルを放すのが恒例となっていたそうです。


 昭和4(1929)年に中野新橋に遊郭ができて、昭和10(1935)年に新橋通りが青梅街道に繋がると、高級官吏などで賑わったそうです。

 

 
 少し進んだ場所の里程標に、みなもと11.6㎞、すみだがわ13.6㎞と刻まれていました。


 まだ工程の半分も消化していないようです。


 そして桜橋の袂に出ました。

 

 


   
 橋の上から下流の花見橋が見えていました。


 花見橋の次が月見橋ですから、桜、花見、月見と風情のある名の橋が続きます。

 


  側道に鉢植えの花が並んでいました。


 まるで、フラワーガーデンへのプロムナードを進むような気分です。

 


 
 発砲スチロールの箱にナスの苗が育ち、タチアオイが白い鉢に赤い花を咲かせています。

 


  側道に面した住宅の窓をペチュニアとペンタスが彩ります。

 

 
 植え込みの中でグミが赤い実を付け、その横に「なつかしいと思われる方、ご自由に食べてみて下さい」の一文が添えられていました。


 この辺りに暮らす、心豊かな人々の微笑みが見えてきます。

 

 

 

 ヤマアジサイやメドーセージが目を楽しませてくれました。

 

 

 

 白や薄緑色のエレガントな花を飾ったアジサイが道行く人の心を癒します。

 
 そんな神田川の岸辺を進んで、花見橋の袂に出ました。

 

 


 花見橋から眺めた神田川の流れの先に、ツイン塔を伸ばす都庁を望みました。

 

 コンクリートで固められた川の両岸にコンクリートのビルが建ち並びます。

 

 しかし何故か、この景色は無機質な東京砂漠のイメージとは無縁です。

 

 多分、空が青いこと、流れる水が澄んでいること、ビルの狭間に緑が見えることなどが、そう感じさせるのでしょう。

 

 半世紀程前に、イタイタイ病や四日市喘息などに苦しめられた日本人が、地道な努力を積み重ねてきた成果が、この景色を作り上げたと思うのです。

 

 東京に観光名所は多々ありますが、この場所から眺める都庁の、他に類を見ないアーバンな景色の価値が、ほとんど知られていないのが不思議です。

 

 

 

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東京メトロ 丸の内線の不思議な支線

2021-06-24 18:04:07 | 自転車で神田川

 翌朝のんびりと寝床を出て、ブランチを食べてから川下りの続きに出かけました。


 中野通りの寿橋を、正午ごろに出発しました。

 

 
 柳橋までは側道がないことをネット地図で確認していたので、左岸の本五ふれあい公園横の道へ迂回しました。

 


  柳橋まで来ると、上流は工事用の鉄板で覆われていました。


 橋に張り出されたお知らせに、契約不調で工事は一時中断中と記されていました。

 

 

   
 橋から川を覗くと、両岸と川底をコンクリートで固めた川が、コンクリートの建物の間に伸びて行きます。


 岸に近い、流れのない川底に、赤茶色の澱のような沈殿物を認めました。

 

 

   
 川の両サイドに側道がありますが、私は右手にカメラ構え、左岸を下りました。


 側道横に、高さ1メートル程の護岸が続き、その内側の植え込みに、ジンチョウゲやサツキなどのプレートを見かけます。

 

 
 この先の、千代田橋の長さは約10mだそうです。


 環七の方南橋が長さ11mでしたから、川幅は殆ど変わらないようです。


 千代田橋から見る護岸に汚れはなく、橋の親柱も新らしく見えます。


 柳橋で行われていた、河川整備工事を終えたばかりなのでしょうか。

 

 

 

 氷川橋付近で、ブーゲンビリアが赤紫色の花を咲かせていました。


 こんなところでブーゲンビリアが育つとは驚きです。


 20年ほど前、那覇で見た、露地植えのブーゲンビリアに南国を感じた記憶が蘇ります。

 真横に神田川が流れますので、都心のビル街よりも気温は低いと思うのですが。

 

 

