思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

徳の「いきおい」・業報

2010年11月28日 | 宗教

 日本書紀の仁徳紀の最後に次のようなくだりがあります。
 

 天皇は早く起きておそく寝て、税を軽くし徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われた。・・・・。<学術(上)p250>


この例文は、講談社学術文庫の『日本書紀(上)』(宇治谷孟著)p250から引用です。

 この文章の「徳を布き」ですがこの「徳」にはルビがなく、普通は「徳(とく)をしき」と読むのではないかと思いそのように読み過ぎる文章です。

 次に同じ日本書紀の持統紀の最初の部分に次のくだりをみます。


 ・・・天子の御子ながら、まろやかな心でへり下り、礼を好まれて国母の徳をお持ちであった。<学術(下)p312>


「徳をお持ちで」とありまたこの「徳」にもルビはありませんから「徳」は「とく」と読み疑念なく通り過ぎる文章です。

 朝から当たり前のことを、日本書紀なんぞを取り出して思われる方が大半だと思います。
 この同じ仁徳紀と持統紀の箇所を今度は岩波文庫、岩波日本古典文学体系(同じですが、人それぞれに持ち物が違いますんで項が異なりますのであえて書きます)でみると次のようになっています。


 天皇(すめらみこと)、夙(つと)に興(お)き夜(おそ)く寐(い)ねまして、賦(みつぎ)を軽(かろ)くし斂(をさめもの)を薄(うす)くして、民萌(おほみたから)を寛(ゆるやか)にし、徳(いきほひ)を布(し)き恵(うつくしび)を施(ほどこ)して、困窮(くるしくたしなき)を振(すく)ふ。<文庫(二)p278・体系(上)p416>


次に持統紀ですが、


 帝王(みかど)の女(みこ)なりと雖(いへど9も、禮(ゐや)を好(この)みて節儉(みこころまたくみみへ)りたまへり。母儀徳有(おもたるいきほひま)します。<文庫p232・体系p484>


とそれぞれ書かれています。


 今朝話題にしたいのはここに記されている「徳」という言葉です。
 普通ならば「とく」と読むと思われるところが実際は上代の人々は「いきほひ」と読み手に読ませたいようです(現代の注釈者がそうするのではなく)。

 大陸文化に負けない国史を創ろうとした時の人々、たぶん漢字知識のある渡来系の人々かもしれませんが、この徳という表現の中に当時の徳に対する特別な観念を有(も)っていたようです。

 徳の一面として「勢いであり力である」という観念を抱いていたということです。

 思考する時の志向性を思うときに、視点の方向性に主体と客体や自己と他者を考えるときにそれだけでなく、そこに古代精神の観念の有し方、持ち方に力の強弱があるようです。
 
 そしてこの強弱が身の内と外の関係にまで移行するのです。難解な表現になりましたが、これを

 <上代日本人の徳観念を極めてよく洞察理解し表現しているものと思われ、実に徳は勢いであり力であるのです。>

と書くと分かるかも知れません。

 この勢いは、日本書紀のみで断定されるものではなく、その後の時代とはいえ、今昔物語(巻26・30)にも「勢徳有ル兄弟」および「勢徳器量(イカメシ)クテ」とありますから、時代の中に見ることができます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私たちが神仏に手を合わす時にどのような感慨を思って事にあたっているでしょうか。

 「(私に対して)そうでありますように」とか「(私が)そうなりますように」というように「めぐみ」と「めぐみの力」を考えている自分はないでしょうか。

 ごく自然な行為として、悟りによる自己改心ではなく、回心として神や仏に向き合います。そうすることによって神や仏からめぐみとしての力を得、勢いを手にするのです。

 この話は、私の考えによる話ではありません。
 
 私が勝手に名著と思っている『日本古代道徳の研究』という本があります。日本文学の一学徒生(文学士)の宮崎秀春さんが書かれた本です。昭和7年には原稿はすでに出来上がり14年という開戦2年目の年に、宮崎さんの恩師文学博士深作安文先生がどうしても教え子の本を世に出したかったのでしょうそのような背景があって出版された本です。

 戦後の宮崎秀春さんは「Moralities研究」という論文を和辻哲郎先生文化勲章受賞記念論文集に掲載しています。
 
 この宮崎先生の発想には驚かされます、昨年は「鎮」とい言葉に注目し、 ”やまと言葉の「こころ」” で紹介しました。

 「勢い」というイメージは「神風」に移行する考え方に影響するものですから、戦後は当然どのような立場を強いられたが想像されます。しかしすごい視点のある方で舐めるような(表現がまずいですが)古典の知悉の姿勢には驚くばかりです。

 徳という勢いとでも言いましょうか、我々は徳を積みたいと思います。自らの努力だけではだめだと無意識の内に感じないでしょうか。科学的とか非科学的という次元ではなく、心情として「有り」「成っている」ように思うのです。
 
 それが生命の生きる勢いにもなっている、エネルギーの一翼にもなっているようにも思うのです。

 今朝も少々わけのわからない話かもしれませんが、これはあくまでも私見ですがそう思うのです。

 仏教には四特質があり第三は「徳(guna)」とされています。宗教的、倫理的な「善」としての徳を意味し、相対善(有漏善・うろぜん)と絶対善(無漏善・むろぜん)とに分けられ、相対善は輪廻転生の迷いの世界における善であって、善因善果の因果の法則で、善をなせばそれなりに報われることになります。さらに絶対善になりますと因果合法を超えた、すなわち輪廻転生を超えた悟りの聖なる善を目指すことになります。

上代の徳に関する考え方には行いとしての善と報われとしての善の行いがあるように思います。

 「求めよ」「救われ」は業報に支配される善の人にあらわれる求めの片面でもあるわけです。上代人にもしっかり迎合できた、しかもその心は歴史的身体として残り続けているのかもしれません。

 パワースポット的な話は、超自然的な現実離れをいうのではなく、徳性の向上を願う心であれば現実離れの話で終わりません。

 「ありがたさに涙こぼれる」ときが力が憑いた時なのかも知れません。

 善いものならいいのですが、変なものが憑かないようにするためには、善い先人を選ぶことが大事です。

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