宣セーショナル

宣承をひらく

父の日の一番のプレゼント

2017-06-19 21:44:15 | 日記
今年の父の日は、中総体やらなんやらで、結局、家族でのイベントは特に催すこともなく過ぎ去った…笑

しかし、今日になって子どもたちからプレゼントを渡されてビックリ…焼酎2本!一番私が喜ぶやつ!?ということだったらしい。
いつも、

『お酒飲み過ぎなんだって、少し控えたら…』

とか言う娘たちが、なぜこれを…!!プレゼント選びの際、やっつけ仕事のようになって、結果、三女のコメントは、

『いいんだ、焼酎で。どうせ毎日飲むだろうし。』

だったらしい。
なんちゅう失礼な!と言いたい気持ちの反面、よう分かっとる!という気持ちもあり、結局、ありがたいことだというところに気持ちは納まっているのだが…笑。

まぁでも、一番の父の日のプレゼントは、ソフトボールの中総体地区予選、二女の居る沢内中が大接戦の決勝戦の末、6連覇を達成したことだった。
納骨のご仏事があった私は、その感動の試合こそ見られなかったものの、小学校のスポ少時代、ダラダラふざけながら練習していた子たちが、こんなにも逞しく、必死にボールを追いかけ、打って全力疾走している姿には、目頭が熱くなるばかり…。
ものすごいプレッシャーの中、よくぞ6連覇♪

ありがとう、父の日のプレゼント♪
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子どもにお手伝いしてもらう方法とは?

2017-06-17 17:57:06 | 日記
心が動かされた話題パートⅤ……というよりも震えて笑ってしまった話題


今月は、沢内小学校区を4つの地区に分けて地域懇談会が毎週開催されている。私は今年度も役員の命を受けている関係もあり、全地区の懇談会に参加予定でいる。

学校側からの活動の説明や、地域からの話題や質問が出されるこの会。会の最後には、子どもたちに対しての関わりにおけるフリートークが展開される。
私が入らせていただいたグループでは、
『お手伝いをさせるには?』
というテーマで進んでいった。出された声の中から。。。


『お小遣いや物なとでつるのは限界がある。それ目的になっていくし、親の方にも限界が訪れる(笑)。』

『兄弟で、当番制にして順番で回す仕組みを試みた。今日は私はお風呂掃除で妹は皿洗い。次の日は逆で、とか。ただ、スポ少だ何だかんだで一旦崩れると、続かなくなるのが課題。』

『うちでは、やらなきゃ食えないし、風呂にも入れねぇぞって、言ってる。んで、本当にやらないと食えないし、風呂入れない体験することでやるようになった。〔危機的状況の経験〕』

『先回、〇〇地区でもお手伝いさせるには?が話題になったとき、様々な意見が飛び交う中で、6年生の担任の先生が、
「手伝う前に、最低限自分のことは自分でやれるようにしよう」と皆に言っています。自分のことをなおざりにして、手伝いなんてできない。まず自分のことから取り掛かることが基本だと教えています。」
とおっしゃった言葉に、皆が安堵したんです。』

と、中々深まった場面。
それでも、最後にオチがついたところがまた良かった。
ある先生がおっしゃった。


『ある本に書かれてあったんですが、子どもは平均的に3歳くらいから台所などに興味を持つようになり、お手伝いをしたがるようになるらしいんですね。その頃から、大人のほうが退けないでじっくり取り組ませてあげられれば、そのままお手伝いの習慣が身につくとのことでした。』


それを聴いた面々は、『ほぉ~』とうなり、『三つ子の魂~つうことなんだべな。』と頷いていたのだが、小学生の保護者である私たちは、口をそろえて、


『て、手遅れだったがな、ハハハハハっ♪』


最終的な共通認識で笑いあってしまった。でもまぁ、じいちゃんばあちゃんの年まで生きられるとしたら、活かせたらいいね、という話であった。

何はともあれ、こういう話は、解決できないまでも有意義なものである。


おかげさまです。
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認知症も私の一部として生きる人

2017-06-16 17:58:13 | 日記
心が動かされた話題パートⅣ


釜石の研修会の翌日、今度は北上市にてお寺で法話会に参列した。
ここに登場されたのは、元大谷大学教授で滋賀県長浜教区のお寺からいらした泉惠機(いずみ しげき)先生だった。
大学時代、先生の講義を2コマ履修したことはあるものの、泉先生とお話ししたことなどはなく、無礼な話、すっかり教わった授業の風景がおぼろげになってしまっていた。
先生は、人種差別の問題や戦争問題に主眼を置きながら仏教の講義をされてきたのだが、当時から、厳しい眼で厳しい論点で発言や指摘をされてきた方だった。