   
 氷川橋から100m弱ほどの場所で中野新橋が赤い欄干を見せていました。


 以前の橋は「新橋」でしたが、昭和36(1961)年に作られた、地下鉄「中野新橋駅」に合わせたのでしょう、新しい橋の親柱に「中野新橋」と刻まれていました。

 


  ところで、地下鉄丸の内線の車内に掲げられた路線図を見ると、新宿を過ぎた中野坂上の先で、盲腸に付く虫垂のように支線が分かれます。


 20数年前、転勤で東京に住むことになって、私は毎日池袋から丸の内線で通勤していました。


 その頃はいつも、この支線は何だろうと、不思議に思ったものです。

 

 支線の先に、繁華街や大規模な団地など、路線を伸ばすに足る理由が見当たらないのです。


 しかし今やっとその訳が分かりました。

 

 そうです、中野車両基地こそが丸の内線を支線へと導く唯一最大の原因だったのです。


 しかし、この表現は正しくありません。

 

 と言うのも、営団地下鉄は昭和19(1944)年に中野車両基地の場所を確保しています。

 

 昭和21(1946)年に、戦前の東京都市計画を見直した戦災復興院告示第252号で、丸の内線は中野富士見町を始点とし、新宿、日比谷、御茶ノ水、池袋を経て、豊島区向原へと向かうルートでした。


 しかし後から、中央線の混雑緩和を目指し、丸の内線の始点を荻窪駅に変え、中野基地へ向かう路線を支線としたのです。


 つまり、中野車両基地が確保できたことで、丸の内線が成立したとも言えます。


 実際の開業時期から、そのような背景を察することができます。


 新宿-新中野間・中野坂上-中野富士見町間 開業

   → 昭和36(1961)年 2月8日


 新中野 - 南阿佐ケ谷間 (3.1 km) 開業

   → 昭和36(1961)年 11月1日


 南阿佐ケ谷 - 荻窪間 開業

   → 昭和37(1962)年 1月23日

 

 

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早く帰ってビールが飲みたい

2021-06-23 19:13:11 | 自転車で神田川

 方南通りが神田川を渡る栄橋に出ました。

 


  栄橋から下流を眺めると、右手に赤い電車が見えています。


 ここは東京メトロの検車場と工場を併せ持つ中野車両基地です。


 昔はこの場所に雑色たんぼが広がっていました。

 


 側道は橋のすぐ横から下り坂になっています。

 

 

 地下鉄の車両基地に沿って進むと、車両基地の北縁で、神田川と善福寺川が合流しています。


 下の写真は合流地点を、善福寺川の和田廣橋から眺めた写真です。


 右から流れ込むのが本流の神田川です。

 

 
 善福寺川は神田川の支流で、杉並区の善福寺池を源とする延長10.5㎞の一級河川です。


 善福寺川流域案内板に、杉並区は、善福寺川で多様な動植物が生息する水辺環境の再生・創出に取り組んでいると記されていました。

 


 この合流地点から500mほど先の富士見橋付近まで、左岸が杉並区、右岸は中野区です。


 善福寺川が合流した後、背丈を超える高さに護岸が築かれ、増水対策が施されていました。

 

 
 護岸にはペリカンなどのオブジェが飾られ、殺風景な景色を和ませています。

 


  和田見橋から下流を眺めると、川幅が少し広がった気がしますが、そんな気がするだけかもしれません。


 和田見橋の辺りは、昔は神田川が崖の裾に淵を作り、修行者が身を清めた場所だったそうです。


 村人が川岸の葦で草堰をかけて、本郷水田への水を取り入れていました。


 その本郷用水は、春から秋にかけて台地沿いに美しい小川を作っていたそうです。

 


 すぐに次の富士見橋に至りました。


 この橋の横に東京メトロ中野富士見町駅があります。


 この辺りは北の青梅街道、南の甲州街道からの交通が不便で、市街化が遅れましたが、新宿方面から方南通り、中野駅方面から中野通りが整備され、昭和36(1961)年に地下鉄が通ると急激に市街化が進みました。


 方南通りが渡る栄橋が昭和30(1955)年、神田橋が昭和35(1960)年、向田橋が昭和34(1959)年の竣工であることが、そのような時代背景を物語ります。


 富士見橋を過ぎると川岸から側道が消えました。
  

 

