評論家で作家の東浩紀さんらのグループゲンロン友の会が発表した「新日本国憲法」草案については先週の「朝まで生テレビ!」で放送されたことについては、時々ブログに書いていますが、昨日の朝日新聞の文化欄に「新しい日本 憲法で描こう」と題し東さんおコメントも含めてわかり易く解説されていました。
日本の現状はナショナリストが「改革」を進め、リベラルが戦後日本を「保守」する構図になっている。と書かれていますが「イデオロギーを持つ擬似リベラル」とした方が良いように思う。
番組に登場していた民主党の女性議員、少々自慢にもならない事件で世を騒がした方ですが、こういう人をリベラルと呼称してはいけないと思う。話し合いの場においては常に我を通し、常に「私は正しい論法」を展開します。
番組でも人の話は聞かない多々見られました。
「新しい日本 憲法で描こう」という見出し。
中国近代文学の専門家の福嶋亮大さんが書いた『神話が考える』(青土社)の発想に重なるものがあります。そもそもこの著書の推薦を東さんが書いているのでそうなのでしょうが、シナリオ通りにいかないのが現実ですが、こうでありたいという構想は誰もが持っているものです。
単なる何でも反対では何も描けない。実際上記擬似リベラルの人々は壊すことはできても生成することは苦手でした。だからと言って現憲法を守ることでないかできたかというと、今現在の現実があるわけです。
今の社会をつくったのは自民党であると言っても、護憲の彼らに何ができたのだろう・・・・ということです。
何かをやるには具体性がなければなりません。彼らがもしも「私たちは憲法に次の条文を追加する憲法草案を提案します。」と主張したらどうでしょう。
憲法第〇〇条[原子力発電所の放棄]
日本国民は、エネルギー源としの原子力発電所の利用を将来にわたり放棄する。
第二項 現在保有する原子力発電所は、速やかに廃炉にしなければならない。
第三項 これに関わる政策については特別法に規定する。
「原発反対」「原発再稼働反対」ではなく「新憲法制定し廃炉に追い込もう!」で主張すれは全国民が立ち上がる・・・・・。
毎週毎週デモが行われているのに、全国民は立ち上がろうとしないのか。
原子力発には問題もあり、子孫に顔向けできない状態です。
それでも人々は立ち上がれない。
具体的に主張すればと上記の新憲法への追加規定を書きましたが、断言してもいいのですが、それでも常民は立ち上がらないでしょう。
直ちに廃炉になればどうなるか知っているからです。
何を知っているか。
分かっているが語れない。
不立文字のような「語りえない世界」やウィトゲンシュタインの「語りえないものについては、沈黙せねばならない。」に似ているようですが、ここでは「沈黙すること」が本能がそうさせています。
電気が足りなくなり電化製品が機能しなくなる。通勤電車も使えず、以前の北京のような自転車が主流の交通手段の東京。
電力の大量消費機関の消費量抑制をすればどうなるか・・・誰でもわかる、少ない知識、情報量でもシミュレーションできます。・・・・だから「沈黙しなければならない」わけです。
だからどうすればよいのか。
「新しい日本 憲法で描こう」
は、せめてビジョンを持ちましょう。新しい神話がどんな世界をつくるのか・・・そのような危害を与えるものだと思うのです。
ゲンロン憲法委員会「新日本国憲法」には多くの問題もありましょうが、こういう思考の発想が今の日本人には必要なのだと思います。
いじめや自殺が起きない学校教育は、条文に明記することだと思います。
教育の目的
学校教育においては、いじめやこれに関わる自殺が発生しないように教育関係者や保護者は全力を傾けなければならない。
という条文を早急に追加することです。誰もそれをしようとはしません。
「遊びといじめの区分ができない」
そんなことは事情聴取しなければわかりません。取り調べでも何でもなく教育の姿がそこで描けれように附則で補えばよいのです。
こう書いて思うのは、権力闘争、常民が主人公的な発想に前向きにビジョンが描けないのには驚きます。
廃炉要求のための新憲法草案、憲法改正を叫んだ方が現実味があり、常民の反応を見ることができると思うのです。
なぜ常民を使うのか。東さんは住民という言葉を草案にいれていますが、民俗学的にこの言葉の方が好きです。この言葉が左派系が使用すると権力側に虐げられた人々という用語に価値転換されてしまいますが、本来は人間らしい魂の行くへを願う普通の人々です。
魂は山に登りまた海のかなたの常世に向かう。
穏やかな生き方をしたい人々です。