その先生が数年前にアルツハイマー型認知症と診断され御年74歳。物忘れの症状は進行中である。

先生は、お話しの中で、ご自身の認知症状についても触れられていた。前日にも岩手県内のお寺でご法話を務められたのだが、その際、一席目と二席目の最初の入りが全く同じことをお話しになり、少々ざわついたという情報があった。
先生は穏やかにお話しを進めていらしたが、やはり途中、同じようなくだりに入ってしまうことが何度かあったのだが、聴聞している人たちの表情や反応を観ながら、


『私、さっきも同じ話をしたんですかね!?(笑)』
『イギリスの首都ってどこでしたっけ?(会場から「ロンドン」と声があがる)…あぁ、そうそうロンドンですね…。あかんなぁ、大学の先生が、ははははっ…。』
『私、子どもの頃、阿弥陀経というお経を全部暗記して、字で書くこともできるまで成ってましてね。つい最近までそれができたのに、この病気になって、全くその言葉が出てこうへん。全くお経が詠めなくなってしまったんです。子どもの頃に覚えたもんまで忘れている。情けないけど、そうなんですよ。せやけど、法話だけは何故かできるんやね。不思議な病気ですよ、まったく、ふふふっ。』


とニコヤカに切り替えされている。ステキだと感じた。
自身の事実を生きる。事実とともに歩んでいく。
果たして、私にはできるだろうか。難しいことである。それでも間違いなく、あの本堂での空間は、泉先生を中心に、温かい慈悲の空気に包まれた一体感を帯びていたのだ。なんと、心地好い時空だったことだろうか。

先生は、ご法話の最後にこう締めくくった。


『本当の住職の仕事って何なんかなぁ。僧侶としてどうあるべきか、まだまだ私は分かっていないんですね。やり残したことが気になって夜も眠れんことがある。私は、門徒さんの問いを受け止める僧侶でありたい。そんな関係でありたいと、こんな体ですが思っている所です。』


本当にやさしい気持ちにさせられて、『あんな年寄りに成りでぇなぁ♪』と、聴聞された多くの方々が安堵の表情でお帰りになっていく姿が印象的だった。


その後、先生と懇親の宴をご一緒した時間も、とても先生安心されたお顔だった。
私は先生を翌日空港までお見送りする係りとして、一緒に宿泊した。時にどこに居るのか分からなくなり、チケットや物をどこに置いたのか分からなくなる。
朝食をご一緒した時間、先生は着ている服のあらゆるポケットに、色んな物を詰め込んでいらして、それを出し始めた。


『こんな物も入ってる。…あら、こんな物までね。何でこんなもん入れてきてるんやろ。私ね、こうやってる自分がおかしくて仕方ないんですよね、フフッ。本当にこの病気はおかしなことばかりするようになるね。』


また柔和な笑みを浮かべながら、語っていらした先生の姿に、頭が下がるばかりだった。
ご自宅に着いてからも、何度も御礼のお電話をいただいた。
新鮮な気持ちで心こめた御礼をその度に言ってくださる泉先生のお姿に、到底そのように成れるとは思えないけれど、やはり先生のように成りたい…そう思っている今日この頃である。

『認知症も私の一部として生きる人』

おかげさまです。
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それぞれの今 今の私を生きる

2017-06-15 21:58:40 | 日記
心が動かされた話題パートⅢ


6月初め、釜石市で開かれた在宅医療のとある研修会。すばらし過ぎて圧倒された発表が続々とある中で、その会の中心を担っていらしたドクターお二人が、自ら癌患者となり、患者の立場から観た医療や介護の在り方を講演されている映像が流されていて、その姿があまりにも美しく私には映っていた。
医療者側の論理や都合で提供される食事や薬に疑問を投げ掛け、熱く語りかけていらした。
そのお二人の先生に触発された方々がまた、眼を熱くし、声を絞り出してお2人の命のタスキをつなぐべく、語っていらした。