 一般道を進んで、その先の路地を左へ曲がった高砂橋の上から神田川を眺めると、両岸に建物が迫り、暫く川沿いを走れないことが分かりました。

 


  時間を確認すると14時30分でしたが、これから河口まで行って、自宅に戻ると18時を超えそうです。


 行先を告げずに家を出たので、今日は無理をせず、神田川下りの残半は明日へ廻すことにしました。


 中野通りを曲がって寿橋を確認しました。

 


  そして、そのまま中野通りを北上し、以前からチャンスを伺っていた、中野中央の柴田酒店に寄り、店内で醸造する地ビールを買い求めることにしました。


 と言うか、本音を言うと、それがしたくて、中野で切り上げたようなものです。


 そしてこれが、ビールを詰めた2リットルのスチール樽です。


 ビールサーバーから直接、樽にビールを注いでくれました。


 こんな風にビールを買うのは全く初めての経験です。

 

 

 今夜は、近所に住む長男に声を掛け、 孫の話題で月見酒です。

 

 え! ビールの味はどうだったか、ですって。


 それを聞くのは野暮と言うものです。

 

 

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3つ目の神田橋

2021-06-22 18:43:00 | 自転車で神田川

 そして神田川は中野区へと流れ込んでゆきます。


 川が区の境を超えると、4~5階建ての集合住宅が現れました。


 建物の建築基準が変わったようです。


 川は表情を変え、中央の溝を水が流れ始めました。


 そして流速が増しました。

 

 

   
 神田川が中野区に入ってから最初の橋が向田橋です。

 


  向田橋の上から神田川を見ると、川面に小波が立ち、流速を増したことが分かります。


 神田川はほぼ一直線に北東方向へ流れ、その先で神田橋が、南中野中学校の脇に架かります。

 

 

   
 幾度も記しましたが、神田川には3つの神田橋があり、その最下流の神田橋がこれです。


 この神田橋は、1960(昭和35)年の竣工です。


 この川が、神田上水から神田川と名を変えたのが1965年ですから、この神田橋は神田上水に架けられたことになります。

 

 

 そして多分、今の橋の前から、神田上水に別の神田橋が架けられていたに違いありません。


 中野区教育委員会が発行した「なかの史跡ガイド」によれば、この地域の南側、幡ヶ谷台地に神社と寺が揃う一画が雑色村の中心でした。

 

 川を囲む低地に雑色たんぼと呼ばれる田が広がっていたそうです。

 

 とすれば、以前からの神田橋に、台地上の村から、神に奉納する為に、稲を育てる神田への道が通じていたはずです。

 


  そう考える根拠として、

 

 ①雑色村は平安末期に創建された杉並区の大宮八幡の造営に働いた人々が 

  住んでいた、あるいは、宮仕えの従者(雑色)の土地であったと云わ

  る。

 

 ②神田橋は、雑色たんぼの最上部に位置し、真っ先に水が供給されるべき

  神田があったとするなら、この橋の付近の可能性が極めて高い。


 以上は全て状況証拠からの推論ですが、それほど的外れではいないと思います。


 神田橋のすぐ下流に角田橋が架かります。

 

 


 神田川が中野区に入ってから、向田橋、神田橋、角田橋と、田が付く名前の橋が3つ続くのも、偶然ではないだろうと思います。

 

 

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環七地下河川構想はスケールがでかい!

2021-06-21 17:23:10 | 自転車で神田川

 方南第一橋から下流を見ると、左手の川の中に赤いフェンス状のものが見えました。


 神田川が増水した時に水を取り込む「神田川取水施設」です。


 その先で神田川は緩く左へカーブします。


 そしてカーブの先で川は、都道の環状七号線(環七)と交差します。

 


 環七の方南橋の手前に、例によって「神田川流域案内板」が掲げられていました。

 


 戦後、この地域の人口増加によって、雨水を保水・浸透していた田畑や湿地が宅地に変わり、降雨時に雨水が急激に川へ流入し都市型水害が頻発するようになりました。

 

 そこで、環七の地下に内径12.5mのトンネル調節池を作り、浸水被害を大きく減少させたそうです。


 そして将来的に、石神井川や目黒川など10河川の増水に対応しながら、この環七の地下トンネルを南下させて東京湾につなげ、延長30㎞の巨大な地下放水路とする「環七地下河川」が構想されているそうです。

 

 ん~ 何とも話がでかい!

