大城立裕『沖縄 「風土とこころ」への旅』(現代教養文庫、1973年)を読む。月並みな郷土紹介本ではない。儀間比呂志による表紙と挿絵が嬉しい。
沖縄の施政権返還の翌年に書かれており、ここには、大城立裕のヤマトゥへの想いが揺れ動いているのを感じることができる。リアルタイムで読んだ者はどのように自身の、あるいは他者の問題として受けとめたのだろう。あるいはまた、著者の芥川賞受賞作『カクテル・パーティ』(1967年)についての批評、「・・・「一人前の男」(?)になり損ねてきた「沖縄」の、屈折した父権的欲望を露呈させてきたのが他ならぬ戦後沖縄文学であったとさえ言えるかもしれない」(新城郁夫『米軍占領下の沖縄文学―異文化接触という隠蔽に抗って』、『InterCommunication』2003/8所収)といった側面を観察できるのかもしれない。著者の主体がどこに立つものなのか、曖昧にならざるを得ないのである。
「斎場御嶽に佇めば、太平洋は眼下である。そこに久高島が浮かび、そのはるかなむこうに「ヤマト」がある。ここにいきなり「ヤマト」を持ちだすのは、かならずしも政治的に沖縄と日本を結びつけることを支持するからではない。わが沖縄の民族が南から来たか北から来たかどちらかに片付けることは、それほど容易なことではあるまいし、私は素人考えで、どちらもありえたと考えている。北―日本からの渡来もありえた。ヤマト―日本を祖霊の地とし、そこをあこがれるこころが、沖縄人の血に流れているような気が私はしている。そう考えなければ、あれほど戦争で犠牲になった上、なお日本復帰運動がおこったことの理由がわからない。」
ただ、これはイデオロギーではない。著者は沖縄戦の記憶ですら、「反戦イデオロギー」の構築にのみ資するものではなく、生活のあらゆるところに入り込んでくる「新しい世紀のための神話」となることを想定している。沖縄戦から30年も経たない時期に「神話」(否定的な意味で使われているのではない)と発言したことの重さを感じるべきだろうか。また、古いことも新しい記憶も、国家の解体もが渾然一体となって思考を進めることの困難さを追体験すべきだろうか。なお、著者は「神話」という言葉のあやうさについても、次のように指摘している。
「ところで―戦争体験記は神話になる、とさきに私は書いた。しかし、それが神話として有効でありうるためには、やはりそれをうけつぐ主体が問題である、と思う。
「南部戦跡」がすでにロマンになりつつあることに、私たち現地の人間の多くは、はなはだしい違和感をもつようになっている。」
「私たち現地の人間」とあるが、時には文化人類学的に沖縄的なものを観察し、その突き放したスタンスは先島に向けられた視線において顕著になる。それだからこそ、主体性が曖昧であると感じるわけである。たとえば次の文章を、岡本太郎が『沖縄文化論』(1961年)において抽出した「沖縄」性とどう比較すればよいだろう。
「首里を訪れるひとは、園比屋武御嶽石門やその近くの弁財天堂の前に、二、三人の婦人たちがうずくまってお供えものをし礼拝している姿を、しばらく敬虔な気持ちをもってながめてみるとよい。彼女たちは、とにかくなにかの祈願をこめているのであるが、おもしろいことに彼女たちは、この石門や弁財天堂が復元される前から、戦前とおなじ位置で祈願をしてきたのである。彼女たちにとっては、建物が問題ではなくその場所が問題であった。そこに神がましましたのである。(略)沖縄文化のひとつの核が、ここにあるのではないか。」
沖縄北部やんばるについての記述はとりわけ興味深い。国頭村の安波、安田、奥における共同売店のあり方は、生活共同体=運命共同体としてのかつての社会を象徴している。現在も残る共同売店であるが、ここから何を取り出すか。私はずっと「共同売店ファンクラブ」(>> リンク)に注目している。最新の記事では、震災時と沖縄戦とを比較し、共同体の重要性を説いている。思い至らなかった指摘だ。
1973年は公害国会から間もない時期であり、多くの人が「公害」を意識し、体制がそれに追いついていなかった時期でもある。ここでも、金武湾の石油備蓄基地や、本部半島の採石や、石垣島の川平湾について指摘している。30年近くがさらに経って、辺野古でも泡瀬でも、環境がいまだ顧みられないのは切ないことだ。
琉球セメントの採掘する石灰岩、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