西村元一先生と村上智彦先生。先生たちのお言葉から私の心に残ったお言葉を一言ずつ…。


患者の本当の気もちは
患者になってみて初めてわかる
家族、ましてや 医療者には はかりしれない
【西村元一】

世の中に患者として生まれてきた人などいません。
 入院は体力を奪うし、精神的にも
個人を患者にしてしまう
【村上智彦】



残念ながら、死知らせの電話が入って対応していたため、メモはおろか、頭にも記録があいまいになってしまっていて、ここにほぼ書けないことが残念。。。でも、どうかあのお二人の先生の声を届け続けて欲しいと願う。



そうこうしている中、様々な方面からご相談を伺う今年…。

仕事に追われ過ぎてたまらない心情で過ごす人がいる一方で、仕事が全くなくて辛くたまらない心情で過ごす人がいる。
仕事を変えれば…とか、あきらめれば、割り切れば…と簡単にできればとっくにしている訳で…。

どんなに忙しくても、役割があり仕事があり、立場があり住むところがあるという事実を、やはりありがたいと感じられないとすれば、それは私の思い上がりでしかない。

あたり前にあるものではなく、そのすべてが私を活かそうとしてくれていることを肝に銘じよう。
人のことを案じ、どれだけ何とかしてあげたいと苦悩しても、やはり人の分までは生きられない現実をよくわきまえよう。

その上で、せめて今日だけでも、自分の分を大事に生きていこう。
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Cばっちゃんの想い出

2017-06-14 22:45:52 | 日記
心が動かされた話題パートⅡ。

光寿苑のかおとも言えた102歳ばっちゃんCさんが、103歳の誕生日を約10日後に控えながら天寿を全うされた。
短期利用の時代から実に8年…ご子息やご兄弟を先に見送ったCさんは、いつも気丈で、皆のことをいつもよく知っていらして、案じ続けてくださった大きなばっちゃんだった。

私が忘れられない思い出は、やはり二つあって、一つはあの視力検査での出来事。
当時、99歳だったCさんが、「目が見えにくい、痛みがある」等の理由で病院受診した日。たまたま付き添っていた私は、視力検査をするCさんの斜め後ろにいた。視力検査で棒がさした先には、左側が空いている記号、要するに、文字で表現できるとすればCの180度逆みたいな…まぁ、伝わりますかね。その記号を観れば、一般的には『左!』と言うか、もしくは左側に手信号みたいに指す仕草をするものだろう。

しかしCさんは違った!

『見えねなぁ、ん!あっ、分がった!西、西!西の方なようだなぁ…』

その瞬間、そこに居た一同はドッと笑わされ、愛しさの空気感に包まれたものだった。


またある時、今度は100歳が近づいた辺りだっただろうか。
Cさん転倒して、おでこにタンコブを作ったことがあった。その記事を見た私は、他の職員たちと3人でCさんの部屋へ出向いた。Cさんはベッドに座っていて、痛そうにおでこの辺りを触るような仕草をしていらした。声を掛けて傍に寄ると、Cさん、私たち3人を次々と指さしながらおっしゃった。

『あんたも来たの?あんたも?あんたも来たの?ははぁ、わざわざ♪
転んでみるもんだなぁ、はははっ♪』

これまた、一瞬にして和らいだ空気に包まれた時間。痛い思いしている人から出る言葉だろうか。私たちの心配の気持ちも和らげられつつ、逆に、『こんな事でもないとアンタ来ない人だもんね。』とでも言われている感じがして、少し恥ずかしくもなったが…。

いずれにしても、そのマイナスの出来事をプラスの局面に換えられる表現力。そして、こんな事故に遇ったおかげで、あんた達来てくれた♪という純真でいてご縁の深さをよく知っていらっしゃるCさんのあの日の姿が、何だか昨日のようにも思い出されてきて。


