ふと講演中、いつも通りに自分の言葉で発した内容を、振り返る気持ちにさせられた。
そのいつも通りの言葉の一端をあげると、
『家族を愛する気持ちもほどほどにしないと、依存し過ぎると自分の子すら見えなくなってしまう。逆に、放置し過ぎるのもこれも問題。ほどよい距離で家族をみて関わることで、その自分自身がどんな感覚で居たかも見えてくるのではないか。自分を客観的に捉えられることが大切ではないか』
と、こんな感じである。
その時、ふと思った。
『家の子に限って…と、良い子だと思い込んでいる点』
『教師に学校で家の子が叱られた。…これを学校側の問題とする点』
その人の近くに居て、一面だけて観過ぎると、その人のことを大切と思えば、いい所しか見えなくなる。
逆に大キライだったら、一挙手一投足に腹が立つことにもなるだろう。
いずれにしても観えているものは、もしかしたら、一面だけでしかないかも知れない。しかも、私の都合に合わせた色メガネという偏見によって相手を決めつけている自分の実相は見えているだろうか。
それでも、『家の子に限って…』と一面しか見えていない自分だったかなと気づけたとしたら、もう大丈夫。
人は思い込みを持ってしまう生き物だからこそ、それを認知して、良し悪し決めつけず、多くの方から見えているその子の多面的な人柄を教えてもらえばいいと私は思う。要は、昭和の時代によく耳にした、
『学校でコイツが悪いことしたら、先生、遠慮なく叱ってやってください!』
という言葉に代表するような大らかな子育て観・人育て観である。
色んな人に叱られて褒められて、人は成長する。
時に叱られて悔しい思い、相手を悪く思う心も起こるかもしれない。
それでも、叱られてきたことも褒められてきたことも、振り返ってみれば自分の人生の糧になることだったと言えたら、もう無駄なことはなくなる。
世間が狭くなり、人間関係が個室化してきた時代だからこそ、私には観えていない、他人様だからこそ持てる観点に教わりながら、みんなが一緒に成長していければいいなぁと思うところである。
【追記】
などと勝手ながら申し上げた当ブログの内容も、こんな考え方もあるんだ…程度に観て欲しいところである。
感じたものが、なぜそう感じたか?読んでくださった方自身の感覚を客観視していただけたら…そんなメッセージでもあることをご理解くださりませ~
そのいつも通りの言葉の一端をあげると、
『家族を愛する気持ちもほどほどにしないと、依存し過ぎると自分の子すら見えなくなってしまう。逆に、放置し過ぎるのもこれも問題。ほどよい距離で家族をみて関わることで、その自分自身がどんな感覚で居たかも見えてくるのではないか。自分を客観的に捉えられることが大切ではないか』
と、こんな感じである。
その時、ふと思った。
『家の子に限って…と、良い子だと思い込んでいる点』
『教師に学校で家の子が叱られた。…これを学校側の問題とする点』
その人の近くに居て、一面だけて観過ぎると、その人のことを大切と思えば、いい所しか見えなくなる。
逆に大キライだったら、一挙手一投足に腹が立つことにもなるだろう。
いずれにしても観えているものは、もしかしたら、一面だけでしかないかも知れない。しかも、私の都合に合わせた色メガネという偏見によって相手を決めつけている自分の実相は見えているだろうか。
それでも、『家の子に限って…』と一面しか見えていない自分だったかなと気づけたとしたら、もう大丈夫。
人は思い込みを持ってしまう生き物だからこそ、それを認知して、良し悪し決めつけず、多くの方から見えているその子の多面的な人柄を教えてもらえばいいと私は思う。要は、昭和の時代によく耳にした、
『学校でコイツが悪いことしたら、先生、遠慮なく叱ってやってください!』
という言葉に代表するような大らかな子育て観・人育て観である。
色んな人に叱られて褒められて、人は成長する。
時に叱られて悔しい思い、相手を悪く思う心も起こるかもしれない。
それでも、叱られてきたことも褒められてきたことも、振り返ってみれば自分の人生の糧になることだったと言えたら、もう無駄なことはなくなる。
世間が狭くなり、人間関係が個室化してきた時代だからこそ、私には観えていない、他人様だからこそ持てる観点に教わりながら、みんなが一緒に成長していければいいなぁと思うところである。
【追記】
などと勝手ながら申し上げた当ブログの内容も、こんな考え方もあるんだ…程度に観て欲しいところである。
感じたものが、なぜそう感じたか?読んでくださった方自身の感覚を客観視していただけたら…そんなメッセージでもあることをご理解くださりませ~