今日のグーグルロゴをみると「青鞜」を読む女性の姿がある。見覚えある長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)デザインの創刊号の表紙ではないか。
「なぜ」と思い調べてみると、今日は平塚らいちょうの誕生日だそうな。
「青鞜」というと、熊本荒尾出身の荒木郁子がそのメンバーとして知られる。荒木村重の息が荒尾の小代氏を頼りこの地に住み着いたその子孫である。
コメント「荒尾の荒木家の歴史」ご紹介
1912年(明治45年)4月の第2巻4号は、姦通を扱った荒木郁の小説『手紙』のゆえに発禁となるなど、度々の発禁処分を受けながら、約5年ほどの活動を経て休刊となった。熊本日日新聞社は 「青鞜」の火の娘 荒木郁子と九州ゆかりの女たち を発刊している。
荒木村重と云えば昨日の大河ドラマで登場してきたが、なかなか堂々とした人物として描かれていた。今後が楽しみではある。
細川家家臣としての荒木氏は、荒木善兵衛や細田政之允(左馬之介)などの二流が明治に至った。
荒木攝津守村重子孫--熊本に於ける二つの流れ
荒木郁子については次のホームページで詳しく述べられています。
『青鞜』第4回 新しい女の誕生 尾形明子
http://www.jksk.jp/oldweb/j/key/200212.htm
文中に「女優の加藤治子は姪にあたります。」と書いてありますが、加藤治子は荒木道子の誤りです。
荒木郁子について、姪のバーカス(荒木)フェイス信子が書いた論文をネット上で読む事が出来ます。
プレビューは英文ですが、最後に日本語の要旨があります。
女性史としての彼女の物語シリーズ(第2回)荒木郁子は航空母艦であった
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006425284
遠藤周作は、荒木郁子の弟の荒木東一郎の娘婿の評論家村松剛の話から、「荒木村重の一族という説もある荒木トマス」を主人公にした小説『留学』(新潮社、1968年)を書きました。
『日本人名大辞典』(講談社)によれば、荒木トマスは江戸時代初期にローマに留学し、カトリックの司祭になりましたが、1615年(小説では1617年)に帰国後、長崎で捕らえれて棄教し、長崎奉行所の目明かしとしてキリシタン吟味に協力しました。『留学』では荒木トマスの苦悩が描かれています。
さらに遠藤周作と荒木村重との関係について述べますと、遠藤周作は荒木村重を主人公にした小説『反逆』(講談社、1989年)を書きました。解説によれば、遠藤周作の母方の先祖は、岡山県井原市美星町の小笹丸城主竹井(竹野井)春高の弟高次でした。『反逆』では、荒木村重の家臣竹井藤藏として描かれています。竹井藤藏は、織田信長の毛利攻めの際に、加藤清正と一騎打ちして敗れ、加藤清正が昔の恩義から命を助けた所を別の部隊に狙撃されて、信長に処刑された荒木村重の妻のだしの顔を思い浮かべながら亡くなります。
小笹丸城のホームページ
http://www10.ocn.ne.jp/~kwazin/ozasamaru_jou.htm
遠藤周作夫人の遠藤順子が書いた『ビルマ独立に命をかけた男たち』(PHP研究所、2003年)の後書きには、遠藤周作の従姉の娘が荒木村重の子孫の家(朝海和夫ミャンマー大使夫人の母の実家の荒木家。荒木村重の末子という絵師の岩佐又兵衛の子孫)と姻戚になっている事が、遠藤周作の亡くなった後に判明し、「ちょっと、慄然とするような話です。」と書かれています。
つまり、実は遠藤周作は荒木村重と縁続きになっていました(文中敬称略)。
しかし、仲間由紀恵と結婚した、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で荒木村重役だった田中哲史は出演せず、大変残念でした。
NHK朝ドラ『花子とアン』で描かれた様に、大正10年(1921)柳原白蓮(伊藤伝右衛門の妻の伊藤燁子)は、孫文の中国革命運動を支援した、荒尾村出身の宮崎滔天(寅蔵)の長男宮崎龍介と駆け落ちしました。
宮崎滔天と宮崎兄弟物語
http://arao-kankou.jp/sightseeing/history/miyazakibrothers2.html