光寿苑の、西和賀の、いや日本を代表するばっちゃん、そんなCさんとこの時代にお遇いできたご縁に感謝しつつ。。。


おかげさまでした。
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田中ゆかりさん

2017-06-13 21:33:19 | 日記
またまた色々書きたいことがありながら掛けずに時間だけが過ぎていく。。。
「まぁ、いっか…」
等と、しばらくなってしまっていたが、やはりどうしても書きたいこともあるわけで。。。

心が動かされた話題がいくつかあったので、今日は、そのうちの5月後半にあったことから。


田中ゆかりさん。
ご存知の岩手県民の方も多いのだろうか。西和賀町を代表するアスリートで、ノルディックスキーで、全中を制したこともある逸材である。彼女は今、大学4年生。高校から北海道へと渡り、オリンピックを目指してきた人である。

そんな彼女が、お寺にいらして、今後のことを語ってくれた。
あまり詳細は都合上語れないのだが、要点を絞れば、故郷・西和賀のために何か貢献したいという思いを抱きながら、その上でオリンピック出場を目指すということだった。
その中で嬉しい彼女の言葉。


『私、この西和賀で生まれ育って、ここの人たちに支えられてここまで来られたと思っています。人が温かくて、ここの自然環境が大好きで。高校からここを離れてみて、増してその気持ちが強くなりました。〝あぁ、本当、いい町だなぁ〟って。
だからこそ、この町のためになること、私が出来ることをしたい。それが何なのかを模索しています。一方でオリンピックを自分が目指すための就職活動も悩んでいるところですけどね(笑)』


とても嬉しい時間だった。
長くこの町に住んでいて、私自身が課題意識とマイナスの想像力のほうが強くなっていたのではないかと、少し恥ずかしくなった。
これほど町を純粋に思い続けてくれる若者たちがいる。しかも、ここで育った子たち。と言うことは、ここの大人たちがそのような魅力と、価値や誇りというものを教えてくれたことに他ならない。

だとすれば、その中間にいる私が、諦め加減のイメージでは、現にある良さすらも手放すことになってしまうではないのか。

若き心に、おっちゃんの心も揺り動かされた。

おかげさまです。。。
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その日だけ限定…!?

2017-06-03 06:37:22 | 日記
あっという間に5月が終わった。冬の間にお預かりしていたお骨が、一つまた一つ還るべき場所へと還っていく。


そんな5月、お葬式は3件のみと落ち着いた月だったのだが、何とその3件、すべて5月6日の命終のみ。その日に3人の方が命終されて、お葬式日取りも、一番遅い方だと6日目の執行とならざるを得なかったが、どちらも問題なく終えることができた。

その後は他のお寺さんは少々お忙しかった様子だが、すっかり落ち着いて過ごせた。

同じ日に3人…しかもその日だけという、今まででこんな経験は初めてだった。

こうやって落ち着いていると、ありがたい気持ちで、毎日、ホッとしている。


おかげさまです。
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非合理的な中にある大事なこと

2017-05-31 23:24:30 | 日記
僕の親友がおもしろいことを言っていた。

興味のあったとある研修会に、親友が一人で出向いた時のことだそうだ。
知らない人ばかりで緊張の中、受付に行ってみたら、年配のおばちゃんがあたふた汗かきながら務めていた。時間がかかってしまい、結局研修会が始まってしまった。おばちゃんは申し訳なさそうに「ごめんなさいね。」と言ってくれて、しかも人のいい感じで、開始には遅れてしまったけれど親友はおばちゃんのおかげですっかり緊張もほぐれて、会場にいい気分で入れたのだという。

研修会が進み、最後のグループディスカッションに入った時、ファシリテーターの方が都心からいらした若者で、それは立派な話をするし、上手に進めていたのだそうだ。
そんな中で、その彼が言った。


『今は、色んなことが業務省力化できる時代ですから、例えば、今日の受付だって電子化にだってできるんですよね。そうすることで、応対で遅れるデメリットもなくなるし、受付に配置された方々だって、遅れずに最初から研修会に入ることができる。だからいいことしかないですよね。』


