昨夜のEテレ「100de名著 ドラッッカーの『マネジメント』」を観て政局を物見役のリュンケウスの目線で見ていると「人間を幸せにする社会とはなんだろう?」、政治家のマネジメントはどうなっているのかと考えさせられました。
今朝は、この番組について内容ではありませんが、あまりにもその政治家の業の深さに次の言葉を思い出し、そのことを書きたいと思います。
徒然草の第百四十二段に、原文ではなく、訳文で、
世を捨て出家している人で、万事に係累(けいるい)のない人が、一般に係累の多い人で、何かにつけて追従し、欲の深いのを見て、ひどく軽蔑するのは、まちがったことである。
その人の心になって思えば、まったく、いとしく思うであろう親のため、妻子のためには、恥までも忘れて、盗みさえもするのにちがいないことである。
だから盗人をしばり、悪事をだけ罰するようなことよりは、世間の人が飢えたり、寒い思いをしたりしないように、この世を治めてほしいものである。
という話があります。徒然草が好きな人は忘れ得ぬ弾ですが、この文章の「係累」と書かれた箇所があります。
原文は、
世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべてほだし多かる人の、万にへつらひ、のぞみ深きに見て、・・・・・
となっています。
なべて「ほだし」多かる人
この「ほだし」という言葉、「親、妻子などの係累」と訳され、
同じ徒然草の二十段にも、
原文
なにがしとかや言ひし世捨人の「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空(そら)の名残(なごり)のみぞ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
訳
何某とかいった世捨人が、「俗世間の、心の束縛となる諸縁を持っていない身にとって、ただ自然の名残だけが惜しまれる」と言ったのこそ、まったく、そのように思われるにちがいない。
とあり、
ほだし=諸縁=親、妻子の係累
「ほだし」の意味は、このようになります。
そこでさらに古語辞典(大修館)を引いてみると、
ほだし【絆】(名)
1 馬の足にからませて歩けぬようにする縄
2 人の身体の自由を束縛するもの。障害となるもの。
3 手かせ。足かせ。罪人などの手足にはめ自由を奪うもの。
と書かれています。
ここで「きずな」という漢字が「ほだし」と同じ字を使っていることがわかります。すなわち、
「絆」という漢字には、「ほだし」とも読まれ、親子の絆=係累なわけです。
ここで驚くのは、つれずれ草の内容ではなく、漢字の話なのですが、ほだし(絆)の1・3の意味、すなわち、
「馬の足にからませて歩けぬようにする縄」
「手かせ。足かせ。罪人などの手足にはめ自由を奪うもの。」
とあることです。ちなみに逆引きで、「きずな」の古語類語は
「ほだし」と「えん」
です。「絆」「縁」ということになるわけです。
絆=縁
当然であり当たり前なの話となるのですが、
逃げないように縛る縄、自由を奪う足かせ
この言葉をイメージすると、強烈な、印象を受けます。なぜなのだろう。古の人々はそれほどまでに「絆」を「縁」を意識していた、源の意識として持っていた、ということなのだろうと推測するしかありません。
一方で縁を説き、一方でその束縛から離れよ
と説く、切るときは、切る。そう決断しなければならないときもある。
人の人生、政治家の人生、足かせ、手かせ本当に不思議な縁で結ばれています。
だからこそ縁というものの本来的な意味をしっかりつかむ必要があるのかも知れません。
それは人間界や自然界との世界での絆であり縁であるのだろうと思います。
「人間を幸せにする社会とはなんだろう?」のドラッカーの言葉を思い出します。
バランスのとれた、日本語であれば「安定」した、心のつかみをしたいものです。
「心の安定」「安定を求める心」を欲望にとらわれて落ち着く意識・意欲の心と、説くのはこの因果の道のそぐわないように思います。
安定とは落ち着くべきところに落ち着くことであり、その落ち着くべき過程・修業が道なのだろうと思います。
※ 引用参考文献「方丈記・徒然草・正法眼蔵随聞記・歎異抄」(日本古典文学全集・小学館)から
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