思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

荘子と老子の世界・自得と会得の存在に気づく

2015年05月21日 | 東洋思想

 昨夜、Eテレ100分de名著『荘子』の第三回が放送されました。「荘子の世界」に接しているのですが、これもNHKのテレビ番組なのですが5月16日ETV特集は、「孔子がくれた夢~中国・格差に挑む山里の記録~』と題する番組が放送されていました。 「孔子の世界」を語る番組ではなく中国では、2011年ごろからそれまで退けられていた『論語』が持てはやされ今でも習近平氏が推奨するまでに一大ブームとなっている様子が描かれていました。

 まさに急速に復活しつつある「儒教」、その背景には富裕層の道徳心の拝金主義にともなう道徳欠如があり、国家には取ってはモラルてーかによる国家危機への懸念もあるように見えます。

 番組では、中国の山村で貧困から脱出すべく、子どもたちに「論語」を教える青年・石卿傑(せき・きょうけつ)さんを2010年から5年間にわたり密着取材したもので、教えを受けた子どもたちのその後も詳しく取材されていました。

 裕福層には道徳経典としての論語、貧富の差は関青年に山間地の子供たちにとって論語の必要性の問いとなって現れる。

 学びの機会を得ようとしても、すべては金銭が絡む現実がそこに現れてきます。

 番組紹介では、

 孔子の生まれ故郷・山東省の曲阜(きょくふ)では、地元政府が観光の目玉にしようと高さ73mの巨大な孔子像を建設中だ。また、都市部では子ども向けの「論語」塾が続々と誕生し、儒教教育が一大ブームとなっている。背景には一人っ子政策でわがままに育った子どもに、儒教の礼儀や道徳を学ばせたいと考える親が急増しているからだ。

 石さんの暮らす中国南西部にある貴州省の山村では、貧困のため学校をやめ出稼ぎに出たり、結婚したりする子どもが少なくない。しかし、論語を暗記させることで子どもたちの勉強への意欲を高め、大学進学や都会での就職する夢を持たせたいと考え、教え始めたが、子どもたちを取り巻く環境は厳しい状況が続いている。そんな中、彼自身もわずかな収入では結婚もできず、両親の老後の面倒も見られないまま、「親孝行を説く儒教を教えてきたのに」と苦悩する。

 孔子の「論語」に始まった、夢づくりの試みの結末は一体どうなるのか。格差が広がる社会の中で、貧困からはい上がろうとする青年と子どもたちの奮闘を、カメラが追った。

と書かれていて、視聴者側の受け皿によっては多様な感慨が生まれるのではないかと思いました。

 一方儒教国家体制の中で敗北した者たちの指針となる『荘子』、100分de名著第三回目は、

 自在の境地「遊」

「遊」とは、「神と人間が一体となった境地」、無為自然の「荘子の世界」が別視点から語られていました。

 人間的な思惑とか分別を超えた世界に行くことをいう。

と玄侑宗久さんは禅の世界と重ねながら語っていました。

 柳は緑、花は紅

有名な道元さんの言葉ですが、確かに柳に花を求めたり、花に柔軟な枝を求めるのも滑稽な話し、それぞれの持ち前を離れることはできません。

 自然とともに山間地に生きる子どもたちの未来

 同じ山間地に育ち石さんから論語を学び、結局は家庭環境によりますが、中学校に通うことができ優秀な成績を収める子どもたちもいれば、夢とは異なる現実社会に引き戻される子どもたちもいる。

 孔子や荘子

 こういう番組を見ながら、自分の生き方を考えるのですが、衣食住に困らず浪費せずにいればあえて給料をもとめることもないので、世間一般に合わせて第二就職をしてしまった「わたし」、日々の吐露になってしまいますが、穏やかに生きられないものか。

 最近光文社新書から伊藤亜紗著『目に見えない人は世界をどう見ているのか』が出版されています。生物学者ユクスキュルの環境世界の話も出てきますが、それぞれの生物は意味を構成する「主体」、「荘子」の番組でも主体の話が出てきますが、目の不自由な人とそうでない人では外界から受ける情報量が違います。

 坂道を歩くと山登りに、外界を見ることはすべての現象から意味を問われることであり情報量は莫大な量になります。

 「世界」

とは何か?

番組それぞれに受ける側に何かを問うています。まさに問われる存在、期待されている存在、そんな気がします。

 そういうものとして自得しているところにおいてそういうこととして会得する。

 西田幾多郎先生はそのような言葉を言っていたと思いますが、存在の驚きの此岸において現れてくるものなのかも知れません。


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