そのような類の話をしたのだという。
親友は、違和感を覚え、そこで発言した。


『電子化は確かに合理的で無駄が無くなるかもしれませんが、私は今日、誰も分からないこの研修会に緊張して来たんです。その受付で、確かに手間取って遅れはしましたが、そのやりとりの中で、その方の温かさとか人間味みたいなものを感じて、逆に安心して緊張もとれたんです。そういう出逢いもあることで、救われるタイプの人だっていると思うんです。だからすべてが合理的電子化じゃないこともいいんじゃないかと思います。』


ファシリテーターにはどうやらその言葉は届かなかったらしいのだけれど、私には親友のこの発言、めっちゃ粋に感じるわけで。

逆に、そんな大事なことをおすそ分けして教えてくれたことに感謝しているのだ。

おかげさまです。。。
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今だから語れること

2017-05-30 21:33:36 | 日記
もう5月も終わってしまう。早い早い。
月の初めには、恒例の聞法のつどいを開いた。北海道士別市のお寺さんであり大学時の同回生・寺澤三郎先生をお招きしての法話会だったのだが、まぁこれが人間の深い闇の部分というか、もっと言えば日常のあるあるの話題の中に、私たちの心の問題をズバリ言い当てていらした。
他人のことをとやかく言いながら生きている私たちだけれども、その一番の問題児は私自身である!そういう地獄を作っている根源に私がいる!という趣旨のお話しには、ドキドキしながらも、もう受け止めるしかない内容ばかりで、唸らされた時間だった。
次期、報恩講の講師に呼んで欲しい…そのように参拝していただいた多くの方々からお願いされたので、2018年11月報恩講には、ご講師としてお呼びする計画を進めることとなった。


さてさて、そんな三郎先生が折角岩手にいらしたので、岩手沿岸部の大震災被災地を観て頂くためお連れした。
6年2ヵ月経つ今も、これって復興が進んでいるの?…と言ってしまうような山田町や大槌町の現況も目の当たりにして、また、子ども夢ハウスおおつちでもお話しを伺いながらの旅。三郎先生も、

『来てよかった。実際観ないと分からんよね。』

と深く感じ取って下さっていた。
その夜、釜石市の仮設店舗にて飲んだ私たち。何か惹かれるように入ったお店がお寿司屋さん。おやっさんと女将さんお二人で切り盛りされていた。
おやっさん開口一番、

『震災や津波のこと、何でも応えますから、何でも聞いて下さいね。』

笑みを浮かべながらも、いきなりのおやっさんの言葉に、こちらは言葉が出て来なかった。
とにもかくにも、ここの出てくる料理の美味しいこと美味しこと♪天然物しかも新鮮なうちにしか扱わないというこだわりには確かに頷けた。
そして、瓦礫の山から探し出してきた一本の木で作られた趣きある分厚いカウンターに圧倒されながら、舌鼓を打っていた。
おやっさんも機嫌よく、色んな話をされていた。

すると、女将さんが私たちの後ろを通りがてら、私の耳元でささやいた。


『大将ね、こうやって嬉しそうにしているの久しぶりだよ。
実はね、あの津波で息子を失くしたんだよ。一年は廃人みたいになってた。死のうとしてた。でもそれ過ぎて、今、こうしてる。だけどね、息子の話をこの人の前でしたらこの人ダメだからね。』


一瞬、固まってしまった私だった。けれど、そういうのを腹の中に納めて生きよう生きようとしている人たちがここにいる。グッと熱くなっていた。坊さんであることは、明かさずいただけに少し迷いもあった。

けれど少し後、会話に間が空いたとき、やはり思い切って聞くことにした。


『津波や震災のときのこと、教えて頂いていいですか、大将…。』


私は酔っていたけれど、その質問を投げ掛けた時は緊張した。
少し間をおいて、おやっさんは、当時の様々な裏話、表にはできないような人間模様も、たくさん話して下さった。それだけで、胸いっぱいだった私たち。

