長野県北安曇郡小谷村で発生した小学生女子の行方不明事件、捜索の結果河川から遺体で発見されました。
最近天候が悪く、小谷村方面は大町、北安曇郡とを合わせた地域は大北地域と呼称され連日大雨警報、土砂崩れ警報が出されていました。
平常時ならば、同様に登場してくるような小川のせせらぎも濁流の音を立てて流れていたのではないかと思います。草に覆われ川の流れが分からない、母親の後を追ったこの子は足を滑らしたに違いありません。
こういう悲しい出来事が、なぜに起こるのか、子を失ったご家族の悲しみを思うといたたまれません。時の流れとはかくばかりに残酷なものです。
「アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪というものはない、神より造られたる自然は凡て善である、ただ本質の欠乏が悪である。また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。」
この言葉は『善の研究』の第3編第13章に「完全なる善行」に出てくる言葉で深く「美」という言葉を考えさせられます。
「影が画の美を増すが如く」
V・E・フランクルの語る精神的無意識にある「理性」、幼子が倒れしときは無意識に手を差し出し助けようとする。万人すべからくそうであろう。
私の幸せ感は、体験的な過去から浮き出る悪との対比なのだろうか。
悲哀のニュースを見聞きして、何と人間は残酷なのだろうと思う。
現実という現象は、問うもの以外の何物でもない。
悲しみ、愚かさ、楽しみ
「本質の欠乏が悪である。」
あるべき本質の解釈を普遍的な事柄に還元はできません。
本質を語ろうとすると、永遠なる問いに変わってしまう。
ただ現実を直視するしかない。そう、精一杯生きるしかないと思うのです。