フランソワ・ジョリ『鮮血の音符』(角川文庫、1996年)も、10年以上前に読んだジャズ・ミステリだ。やはり再読してみて、内容をまったく覚えていなかった。
舞台はリヨン。ある革命組織に所属する男は、ジャズフェスティヴァルでディジー・ガレスピーらの演奏を楽しんでいる。彼が主人公かとおもいきや、早々に暗殺されてしまう。そうではなく、主人公は、殺された男が持っていたジャズのレコードになぜか名前が書かれていたジャズファンであり、彼も(そして作者も)あきらかに理想を追い求める革命組織メンバーの潜在的なシンパのようだ。
革命組織メンバーの何人もの死は、事故や内ゲバではなく、黒幕の大物による工作だったことがわかる。その大物とは民族浄化をも標榜する極右だった。革命組織メンバーを(メンバーはそれと知らされずに)操り、世論を操作し、偏狭なナショナリズムの強化を狙う男は、隙だらけで馬鹿みたいに描写されている。
正直言って、まわりくどい表現を勿体ぶって使うハードボイルドであり、まったく好みでない。一方で、これがフィルムノワールの映画であったなら面白いだろうなとおもう。しかもそこかしこにジャズが登場するとなれば。主人公は深入りしすぎて、穴倉に閉じ込められている間も、ジャック・デジョネットのコンサートにいけなかったことを悔やみ、セロニアス・モンクの「ベムシャ・スイング」を口ずさもうとするのである。
最初に殺される男はフリージャズのファンのようで、オーネット・コールマンの『からっぽのたこつぼ壕(The Empty Foxhole)』、アルバート・アイラーの『幽霊(Ghost)』、セシル・テイラーの『それは何なのだ』(これは何のレコードだ?)を持っていたことになっている。他にも、ラシッド・アリやデイヴィッド・マレイなんかも登場してきて、まあ面白くはある。それにしても、これらのレコード名の訳だけでなく、ミシェル・カミロのことをマイケル・カミロとしたり、翻訳がちょっとひどい。それに発音がどうあれ、これまで日本語で使ってきた言葉を踏襲すべきとおもえる箇所も多い。(小林信彦が、グルーチョ・マルクスだけはグラウチョと書いた、などというのとは別次元の話。)
作者はディジー・ガレスピーのことを何度も書いている。なぜか歴史的実績や実力に比して日本での人気がいまひとつなディジーだが、たまに聴くととてもいいのだ。私のお気に入りは、70年代の『Big 4』(Pablo)だ。共演がジョー・パス、ミッキー・ローカー、レイ・ブラウンという実力者揃いであり、しかもリラックスしている。まあ確かに、日常生活のなかでは、火の出るような「Groovin' High」とかキューバ音楽とか、ひょっとしたらディジーの真ん中にあるような音楽はあまり聴かないものかな、とおもうのだった。