人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自力、他力の誤解

2024-03-20 09:43:06 | 求道、探究
宗教、ことに仏教などでは、一般に自力、他力の道と分けて捉えられているようですが、これには宗教の根本に関わるような大きな誤解があるようです。
まず、自力というと、自分以外の他の力に拠らないことのように、思われているのはトンデモないことで、そういうところに、そもそも宗教の道など開かれることなどある訳ありません。
親鸞さんなどが、自力の道を揶揄するように言っていたのは、”自力作善”のことでしょう。自分のさかしら、はからい...つまりは自分の思い、力のみを立てていき、それを超えたものに開く道を閉ざす生き方のことです。
自力という言葉には、”自ずからなる力”という含みがあるはずなのです。
それを内在的な力と言ってもいいし、超越的な神を信じようと、信じまいと、自分の思い、力を超えたものに依拠してゆくのは同じでしょう。
このように思いを超えた、自ずからなる力を見失ったことが誤解の大きな要因でしょう。
勿論、それに与らんがために、その自分の力に頼って、呼吸法などの修行をするということはあるかもしれません。いや、だけどねえ...私なんかはすぐ、その自ずからの方に意識が向けられ、それが発現しちゃうのですがねえ!...
だから、私はほとんど経験が無いので分からないのですが、少なくともそういう風に意識はされているのが普通ではありませんか?
そうでなければ、ずっとその形に囚われ、”修行のための修行”をしているハメになりますよ!
意識を向けるということは、それを呼び込むこと、呼び込まされること...これは祈りと言ってもいいのです。
だから、いつも言うように祈りと瞑想は分けられるものじゃない、自力も他力も無いのです!
その、そうなさしめる力こそは、他力で言う”本願”というものに他なりません。本願力。
ここにも、所謂”他力本願”についての大きな誤解があるのです。
貴方任せではダメなんだとか...これに関して宗教教団などでは、教団で定められている教え、修行法などがあって、信者は否応なしに信じさせられ、やらされたりしているのです。
信じていたらいい、やっていたらいい...それで幸福になる保障など勿論ありません。
これが貴方任せな在り方でなくてなんであろう。
又、勿論本願とは、棚からボタモチのように落ちて来たりはしませんよ!
とにかく、祈りでも瞑想でも、意識的になることがベースなのです。
それは、やらされることとは全く違う!...極めて主体的な在り方と言うべきです。意識が向かないことをいくらやってても無駄です!...それが、ホントの難行苦行ってもんでしょう?
もし、自分を超えたもの、自ずからなる力に意識を向けていて、自ずから安らぎというものが感じられたなら、もう何も言うことがありません!
それが自力門と言おうと、他力門と言おうと”安楽の法門”に違いないでしょう!...

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