 

 


 この辺りは、冬になるとオナガガモ、ドジョウ、オオカナダモ、ヘクソカズラなどが見られると記されていますが、数多くの野草の中からヘクソカズラを取り上げた理由は不明です。

 

 
 片側3車線の環七に架かる、方南橋の長さは11メートル、幅は25メートルですから、環八の佃橋同様、その外見は橋と言うよりコンクリートカバーです。

 

 
 川を横切る環七はビルの壁に囲まれ、川の周囲に都会の景観が広がります。

 


 
 とは言っても、幹線道路から少し離れると、住宅指定地域が広がり、建築物の高さが規定されますので、川沿いの景色にそれ程の変化はありません。

 

 方南橋を越えるとすぐに、上水橋が現れます。


 この橋は1965年の完成です。

 

 この川が神田上水から神田川と名を変えたのが1965年ですから、完成前に橋の名は決まっていた筈で、上水は神田上水を意味すると思います。


 橋の袂に枝を広げるクスノキの幹の太さが、この橋を渡る道の古さを物語ります。
 

 

 川にカモの姿を見かけました。

 

 この季節に姿を見せるのは殆どがカルガモです。


 神田川の水は、まだ綺麗ですが、川底の泥が都市を流れる川を感じさせます。


 下流に見えるのは、たつみ橋です。


 この橋を過ぎると、神田川は杉並区に別れを告げます。

 

 


   

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神田川は北へ

2021-06-20 13:09:44 | 自転車で神田川

 神田橋から下流を見ると、右手に公園らしきものが見えました。


 右岸へまわると、下高井戸おおぞら公園と表示されていました。

 


  この公園は、杉並区が東京電力のグラウンドだった場所を取得し、平成29年にオープンさせた公園です。


 防災設備を備え、かまどベンチやマンホールトイレも設置されているようです。

 


  この公園で見かけた里程標に「みなもと6.6km すみだがわ18㎞」と表示されていました。


 この里程標を見て私は、今日は中野辺りまでが限度かもしれないと考え始めました。

 


  公園横の側道の先に「かんな橋」があります。

 


  その先の工事で道が塞がれていたので、左岸へ橋を渡りました。


 地図で確認すると、公園に隣接するこの辺りが空白なので、ここも公園予定地なのかもしれません。


 第二次世界大戦の頃、この橋の付近に水車小屋があって、周囲一面は田んぼだったそうです。

 

 

   
 左岸の緩い坂を上り永福橋の横に出ると、帽子を被り、マスクを付けた少年の像を目にしました。


 通常であれば初夏の頃、像にマスクを付ける人はいません。

 

 コロナ蔓延時代ならではの光景です。

 

 


 そんな像を横目に自転車を進めると、民家の塀に沿って、クリナムが花を咲かせていました。


 クリナムは熱帯・亜熱帯原産の植物ですので、この辺りは冬も寒くないのかもしれません。


 地球温暖化の影響でしょうか。それとも、東京のヒートアイランド現象でしょうか。

 

 


  永高橋(えいこうばし)に着きました。

 

 昔はこの橋の右岸に、2004年度に閉校した都立永福高校があって、永高橋は永福高校生の通学路でした。

 


  この橋を過ぎると、神田川は大きく流れを北へと向きを変えます。

 


  左岸のツタ茂る壁の中にマンション、右岸に戸建て住宅が並ぶ川辺の道を自転車も北へ進みました。

 


  しばらく進むと、京王井の頭線のガード下を潜ります。


 神田川は源流から井の頭線とほぼ並行に流れましたが、この後、神田川は北へ、井の頭線は南東方向へ進み、再び川と京王線が交わることはありません。

 