荒木郁『火の娘』(不二出版、1986年)所載の井出文子「荒木郁著『火の娘』解説」p10によれば、宮崎滔天と荒木郁子は恋愛関係にありました。
「(郁子の姪の女優)荒木道子によれば郁は滔天と熱い恋をかわした仲であったという。青鞜社に顔を出した頃は滔天は遠く動乱の中国に去った時期であり、郁の涙のなかには滔天への切ない思いが会ったのかもしれない。滔天の関係で、その後(郁子が経営する神田三崎町の旅館)玉名館には蒋介石その他の中国要人、フィリッピンの独立運動の志士が訪れたといわれる。」
平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 下巻』(大月書店、1971年)p354ー355には、玉名館での、宮崎滔天の兄の宮崎民蔵の姿が描かれています。
「神田三崎町の玉名館は古くさい、小さな旅館ですが、そのころ宮崎民蔵という不思議な人物が、ここを定宿のようにしていました。お客さまというよりもここの家族かと思われるほどの振舞いようで、よほど荒木さんを信頼しきっているらしく、まるで子どものように荒木さんのいいなりになっていました。
それがなんともむさくるしく、貧乏ったらしい見るから男やもめという感じの、大男なので、いっそう奇怪に見えるのでした。」
荒木郁子の従兄弟の子孫である大牟田の荒木家には、東京から持ち帰られた、宇佐穩来彦宛の孫文の書が伝えられています(中尾富枝『荒尾にゆかりの「青鞜」作家荒木郁子』1997年、p43)。
『荒尾の文化遺産』(荒尾市史編集委員会、平成15年)によれば、そもそも同じ荒尾村の荒木家と宮崎家との関係は浅くありませんでした。大牟田の荒木家にある、荒木郁子の祖父の荒木慶右衛門村富の、荒尾村での剣術道場の門人録には「八郎」の名前があり、宮崎滔天の兄宮崎八郎が荒木慶右衛門村富から剣術を学んでいた可能性があります。
明治45年(1912)4月『青鞜』に載り、『青鞜』の発禁処分の原因となった荒木郁子の小説『手紙』について、尾形明子は以下の様に書いています。
深夜人妻が若い愛人との密会を夢想して、夫の不在の日を知らせて誘う手紙を書くという内容ですが、荒削りで幼いながらも、みずみずしい情感にあふれた作品です。その中で作者は結婚制度を主人公に否定させます。
「夫婦の関係位妙ちきりんなものはありません。愛を至極便利な機械かなんぞのやうに取扱ふのです。それを手際よく扱ふものが貞婦とか賢夫人とか云ふ名前を貰ふことが出来るのです。」
『青鞜』第4回 新しい女の誕生 尾形明子
http://www.jksk.jp/oldweb/j/key/200212.htm
『手紙』には、さらに次の様に書かれています。
「私も貞婦の一人なのです。けれど私自身はそんな言葉は頂きたくない。それよりも、人間なら人間らしく真面目な恋に確り抱かれていたい。例えそれが恐ろしい罪悪の名の下に支配される行為でも・・・・・・ふるえて偽りの日を送るよりも、形式はどうあろうとも心と心とをふれ合うことの出来る生活に這入りたい。
私達は会ってもよいのです。来月の始からは丁度夫も不在(るす)です。」
(中尾富枝『「青鞜」の火の娘』熊本日日出版社、平成15年、p127)
これを読むと、白蓮の宮崎龍介との駆け落ちは、まさに荒木郁子の小説『手紙』をそのまま実行した様に見えます。
白蓮の文学への関心からも、荒木家と宮崎家との関係からも、白蓮が「青鞜」に載った荒木郁子の小説『手紙』を読んでいた可能性は極めて高いと思われます。
駆け落ちの後に、白蓮が書いたとされた夫伊藤伝右衛門宛の「手紙」が新聞に掲載され、世間に衝撃を与えました。
絶縁状と白蓮事件☆九州あちこち
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/fukuoka/byakuren-c/byakuren-c.html
白蓮が荒木郁子の小説『手紙』にどこまで影響を受けていたかはわかりません。
しかし、荒木郁子も白蓮も、「手紙」によって、女性は家の維持の為の単なる道具ではなく、心を持った人間であり、人間らしく生きる権利がある、という事を訴えた、と言えると思われます。