
今回の「ハーバード白熱教室・第11回」は、サンデル教授の、次の言葉からはしまります。
サンデル教授
今回は、なぜ人間は自分の属するコミュニティ、国家や家族、ふるさとに愛国心や愛着を感じるのか考えます。
そうした愛国心が、普遍的な正義と対立することはないのか、この講義も残り2回。私の提唱するコミュニタリアニズムへと議論は進みます。
このように、残すところ2回となった講義は、サンデル教授のコミュニタリアニズムの思想を説明する課程の授業となります。
「愛国心と正義 どちらが大切?」ということで、Lecture21「善と善が衝突する時」・Lecture22「愛国心のジレンマ」について講義が展開されるのですが、実に学生の議論、ハーバードの学生の優秀さがみることができるものでした。
私自身既に人生も余すところわずかとなり、学生時代をもう一度経験したいという衝動に駆られます。まあ、そのような感傷的なことよりもその論議、思考の世界に魅了され、今夜も理解不足ではありますが、紹介したいと思います。
サラリーマンとして時間の制約がありますので、キーを打ちながら紹介できる範囲で掲出したいと思います。
論理の展開を理解する上で、まずLectureごとで解説される千葉大学の小林正弥教授の、Lecture21「善と善が衝突する時」の講義終了後に放送される解説からそのままを紹介します。
小林教授
今回はコミュニタリアニズムという思想がでてきました。この思想はサンデル教授の思想と密接な関係がある。
サンデル教授は、ローズルを批判してコミュニタリアニズムという思想を出発させた代表者の一人と考えられている。
自己をどうみるかということは、政治哲学においてはきわめて重要な問題であり、サンデル教授は、自己を抽象的ないし形式的にみるだけでなく、実際は自己はコミュニティーの中に存在し、コミュニティーの歴史があり、その中でどういう「生」を生きるのが善(よ)いかという、「善」に関する考え方があるとする。
そのような中で人間は育ち、成長し、自ら人生を生きていく存在であるという見方をことを提起している。
そのことをいうためにサンデル教授は「負荷ある自己」「負荷ありき自己」という言い方をしている。
今回の授業は、このような観点からコミュニタリアニズムの思想としてもう一人の代表者マッキンタイアの議論を紹介している。
倫理学者マッキンタイアは、伝統、文化、美徳を強調して、人間の人生が生れてから様々な人生を生き、死ぬまでを一つの物語としみることができるとしている。
そしてマッキンタイアは、その中で「善」というものを実現していくことが望ましいということをアリストテレスの議論を使いながら提起している。
以上の解説です。
その論議が次のサンデル教授の言葉から始まります。
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サンデル教授教授
今日は、アリストテレスに対するカントの反論について考えていこう。
カントは、アリストテレスの考えは間違っていると主張した。
権利が保障される公正な枠組みが整い、その枠組みの中で人々がそれぞれが思い描く「善き生」を追求できるようにすることは大事だが、ある特定の「善き生」の概念に基づいて法律や正義の原理を定めることは、強制の危険を冒すものであり、認めることはできないとした。
アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには、最善の生き方を理解しなければならないと述べたが、カントはこれを否定する。
カントの意見では、政治体制や法律や権利は特定の生き方を具現化し、支持し促進すべきものではない。なぜなら自由と対立するからだ。
一方アリストテレスにとって法律の本質やポリスの目的とは、
市民の特性を形成し、市民の美徳を育み、市民としての卓越性を教え込み、善き生を可能にすることだった。
著作『政治学』でそう述べられている。
それに対し、カントにとっては、法律の目的や政治体制の意味は、美徳を育んだり、促進したりするものではなく、権利が保障される公正な枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれに思い描く「善」の観念を自由に追求するためのものだった。
これで二人の正義論の違いがわかったと思う。
法律の意味、憲法の役割、政治の意義において違いが見られる。これらの違いの根底にあるのは自由な人間であるとはどういうことかの解釈の違いだ。
アリストテレスによれば、人間は自分の潜在能力を発揮する能力がある限り自由なのだ。この考えは、個人とその個人にふさわしい役割の適合の問題につながる。
そのためには自分が何にむいているか理解する、ということが必要であり、それが自由な生活をおくるということであり、自分の潜在能力にふさわしい生活をおくるということなのだ。
カントは、その考えを否定し、その代わりに自律的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考えを主張している。
自由とは、自分が自分に与える法律に従って行動すること、すなわち「自律」を意味する。
カントやロールズの考え方が、魅力的で道徳的に説得力があるのは、自由で独立した自己としての誇示、自分の目標を自分で選ぶ能力がある誇示、というとらえ方にある。
自由で独立した自己、というイメージは、力強くて開放的なビジョンをもたらす。このビジョンとは、自由で道徳的な個人としての私たちは、歴史や伝統など、自分が自ら選んだわけではない、過去のことがらには縛られないということだ。
人間は自分で選ばない限りいかなる道徳的つながりにも縛られることはない。これが意味するのは、人間は自由で独立した至上権を持った自己だということだ。
人間は、自らが作り出した義務よってのみ、自らを律するのである。
カント派やロールズ派の自由主義を批判するコミュニタリアン(共同体主義者)ですら、自由とは、自由で独立した自己が自らの行動を選び取ることだ、という主張には説得力がある、と認めている。
