Sightsong

自縄自縛日記

生野慈朗『手紙』と東野圭吾『手紙』

2012-05-30 00:05:15 | アート・映画

生野慈朗『手紙』(2006年)が、思いのほか沁みる映画だった。

強盗殺人を犯してしまった兄を持つ弟(山田孝之)。大学進学を諦め、川崎のリサイクル工場で働く。やがて、お笑い芸人として目が出てくるも、2ちゃんねるで兄のことを中傷され、その道を断たれてしまう。知り合った令嬢との結婚も、過去を調査した家族に断念させられる。次に働いていた大型電器店でもそのことが発覚し、倉庫へと配置転換される。自分には罪はない。すべては兄の所為だ。

手紙のやりとりもやめてしまい、絶望していた男の前に、電器店の社長が現れ、彼に言う。「差別があるのは当然だ。お兄さんはそのことも含めて贖罪しなければならない。しかし、君はここからはじめることができる」と。彼を支えているのは、ずっと彼を慕っていた女性(沢尻エリカ)だった。彼女は、兄弟の手紙を通じたつながりも維持し続けていた。そして、かつての芸人の相方が、兄のいる千葉刑務所に慰問に行こうという。兄は、弟の芸を見ながら、手を合わせ、涙を流し続ける。

差別のある社会を糾弾するのではなく、それを現実として受容し、その上でどのように生きていくか。答えはないのだが、周囲を責めることに解決策を見出すことの空疎さを突きつけてくる映画だった。

沢尻エリカはいい女優だな。何で(以下略)

その後に、映画の原作、東野圭吾『手紙』(文春文庫、原著2003年)も読んだ。設定の違いは多々あれど、基本的には同じストーリー展開だ。しかし、原作は映画よりももっと重い。少なくとも、まるで将来に希望を持てるかのような、感動によるカタルシスは得られない。それでも、すべてを宙ぶらりんにする方が、このテーマには相応しい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。