思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「実存派」と「社会派」の二つのタイプ

2012年05月24日 | 思考探究

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 毎朝通勤の際に見る常念岳のある風景、今は田植えも終わり水面い常念岳の姿が映ります。毎年見る風景で、季節ごとに見る風景常念岳が、あって田畑や林があります。

 どう見ても同じ風景であるのに、実は異なっている風景でもあります。土地開発が進む地域での風景ならば、日ごとに異なる風景が展開されるかもしれませんが、常念岳のあるこの風景は違いを特定することに視点をおかない限り、そこに違いを見い出すことができません。

 昨年と同位置、同時間・・・「同じ」という環境の中で撮影し、重ねればその違いが分かる、と考えますが、そもそも「同じ」と言っているところに既に同じはない。

 「同じ」という言葉で思い出すのが、ギリシャのヘラクレイトスの「万物は流転する」の例として「同じ川に入ることはできない」という言葉。その弟子クラチュロスはその言葉を「同じ川には一度足りとも入れない」と言い直しました。

 「同じ」という言葉には「反復」があって「二度と」を入れないという物足りなさを感じる、つまらない話ですが確かにそう感じます。

 さて今朝はそんな話をするつもりはなかったのですが、きのうこの写真を撮ったので早速アップしたいと思い、こんな話から始めました。

 最近のこだわり「実存」と「実在」についての話です。Eテレの100分de名著という番組、昨日カフカの全4回の4回目が終わりました。この番組は昨年の4月からはじまった番組で最初がニーチェの『ツァラトゥストラ』でした。世の中便利といってよいのか、NHK出版から今年の3月にこの番組をまとめた出版されました。自分でもかなりまとめてはあるのですが、忘れないためにも身近に置くには便利な本、早速購入し追加分も含めて読んでみました。

 思考視点がそこにあると気が付くもので思考のタイプといってよいのかも知れませんが「実存派」と称する思考タイプについて西研先生が言及しているところが目に留まりました。「実存派」と「社会派」という二分類の考え方で登場していました。

<『ニーチェ ツァラトゥストラ』西研(NHK出版)から>

 そもそも人間には、「実存派」と「社会派」の二つのタイプがあるようです。自分自身の苦悩と生き方にとことんこだわり、あまり社会のことに関心をもたないタイプの人が実存派ですね。

それに対して、もちろん個々人の苦悩は大事だけれど、社会をよくするのが先ではないかと考えるタイプの人がいます。これが社会派です。不景気や悪法があればみんなが苦しむわけですから、人々の生活の「基本条件」である社会をよくすることが大切だと社会派の人は考えるのです。ヘーゲルの思想は典型的な社会派です。

それに対して、ショーペンハウアーやニーチェはまったくの実存派ですね。

 でも、ぼくは思想としては両方とも大事で、上下はつけられないと考えています。それでもあえていうなら、実存の課題のほうが第一のものだと思います。自分という人間が、自分の砲える苦悩に直面しながらどう生きていくのかが、最初の思想の課題。

その次に、自分だけでなくてみんなが幸せに生きるための社会的な条件をどうつくるかということが来る。ですから、思想の順番としては実存から社会に向かうのだと考えます。

 ただ誤解してほしくないのですが、ヘーゲル自身は実に思慮深い人で、実存的な感度もたっぷり持ち合わせた大きな人物だったのです。ニーチェもヘーゲルその人については(あまり読んではいないようですが)、罵詈雑言を浴びせたりはしていません。

しかし俗にいう「ヘーゲル主義」----個々人の生のなかにどれほどの深みや闇があるかをまったく見ることなく、社会の進歩だけを謳うような思想----には、ニーチェは大きな違和感を抱きました。この「人間の実存の深みを見ない進歩主義的な思想を破壊する」という感覚は、生涯ニーチェについて回ることになります。

<上記書p23~p24>

 「実存派」と「社会派」であって「実存派」と「実在派」ではありません。

 「実存派」と「社会派」

自分のことが先か、社会のことが先か、自分に関心を置くか、社会に関心を向けるかなのですが、西先生はこの中で、

<ぼくは思想としては両方とも大事で、上下はつけられないと考えています。それでもあえていうなら、実存の課題のほうが第一のものだと思います。自分という人間が、自分の砲える苦悩に直面しながらどう生きていくのかが、最初の思想の課題。

その次に、自分だけでなくてみんなが幸せに生きるための社会的な条件をどうつくるかということが来る。ですから、思想の順番としては実存から社会に向かうのだと考えます。>

 私も実にそう思います。「実存の課題のほうが第一のものだ」はさて置き、自分を見つめ直すことを忘れてはならい。同じ私では二度とない私です。そこには身体的にみても同じではない私がいます。他者との存在の中、間主観性がみてとれる、そんな生き方をしたいものです。

 ※「間主観性」というと宣伝ではありませんが『間主観性の現象学 その方法』(フサール)の訳本が筑摩書房から出版(2012.5.10)されました。

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