  ガード下を潜り、井の頭通りに出ると、その先で河川改修工事が行われていました。


 側道が通れないので、川と並走する左手の道へ迂回しました。

 


  街角のヤグルマギクやナデシコが味気ない光景に彩を添えていました。

 

 


 迂回路を進み過ぎて、弁天橋の手前でやっと、川辺の道に戻ることができました。


 距離にして800m程、川から離れていました。

 

 


 弁天橋の先へ進むと、小さな緑地が現れ、

 


  石の上でカエルが腕を組み、空を見上げ、考えています。


 「今夜の晩酌は発泡酒か缶酎ハイか、どっちにしよう」

 

 
 緑地に黄色いユリが咲いて、カモが川面に波紋を描いていました。
 

 

 

 

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奇跡の荒玉水道道路

2021-06-19 10:30:53 | 自転車で神田川

 川が緩やかにカーブした辺りの緑地に、「川は」と記された彫刻が置かれています。


 「神田川、川は、銅像」で検索すると志津雅美さんの1993年の作品であることが分かりました。


 志津雅美さんは昭和23年に鹿児島に生まれ、武蔵野美術大学を中退後、1987(昭和62)年頃から1990年代初頭にかけて、杉並区の川沿いの緑道や公園などを飾る彫刻を作成しました。


 志津雅美さんは屋外に置かれる彫刻を、道祖神やお地蔵さんのようなものと思って作ったそうです。


 「川は」は、確かにそんな雰囲気を感じさせる作品です。

 


  緑地の隅にゼニアオイが赤紫の花を咲かせていました。


 江戸時代に日本に入り、今では帰化植物となっています。


 ゼニアオイの花を乾燥させたハーブティーは美しいブルーですが、レモンを加えると直ぐにピンク色に染まるので、夜明けのハーブティーと呼ばれます。

 

 

 
 以前にも記しましたが神田川に神田橋は3つあります。

 

 そして二つ目の神田橋が、緑地を過ぎると現れました。


 この橋は昭和47(1972)年に完成しています。


 1965年にこの下の流れが神田上水から神田川と名をかえて間もない頃のことです。


 以前紹介した三鷹台の神田橋と同じような状況だったと想像します。


 この神田橋で、荒玉水道道路が神田川を渡ります。

 

 

 荒玉水道道路とはちょっと変わった名前ですが、地下に荒玉水道が敷設された東京都道で、1934年(昭和9年)の竣工当初は歩行者専用道路でした。

 

 荒玉水道は、関東大震災後に中野区や板橋区の人口が増加した為に、水道の需要が増え、大正14(1925)年から昭和6(1931)年にかけて、多摩川の水を、砧(現在の世田谷区)から送水する為に建設された地下水道管だそうです。


 その地上部に後から設けられたのが荒玉水道道路で、地図で確認すると、道路は多摩川縁の砧浄水場から青梅街道の杉並区梅里1丁目まで、全長約9㎞がほぼ一直線です。


 世界有数の大都会東京に、こんな直線道路が存在すること自体が奇跡です。

 

 


  水道管は、杉並区梅里1丁目から更に中野区内を横切り、中野哲学堂公園近くの野方給水所を経て、板橋区の大谷口給水所に通じていました。


 そうでしたか!


 実は、中野哲学堂公園の近くに、奇妙な建造物があって、前からとても気になっていましたが、今やっと謎が解けました。

 

 

通称 水道タンク 2011年11月撮影


   
 現在、荒玉水道道路は車両幅規制が1.7mで、全て不統一の一方通行です。

 

 全貌を確認するには、自転車か徒歩以外に術はありません。


 嗚呼! こんなことを知ってしまったら、やるしかないでしょ! 


