宣セーショナル

宣承をひらく

自分目線とその人目線

2010-02-18 22:56:19 | 日記
 晩年を迎えられた人たちの深層心理を僕は感じながら関わってきた。

 僕は、看取りに取り組むようになって、確信してきた感触がそれである。


 最近お話ししたお医者さんやある福祉関係の方が、別々の場所でたまたま同じことを言った。


『人は、元気なうちは、〝延命なんてしなくていい〟という。けれど、いざ自分が命の危機にさらされたら、〝死にたくない〟というのが本当の心理じゃないかと思う。』

 さらには、

『だから、看取り看取りっていうんじゃなくて、その人が元気なうちに言ってたことは、切羽詰まれば人は、覆す気持ちになるのが普通じゃないかな。〝生きたい〟って思うはずです。自分自身そう思うから。』

 確かに、最もな捉え方ではある。
 けれども、本当に、80代を超えて(凡そのラインとしておきます。)、懸命に生きてきた方々の深層心理を本当に理解しているとは、僕は言えないと思う。

 なぜなら、前述のようなことを言った方々はみんな、60代~40代の方々だから。自分目線で語っているのが明らかだから僕は強く言うのだ。


 ではなぜ、30代の僕が、80代以上の方々の深層心理を代弁してまで言おうとしているのか。

 言うまでもなく、今まで、多くの方々の最期に関わり、そして、晩年を迎えた方々の心と真っすぐ向き合わせて頂いてきた時間がいっぱいあるから。僕自身の目線ではなく、先人たちの発して下さるところから僕は語っているのだ。


 人生は、ある程度のところまでは右上がりに成長していく。

 それがいつの頃からか下がり始めていく。それがあたり前。上がったものは下がるのが自然の摂理。その自然の流れの中で、80年以上も生きていくということは、ある意味、自然に下がること(いのち終えていくこと)を、自然に身体で、自然に心で感じ理解している時間帯に入っているのだと僕は捉えているのだ。

 要するに、先述した方々が、〝死にたいと思うはずがない〟というニュアンスで語る理由は、その自然の摂理に身を委ねる必要のない自力の世界を生きている時間帯だからに他ならない。
 つまり、まだ、何とか自活できる能力を有しているから。または、そう思っているからではないだろうか。



 晩年のお年寄りたちの、あるいはいのち全うしていく人たちの心は、

『私の人生、いろいろあったけれど、これで良かったんだ。』

 と大きな意味で正当化していく時間だと僕は認識してきた。
 その正当化は、命を全うしていく人間の自然なる最期の大仕事なのだと僕は思っている。



 医療や福祉に従事する人には、特にきちんと整理して理解して欲しい。

 『自分の死を受け容れていける次元と、まだ受け容れる必要性のない次元』との大きなギャップを。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