非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その5

2016年08月30日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 色々あった末、「リア充、オレには合ってないわ」という、結論に達した学生時代の私。

 学生の飲み会、パーティーや各種出会いイベント、などなど一通り実地で体験してみて、これはもう強がりでも予防線でもなんでもなく、心の底から、

 「なんか……楽しくない……」

 と思い知らされたのだ。

 こんなんより、地下映画館に通うか、京都の納涼古本市でも行ってるほうが100倍楽しいよ。いやホント。

 こういった、これまた今でいう「イケてるつながり」を最小限にして「イケてない自由」を選択すると、

 「なんでそんな、地味な生活で満足してるの」

 「せっかく学生なのに、遊ばないともったいないよ」

 なんて真剣にアドバイスされたりもしたものだが、こちらは返事のしようもない。

 自分にとってリア充(ここではごく普通の明るい大学生活)というのは、

 「本当はたいして望んでいないこと」

 であって、

 「でも若者らしい焦燥感や損してる感に押されて『やらないといけないかも』という無言の圧

 からくるものであることが、よーくわかったからだ。

 また自分には、そこに乗っからないことによる損失や孤独感が気にならないという「能天気さ」を持ち合わせていることにも。

 だからもう、無理してやんなくていいや、と。

 「リア充」の基準なんて、人それぞれ。世間のイメージするそれなんて、いわば、

 「今の社会におけるマジョリティーな価値観の最大公約数的なもの」

 でしかないわけで、そこに当てはまらないからと言って、別に悲観することもない。

 その人の充実と、自分の充実は、きっと定義が全然違う。

 野球少年にとっては甲子園は聖地だが、他の人にとってはただのでかい球場に過ぎないように、自分が充実してるかどうかは、結局は「自分基準」でしか決められない。

 少なくとも私はそうだと思うわけだ。

 たぶんこの世界をざっくりわけると、

 1「世間的なリア充で十分満足な人」

 2「世間的なリア充に違和感があり、自分で取捨選択した価値観が優先する人」

 3「そのどちらか、自分でもまだわかってない人」


 の3種類が存在する。

 学生時代の私はうっすら2とわかっている3であり、1を体験し「違うな」と感じることによって、2の「正解」に自然にたどり着けた。まあ、健全な流れであるといえる。

 この問題で迷っていたり悩んでいたりする人は、

 「1なのに、その状況や実力に恵まれなかったり、あるいは若気の至りで2であることにあこがれたりしてブレている」

 「2なのに、『自分で選んだもの』が見つからなかったり、あるいは若気の至りで1であることにあこがれたりしてブレている」

 「単純に、まだ3の状態」

 このどれかということであろう。

 私は2番目でブレていた。

 友人ミタ君はどう見てもリア充系の人なのに、自分がいかに「変人」かを必死にアピールしていて不思議だったが、今思うと1で悩んでいたんだろうなとか、まあ多くの人は3だったりと、それぞれに惑っている。

 若いときというのは、そういうものかもしれない。
  
 辺境作家の高野秀行さんが海に遊びに行ったときに、


 「楽しいなあ。若いときは、こういうところでは《女の子を連れてこなくちゃいかん》とか《ナンパしないといかん》っていう義務感みたいなもんに追われていたけど、今はそんなのどうでもいいから気楽で、本当に楽しい」 


 とおっしゃったそうだが、その通り。ヤングというのは、

 「本当に望んでいるもの」

 と、若さと見栄とプライドゆえの

 「遅れを取ってはいけないとあせって、無理に自分に強いているもの」

 の区別がつきにくいのだ。それがわかったのは、本当に大きな収穫だった。

 こういった流れで、第1期リア充時代はここに幕を閉じたのであった。

 とりあえずは、これが私の中でも「リア充」問題の結論。悩めるヤング諸君は、上記のどれに自分が当てはまるかをじっくり考えてほしい。

 ただひとついえるのは、自分が「リア充」でも「そうでない」人でも、もしそこに「あこがれ」があるなら、仮にそれが妄想でも、一度は私のように体験してみたほうがいいかもしれない。

 一回やってみて、「あ、こんなもんか」という実感がないまま

 「オレはリア充なんかじゃないぜ」

 とか、逆に、

 「オレは普通に見えるけど、本当はちょっと変わってるんだぜ」 

 なんて気取っても、どうしてもそこには「すっぱいブドウ」的な強がりがいなめないからだ。

 え? だれがそんなこと思うのかって? 人はそんなに他人のことなんか興味がない?

 そう、これは誰が思うかはあまり関係ない。だれあろう、自分が思うから。

 人間、人のことはごまかせても、なによりも「自分自身」を納得させられないものなんです。

 だったら、一回「留学」して「本当にちがう」ことを証明しないといけないのだ。

 嗚呼、自意識って、なんてめんどくさい(苦笑)。

 「無理してる感」を払拭するためにも、一度は私のように「あがいて」みることも大事かもです。

 こうして「リア充は向いてないッス」と悟り、もうこの言葉とは関わることもなかろうかと充実した非リア充生活を満喫していたのだが、あにはからんや。

 人生とはわからないもので、数年後には再び「これはリア充というやつか」と言いたくなるような時代がやってくるのだ。

 そこでまたしてもブレたり、なんとか私を「あっちチーム」に入れようと親切心で行動してくれる人に罪悪感を感じたり、「リア充は合えへんのに」とボヤくと、「あんたの自慢話にはウンザリなんだよ!」とキレられ、友人の縁を切られたり。

 そんな困惑の時代を過ごすこととなるのだが、長くなるのでまた別の機会があれば語りたい。


 (番外編に続く→こちら



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