 それにしても東京都内を貫く直線道路って、いったい、どんな景色を見せてくれるのでしょうか。

 

 

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幸福橋の架かる川

2021-06-18 20:05:22 | 自転車で神田川

 鎌倉橋で右岸へ渡りました。


 神田川の両岸に静かな住宅街が広がります。


 澄んだ水が音なく流れます。


 左岸のサクラが川面に枝を張り出していました。

 


 
 側道は緑に包まれています。

 


 梢橋は、中央にテラスが設けられていました。

 
 誰が意匠を考えるのでしょう。


 こんな橋が川に架かれば、川辺の人々の川への愛着は増すことでしょう。

 

 
 梢橋のテラスから上流を振り返りました。


 岸から枝を広げたサクラの花は、川面にどんな光景を映すのでしょう。

 

 


 次の藤和橋(とうわばし)もなかなか個性的なデザインでした。

 

 この辺りは井の頭線や京王線の駅に近く、甲州街道からも遠くないのに、静かな環境が保たれています。

 

 便利で静かな暮らしが楽しめそうです。

 

 
 橋の袂で、シモツケが微笑みの花を咲かせていました。

 


  藤和橋で左岸に渡り、レンガ敷きの路を、ゆったりペースで自転車を走らせました。


 こんな気持ちの良い所を、急いで通り過ぎたら勿体ない。

 


 八幡橋(はちまんばし)まで来ると、右岸に八幡神社が見えていました。


 さっき通り過ぎた、鎌倉橋の名の由来の一つに、この神社が、鎌倉八幡宮の神霊を勧請したことが挙げられていました。


 橋の袂の枝垂桜が花を咲かせたら、きっと見事でしょうね。

 

 
 下流から橋を望むと、川の段差を鯉が泳ぎ上る姿が見えました。


 川底と両壁をコンクリートで固めた川が海へ向かいます。


 この時は意識しなかったのですが、杉並累層第一発見地は確かこの辺りだったはずです。


 そんな地層も今は、コンクリートで覆われてしまったようです。

 

 


 川に面した家々にゼラニウムやサルビアなどが育ち、ヒマワリが背を伸ばし始めていました。

 

 
 川面に小さな波紋が広がり、鯉が泳ぎます。

 


  そんな道で自転車をこぐと、幸福橋の名札を付けた橋に出ました。


 橋の名前は誰が考えるのでしょうか。


 ゆったりと川は流れ、家々に花が咲き、駅は近く静寂ならば、幸福橋と名付けたい気持ちは分かります。

 

 
 幸福橋から眺めると、両岸が緑に包まれ、民家の柵に赤い実を稔らせるザクロが花を咲かせていました。

 

 

 

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「神田川流域案内板」が興味深い

2021-06-17 21:13:17 | 自転車で神田川

 乙女橋から先へ進むと、側道に地中海原産のアカンサス(ハアザミ)が特徴的な花を咲かせていました。


 トウネズミモチの枝先に繁る蕾が花咲く準備を整えています。


 トウネズミモチは湾岸地帯などで増えすぎ、最近は要注意外来生物に指定されています。


 出る釘は打たれるようです。


 しかし、冬の前に沢山実を稔らせるので小鳥達は喜んでいるようです。

 

 

   
 神田川は杉並区の住宅街の中を、直線と曲線を繰り返しながら流れます。


 堂ノ下橋まで来て、川を覗くと、澄んだ水が流れ、川底に緑の植物が繁茂していました。


 澄んだ水が光を通せば、川底に緑が増えて酸素を放ちます。

 

 魚や水生昆虫が暮らせる環境が整えば、カモやサギなどが飛来し、アユの泳ぐ姿が見られるようになる、かもしれません。

 

 

   
 川に面した民家の塀に沿って、バラが花を咲かせていました。

 

 
 提灯形のチロリアンランプが蔓を伸ばし、花を咲かせていました。


 この花は熱帯地方の原産ですが、耐寒性があるので、最近は都内の民家などでも姿を見かけます。


 カンナは普通、夏から秋にかけて花を咲かせますので、この辺りは温かいのでしょうか。

 

 


 塚山橋まで来ると、橋に面した緑地に、細長い水滴形のオブジェが置かれていました。


 自然界で目にしないフォルムに、私の中で何かが共鳴しました。

 

  
 塚山橋から100メートルほど下流に架かる橋が鎌倉橋です。


 鎌倉橋の名を目にして、すぐに鎌倉街道を思い浮かべました。

 

