Sightsong

自縄自縛日記

リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『根拠地』 その現代性

2009-11-14 00:39:21 | 北米

『根拠地』(せりか書房、原著1966年)は、リロイ・ジョーンズ(のちのアミリ・バラカ)が60年代前半にアジテートした、黒人としての怒りに満ちた記録である。原題は『Home』、赤軍による国際根拠地論などを意識しての翻訳だろうか。北朝鮮を革命の根拠地と信じてよど号が乗っ取られたのが1970年、日本赤軍がパレスチナに向かったのが1971年、本書が翻訳された1968年はおそらく新左翼運動のピーク前後にあった。

ここでの「Home」とは、最初にジョーンズによる訪問記があるキューバ(30代のフィデル・カストロの描写は魅力的だ)は勿論だが、自分たちの住む米国そのものをこそ意味しているだろう。黒人の公民権運動が火を噴いた時代である。

しかし、ジョーンズのスタンスは、キング牧師に代表される「非暴力」の標榜とはまったく異なっている。彼に言わせれば、貧困でない「中産階級」の黒人たちや「白人寄り」の黒人たちの言動は欺瞞、偽善なのである。非暴力についても、黒人が抑圧されることのない社会の実現には貢献しないものとして、容赦なく批判する。何故なら、如何に非暴力が善意と信念に基づくものであったとしても、非対称の信念であるから、ゴールには決して到達しないから、であった。

「そして、あの《消極的抵抗》の叫びが、共通の社会的活動という言葉に移しかえられるとき、その意味するところは、きわめて簡単である。すなわちこうだ、「これまで通りにやりなさい。そうすれば、白人に何らかの奇蹟が起って、みなさんの苦しみが偶然であったこと、そして結局は、甲斐あるものであったことを、きっと証明するのだから。」

「黒人は、白人社会内の相対立する勢力によって絶えずその境界を限定し直されてきたところの、アメリカ社会の特定の場所に存在しているので、非暴力と消極的抵抗とは、それらの勢力のなかの最強の分子、つまり生まれつき伝道者的な工業・自由主義的分子によって認められたものとしての黒人の地位の現代における境界再確定の反映であるにすぎない。」

「ともかくも人間なるものは、たいていの場合黒人たるものは、《自由に向って前進しなければならない》という名目主義の偉大な格言のひとつ(この格言は人種差別的な新植民主義の最悪の連中たちによってはじめられた)を、いそいそと支持するのもまた、スカイラーのような人間である。ともかくも人間なるものは、《独立、あるいは民族自決のための用意が整っている》ことを示さなければならないという格言である。人は、自由であるか、もしくは自由でないかのいずれかである。自由を獲るための見習修行といったことはありえない。」

勿論、この書は現在に向けてのアジテーションではないし、いま本書を読むことは、歴史を読むことに他ならない。現在の「非暴力」を、変革を望まない態度だと断ずることもできないだろう。それでも、想像力を働かせるならば、現代に訴える精神性は大きいように思われてならない。

当時の黒人が権力構造のマージナルな域にあったとすれば、いまの日本におけるそれは何か。折りしも成果が披露されたばかりの、日米首脳による曖昧なスピーチを聴いて、ついこの間流行した「チェンジ」という言葉を思い出すことができるだろうか。

「かつて、ナット・コールが言ったように、「あなた方の話には大いに感動されます。しかし、嘘みたいに聞こえますね。」」

●参照
ビリー・ハーパーの新作『Blueprints of Jazz』(アミリ・バラカ参加)


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