その後、またそれまでの談笑に戻ったカウンター。坊さんであることも自然と伝える運びとなっていた。隣りに座っていらした福島県からいらしたご夫婦とも意気投合し、仮設のカラオケ屋に行くことになっていた。おやっさんと女将さんをお誘いしたところ、店が終わったら駆けつけて下さるとのこと。

カラオケ店で待つこと一時間。おやっさんと女将さんが来て下さった。
それぞれ好きな歌を楽しく歌っていた面々。おやっさんはとても歌が上手で、聴いている皆をうならせていた。皆盛り上がって一体感がうまれてきた時間。

たまたま、私はおやっさんの横に座っていた。すると、おやっさんが私に静かに話してきた。


『私ね、あの津波で息子を失くしたんです。人生諦めかけたけど、これじゃダメだと思って寿司屋再開したんですよね。
6年過ぎて、初めて息子のこと人様に話しました。』


微笑んで語って下さったおやっさん。相当酔っぱらっていた私。でも、『おやっさん、やっと言えたんだ…』と思うと、思わず、


『そうでしたか。。。おやっさん、ようやく話せたんっすね…。』


そう言った後は、泣き崩れてしまった。もう涙が止められなかった。
そのまま気づけば眠ってしまっていた私。大変な失態だったのだが、あくる日、女将さんから電話。そしておやっさんからも。逆に、『お楽しみのところ、申し訳なかったですね。』とおやっさんおっしゃるものだから、また泣きそうになってしまって。なんて謙虚で実直な方なんだろう。
そういう方々が、今、6年が過ぎて、ようやく口を開こうとされている。
一つ、痛みや悲しみを分け合おうとするタイミングにその時遭遇したとしたら、私は、私で良かったら、拝聴させていただきたい。

ご縁とはそういうものなんですね。

また6月、お店を伺う予定でいる。

おかげさまです。
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ひぃばあちゃんからつむがれる心

2017-05-18 06:41:16 | 日記
先週は立て続けにご葬儀が3日続いた。どの方もご高齢のおばあちゃんたちだったが、ひ孫さんたちも参列し、泣いているシーンに続けてふれた私。外孫さんたちであってもそういう関係性を築けているところに西和賀らしい良さを感じた時間だった。

その中でも、特にも心にしみいったのが、ある中学校1年生のひ孫さんの言葉。それはお別れの言葉の中でのものだった。ここにその一文をご紹介したい。


大好きなTばーへ

Tばーは私たちの小さい頃の話を楽しそうに話してくれたね。
花の事や畑の事をたくさん教えてくれたね。スポ少の大会の日は、応援してくれて、負けても『がんばったね』とほめてくれたね。
そんなTばーが物忘れをするようになってからは、〇〇〇(介護事業所名)に行くのを毎日楽しみにしていたね。
『今日は踊りっこ観てきた。』
『友達と子どもの頃の懐かしい話をしてきた。』
など、楽しそうに話してくれたね。
なのに、自分が疲れて学校から帰ってくると、なんども同じ事を言うTばーに、うんうんとうなづき、顔も見ないことがあった。すると、さみしそうに自分の部屋に戻ってしまった。私はそのさみしそうな後ろ姿を見て、自分がとてもひどい事をしたと気づきました。

自分が小さい頃、いっしょに遊んでもらっている時、『もう1回、もう1回』と同じ事を何度もねだった。その時、忙しくても、私たちの話を聞いたり遊んでくれたのに、私たちは何度も同じ事を話すTばーに背中を向けてしまいました。すごく後悔しています。あの時はごめんね。
これからも、悲しい時や嬉しい事があった時、空に向かって話をいっぱいするね。これからも笑顔で応援してね。
Tばー、今まで育ててくれてありがとう。



泣きながら読み上げた13歳に、一同が涙した時間。

私たち大人が置き忘れてきたものとしっかり向き合う姿勢。
そして、何よりも、自分が幼少期にしてもらったいっぱいの愛情に対して、真逆のことをしてしまった…というところに結びつけられる感受性の深さ…。

こういう他をみて自分を内省していく姿勢こそ、私たちが日常で示さなければならない姿勢なのではなかったのか。

13歳に教わりつつ、今日というが存在する。

おかげさまです。。。
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