 
 案の定、右岸の橋の袂に鎌倉橋の由来が掲げられていました。


 「橋名は『むさし名勝図会』に『鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という』と記され、また一説には太田道灌が江戸城を築く際に高井戸八幡神社を建立させ、鎌倉八幡宮の神霊を勧請し、鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたと言われる」と記されています。

 


  そのすぐ横に、杉並区が「神田川流域案内板」を設置しています。

 

 
 この辺りの地図が示され、

 

 
 このあたりで見られるハクセキレイやハグロトンボ、アオスジアゲハ、植物のオギなどが紹介されています。

 しかし、ハグロトンボとオギは川をコンクリートで固める前の状況のようです。

 

 
 先の塚山橋を渡った右岸で、昭和7(1932)年に発見された塚山遺跡は縄文時代の遺跡です。

 後の調査では、3万年ほど前の旧石器時代から縄文時代にかけて、人々が暮らした証が残されていることが分かったようです。

 


  平成12(2000)年に杉並区在住の地質研究者によって発見された、杉並累層化石(生物が活動した痕跡)などが説明されていました。

 


  川沿いを自転車で下る時は、掲示物を写真に撮る作業が精一杯で、記載内容へ十分に目を通すことができませんでした。


 今回記事を書くに当たって、内容を確認しましたので、その知識を携え、再度、この辺りを自転車で訪ね歩きたいと思います。

 

 

 追伸:昨日、新型ウイルスワクチンの二回目の接種を終えました。

 

    一回目の注射で抗体ができて、そこへ、二度目の注射で抗原が入る

    ので、熱ぐらい出るだろうと覚悟していたのですが、副作用は全く

    ありませんでした。 年を取ると抗原抗体反応が弱まるのかな?

    

 

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乙女橋は渡れない「お留橋」だった

2021-06-16 21:05:52 | 自転車で神田川

 橋に「正用下橋」の名札が付されていました。

 

 「しょうようしもはし」と読み、「正用」はこの辺りの旧地名だそうです。


 環八を過ぎて、神田川は見違えるほどに水量が増えました。


 ついさっきまで、川は中央の狭い溝を流れましたが、今は川幅と同程度に広がっています。

 

 

   
 黄色いヒドコートの花が側道を染めていました。


 正式名をヒペリクム・ヒドコート(大輪キンシバイ)と云うヒドコートは、西洋キンシバイなどを掛け合わせた雑種で、キンシバイよりも花が大きく、花数が多いことから公園などに好んで植えられています。


 この季節、キンシバイに似て、黄色い5弁の花を咲かせるのは殆どがヒドコートです。

 

 

 

 そんなヒドコートに縁どられた道に自転車を進めました。

 

 
 側道脇にデザインされたスペースは乙女橋緑地です。
 


 スカシユリやユリの園芸種が緑地に華を添えています。

 

 

   
 神田川は対岸の桜並木を川面に映し、川底に藻をなびかせながら、そろり流れます。
 


 川岸の柵を覆うクチナシの、若葉の緑が心を和らげます。

 

 
 側道の至る所に、散策のひと時を楽しむ為のベンチが設けられていました。


 四季折々の花で飾られた川辺の道は、地域住民の憩いの場となっているようです。

 

 
 木陰のベンチに座り、下流へ視線を移せば、乙女橋が目に入ります。

 

 
 乙女橋からほど近い、鎌倉橋の横に設置された神田川流域案内に、乙女橋の名の由来が記されていました。


「乙女橋の左岸一帯は、江戸時代に将軍家が、徳川御三家の鷹場として定めた場所で『お留め場』と言われ、その中での農耕、建築などには厳しい規制が掛かり、この橋は自由に通行できない『お留橋』でした。

 

 慶応3(1868)年に鷹狩り制度が廃止された後「おとめ」の音を当てはめて『乙女橋』と名づけられたそうです」


 神田川流域案内に、以下のような、昭和初期の乙女橋周辺の写真が掲載されていました。

 

杉並区役所 神田川流域案内より


 現在の乙女橋から下流を眺めると、右岸に戸建て住宅が並び、左岸の緑の中に高級マンションが隠されていました。

 

 

 

 

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