Sightsong

自縄自縛日記

『魯迅』、丸木位里・丸木俊二人展

2008-01-24 21:58:28 | 中国・台湾

神保町すずらん通りにある内山書店のワゴンで見つけた、丸山昇『魯迅 その文学と革命』(平凡社東洋文庫、1965年)が思いもよらず面白かった。

魯迅作品の持つ暗黒や絶望、怒りはどこから来るのか、それを魯迅の生涯の追体験によって実感できるものになっている。竹内好の一方的な魯迅世界に馴染めない自分には、こちらの方が望ましい。魯迅は、よく中国社会を背景にしているため、日本人には理解しがたいと言われる。それはそれとして、社会の暗黒も革命も心の裡に抱え込んで、そのエネルギーを暴発させた魯迅の「個人的」な文学世界を考えるなら、その指摘は半分のことしか想定していないことに気がつく。

その、社会や人間=俗物に対する絶望は、幼少時から、革命を巡る激動まで、さまざまなパスで蓄積され、熟成されていったことを、本書から読み取ることができる。民衆を救おうとした革命家の処刑を民衆が無上の見世物として見物するという図式。落ちぶれた旧家の息子に冷たいあざけりを浴びせる民衆。盗賊に家を占領されながら感激する奴隷根性。そして辛亥革命を経ても全く関係のないその本質。一方では神話・伝説に見られる民の生命力・バイタリティ。

このような側面を、政治と文学との関係、政治と民衆とのつながり、人間の愚弱さ、因襲の持つ負の面、「個」としての強靭なあり方など、さまざまな視点から考えうることが、魯迅作品の魅力であることが改めてわかるわけだ。

また、本書では、魯迅が生きた時代の社会革新を巡る雰囲気も感じさせてくれる。たとえば、19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本が清国政府打倒の楽屋になっていたこと。孫文も魯迅も、そのような中にいた。山中峯太郎が書き大島渚がドラマ化した『アジアの曙』は、そのような空気のさなかにあってこその物語だったわけである。

そして後年、魯迅が極端な共産主義者たちから「プロレタリアート性が希薄」だとして攻撃される背後には、辛亥革命や運動の経験がなく、皮相な理論のみがもてはやされていたことが明らかにされる。皮相さのもとになったものは、実は、中国インテリが日本留学時に触れた福本イズムだったとされている。その福本イズムにしても、ソビエトでブハーリンに否定されてあっさりと日本での受け止められ方が逆転したペラペラさ(桶谷秀昭『昭和精神史』、文芸春秋、1992年)を考えると、腰の据わっていないペラペラさの連鎖ということになってしまう。

そのような見かけの革新や、政治への過度な依拠とは、魯迅世界は、勿論対極にある。凍えるような強風に晒されながらも立ち続ける精神性、これである。

【参考】
魯迅の家(1) 北京魯迅博物館
魯迅の家(2) 虎の尾
魯迅グッズ

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今日、徹夜明けでもう帰ろうと神保町をふらふらしていたら、その内山書店近くの「檜画廊」で、「丸木位里・丸木俊二人展」をやっていた。昨年末に沖縄県宜野湾市の「佐喜真美術館」で観た『沖縄戦の図』シリーズや、原爆のシリーズなどしか知らないので、力を抜いた旅先での絵を観ることができたのは良かった。

丸木俊はぴょんぴょんと飛び跳ねてうきうきするような作品が多い。それに対し、丸木位里の作品は、枯木とも違う、骨太の線でアバウトに形成されたマッスと、その上の渋い色が印象的だった。

佐喜真美術館館長が言っていた、丸木位里は、墨があれば絵が生まれてこなければ画家ではないとしていたという。その湧き出るインプロヴィゼーションが小品にもやどっているようにおもえた。

【参考】
佐喜真美術館


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2 コメント

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Unknown (muzex)
2008-02-11 22:39:56
Hi, I saved your page.

Thanks a lot for these contributions!

すみません、日本語が少しわかりました。
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Unknown (Sightsong)
2008-02-11 23:49:33
muzexさん
フリージャズ系の映像が多いですね。
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