思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

生きる意味

2012年04月22日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今朝のEテレ「こころの時代~宗教・人生~」は、哲学者山田邦夫先生の精神科医ヴィクトール・フランクルの思想「生きる意味」を中心にしたお話でした。それも西田哲学、いわゆる京都学派の哲学の語りで引き込まれてしまいました。

 今朝は早朝から近くにある無住の寺の清掃があるので大まかな自分の今考えるところを書いてみようと思います。

番組サイトでは、

 哲学者・山田邦男さんは、ナチスの強制収容所を体験した精神科医ヴィクトール・フランクルの思想を追い続けてきた。出口のない苦悩の中でなお、人は、いかに生き抜くことができるのか。フランクルは、自らの体験を通して「生きる意味」を見つめる重要性を説き続けた。禅や西田哲学など東洋思想にも照らして、フランクルの哲学を読み深めてきた山田さんに、震災後の私たちがいかに生きていけばよいのか、手がかりを語ってもらう。

と紹介されていました。

 ナチスの強制収容所を体験した精神科医ヴィクトール・フランクルについては、著書『夜と霧』『意味への意志』の二冊だけ読んでみました。過去ブログに著書から次の文章を紹介しました。

  ホロコーストのような極限の状態に人が置かれた時、『夜と霧』の著者V・E・フランクルはその中で「強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つけさせること、つまり、人生が自分をまっている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。」と述べていることは承知されている方も多いかもしれません。

 これを知って「目的」という言葉の使用の方法を簡単に、「そうか」と承知します。簡単に話の中で利用してしまいます。

 フランクルは、『夜と霧』の中で「生きる意味を問う」という節で次のように書いています。

<『夜と霧』みすず書房から>

生きる意味を問う

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
 
 生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄(ろう)することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
 
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
 
 ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。
 
 どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。・・・

<以上p129~p131>

 番組では、山田先生は「裸の実存」と語っていましたニーチェのニヒリズムとともに実存主義的な意味での解釈でした。

 自分の眼前に展開されるいわゆる現実認識において、そこに何を求めるのか。

 最近よせられたコメントの中に、

>宿命 宿業 因果と償いと生死

という言葉がありました。

 3日ほど前に同志社女子大学の朱捷教授が語られたNHKの視点・論点「漢字に見る中国の知恵」について書きました。その中に、

 「自然界にも人間世界にも生と死や、凶と吉のように相反するものを自分の存在根拠とするものが多い。 一つの漢字に反対する意味を同居させるのは正に物事を相反する両面から捉えようとする思考法といえます。」

という内容の話しがありました。中国だけに言えることではなく漢字文化を共有する日本人も当然言えることで、そういう思考法をもっているともいえます。

  そもそも「生死」「凶吉」「善悪」という言葉はを語るとき、漢字の性質から善は悪を相対的な位置に置き、悪は善をその逆の位置に置いています。位置といっても二次元的な平面上に置かれたものではなく思考上のことですから、考えるに、相(あ)い対(たい)する観念は後方に退いているように考えています。

 自己内に小悪魔的なものが存在し、これまでの人生を顧みるときに明るさよりも暗さをという闇を想起する傾向にある人は、実体のない何ものかの怯えから、一念の意志の強さを求め、現実を因果や縁起、そして理由のあるものと理解しようとする人は無常観を抱き「そういうこともあるさ」と黙然と耐え忍ぶ。

 闇を想起する傾向にある人が因果や縁起を認めないわけではなく、理解の内にあるが、自己内の小悪魔を一念で押しつぶすことにまい進する。

 自己内の小悪魔をしっかりと認める人は幸いである、絶対の救いを自ら作り出すことができるからである。

 小悪魔の存在を自ら確認し、認識できるからいつも自己を整えることができる。

 一方、存在を理由のあるものと考える人、よって成ると現実を見つめる人は幸いである。

 生かされている自分を見ることができるからである。

>宿命 宿業 因果 

 「宿命」は、よって成ると現実を見つめる人(実在的な思考)

 「宿業」は、今現在の自己内に小悪魔的なり闇を見つめる人(実存的な思考)

 因果は双方に関わる思考の目です。

 宿命は自力であり、宿業は他力である。

 親鸞さんは実存主義者ではなかったかと思いますし、空海さんもその傾向が強い人のように感じます。どちらも力ある意志を感じます。

 一方禅的な人は静です。どう見てもあるがままに黙然としています。

 精神科医ヴィクトール・フランクルの生き方には「力の意志」が感じられます。「裸の実存」確かにそのように思います。

仏教学者の田村芳朗先生の著書『伝統の再発見』の中で次のように言っています。

<田村芳朗著『伝統の再発見』から>

未分的一体・・・・・ツーカー文化

 はじめにもふれたように、西欧の論理は分析と総合からなり、古でいえば、「対立的統一」である。つまり、あれとこれというように事物を分析・類別し、あれかこれかというように対立・対決させて、その上で、総合ないし統一へと持っていくということである。
 
 これが、西欧人の思考をして論理的ならしめ、言論をして明解なものたらしめている。近代の実存哲学などにいたれば、だいぶ様子が変わってはいるが、それでも、情に訴える日本的思考と比べれば、なおやはり論理的である。

 実存哲学では表現が難解なために非論理的な印象を受けるが、それは、単純な形式論理で盛りきれないところを、なんとか論理づけようとした結果の産物であって論理の放棄を意味するものではない。
 
 それに対し、日本的思考は主体と客体などを類別せず、したがって説かれる一体制も、分析・対立の後に訪れるとういつということではなく、それ以前の、主客未分の状態をさしたものである。
 
 西欧的思考が「対立的統一」であるとするなら、日本的思考は「未分的一体」と称することができよう。この主客など二者の分かれる前の状態を坐(すわ)りどころとすることから、日本人をして論理学や弁論術に不得手な種族たらしめた。その代わり、心情をゆさぶり、情感をかき立てるようなことばを発明し、それらを連ねて文章をつづることをおぼえた。
 
<以上p68~p69から>

 田村先生の根底にあるのは西田哲学です。山田先生は西田先生の過去の体験から照らし合わせて、同一体験を観ていました。

 実存、実在という言葉こだわるとなぜか{生きる意味」の思考の世界が広がります。

ということで「こころの時代」の番組紹介ではなく今現在自分の考えていることを書きました。

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