しかしコミュニタリアンは、そこからは道徳的、政治的なせいという側面がそっくり欠けてしまっていると論じる。
カント派の考えに従っていけば、一般の人々に広く認められ、賞讃される道徳的、政治的な義務を説明できなくなってしまう。
例えば集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身は同意した覚えがなくとも、人間には守らなくてはならない道徳的なつながりがある、とコミュニタリアンは言う。
コミュニタリアニズムの政治哲学者アラスディア・マッキンタイア(アメリカ1929~)は、自己を説明するのに「物語的な観念」を用いている。
これは自己を語る上でカントとは異なる考え方だ。
物語的な観念
人間は、本質的に物語を紡ぐ動物である。『私は何をするべきか』という問いに答えるには、まず、『どんな物語の中で私は自分の役を見つけられるか』という問いに答えてからでないと答えることはできない。
これがマッキンタイアのいう自己の物語的な観念である。これがコミュニティーや帰属意識とどう関わってくるのか、マッキンタイアはこう述べている。
道徳的な考えの物語的な側面を一度受け入れれば、私は、たんなる個人としての善を求め、美徳を実践することはできない。私たちは皆、特定の社会的アイデンティティーの担い手をして、周囲とつき合う。
私は誰かの息子であり娘であり、どこかの都市の市民であり、この一族、あの民族、この国民に属している。
従って、私にとって善いことは、このような役割を生きる者にとってよいことであるはずだ。
私は自分の家族、都市、民族、国民の過去から様々な負債や遺産、期待や義務を受け継いでいる。
わたしの人生にもともと与えられたものであり、私の道徳的な出発点である。 それがある程度わたしの人生に、道徳的特性を与えるのである。
これが自己の物語的な観念だ。これは自己というものはある程度まで、その人が属するコミュニティーや伝統や歴史によって規制され「負荷を掛けられる存在である」という考え方である。
そういった特徴に関心を向けないまま何をすべきかと考えても、人生の意味を理解することはできない。
心理的な問題としてだけではなく、道徳的な問題としてもだ。
さてマッキンタイアは、「自己の物語的観念」「負荷ありき自己」という図式は、現代のリベラリアニズムや個人主義と対立する、ということを認識している。
個人主義の観点からいうと私とか、自らこうありたいと選んだものである。つまり私は生物学的には父の息子であるかも知れないが、自分が望まない限り、父のしたことの責任を負わされることはない。
同様に自分が望まない限りは自分の国がしてきたことの責任を負わされることもない。しかしマッキンタイアはそういう考え方は道徳的に浅はかであり、無知であるという。
この無知とは、集団的な責任や過去の歴史から生じる責任も含む、最も重要な責任を逃れようとする無知である。彼は幾つかそのような個人主義の例を挙げている。
例えば、「自分は奴隷を所有したことがない。」と言って奴隷制がアメリカの黒人に与えた影響について責任を否定する現代アメリカ人。
あるいは、「1945年以降に生れているからナチスがユダヤ人に対してしたことは、自分と現代ユダヤ人との関係に何の道徳的な関連も持たないと考えている若いドイツ人。
マッキンタイアによれば、自分が誰であり、自分の義務がなんであるかを明らかにするためには、自分を定義する人生の歴史と切り離して考えることはできず、切り離すべきでもない。
一度このことが解かれば、歴史に対するこのような記憶喪失的な態度は、道徳を放棄することに等しい。
マッキンタイアは言う、
物語的な自己のコントラストは明らかである。
私の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根づいており、アイデンティティーはそこから生れるからである。
私は過去とともに生まれてきた。私をその過去から切り離そうとすることは、私の現在の関係を歪(ゆが)めることになる。
自己は集団の構成員であること、歴史、物語との特定なつながりと切り離すことはできず、切り離すべきでもない、とする、マッキンタイアの強力なメッセージを解かってくれたと思う。
さて個人主義のいう「負荷なき自己」に対するコミュニタリアンからの批判について、君たちの反応を知りたい。・・・・・・・
ここから道徳的、政治的責務についてどちらにがより説得力のある解釈を示すかという、学生間の議論が始まるのですが、そろそろ時間なのでこのキーを打つのを終わりとしますが、実に素晴らしい議論で、最後の東洋系の女性との答えに、サンデル教授も言葉を失い、笑いの中でLecture21「善と善が衝突する時」の講義終了しました。
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毎回感心される白熱教室。今回も、実に深き討議が行われ知識欲がそそられるものでした。
アリストテレスとカントの主張の違いを分かりやすく解説していて、すらすらと頭の中に入ってきました。
さすが、ハーバード。やはり、サンデル教授の問題提議も凄いのでしょうね。
> 私自身既に人生も余すところわずかとなり、学生時代をもう一度経験したいという衝動に駆られます。まあ、そのような感傷的なことよりもその論議、思考の世界に魅了され、今夜も理解不足ではありますが、紹介したいと思います。
とありましたが、これからも続けていただけることを願っています。
コメントありがとうございます。
時間と文才と、そして理解力に乏しく真に恥ずかしいことです。
ハーバード白熱教室は、その授業の雰囲気にとても感銘を受けます。哲学する姿、思考する学生の姿、その真剣さに惹かれます。
参考書では、議論お姿はわかりません。その姿を文章で留めたい。NHKの番組のシナリオが欲しいのですが、本にしないのでしょうか。残念です。
今後もよろしくお願いします。