宣セーショナル

宣承をひらく

ご縁というつぼみ

2017-03-24 08:19:47 | 日記
人は出会うことでご縁を感じたり、何度も偶然が重なり会うことがあると、運命とまで言う人も世の中多い。

けれど、会わないご縁、すれ違うというのもまたご縁。

何度も偶然が重なり、自分の気の合う人にタイミングよく会うことがあれば、『これも何かのご縁だねぇ。』と素直に喜んでいい。

逆に、すれ違ったり、まったくタイミングが合わずしばらく会わなかったとしても、それもそれぞれのご縁。

ご縁は、自分の都合や考えで充てつけるものではなく、自分を取り巻くすべてのものがご縁。良い時も悪い時も、必ず自分に何かのヒントを与え続けてくれるもの。



花が咲かない時は、根を下へ下へおろしてください。そうすると、今度咲く花はもっとキレイな花を咲かせる。

渡辺和子さんの講演でのこの言葉の奥深くにあるものを味わいつつ、今日をスタート。

私をとりまく無数のご縁は、私のつぼみなんだと思う。

おかげさまです。。。
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それぞれの卒業

2017-03-22 22:10:36 | 日記
ちょっと時間が経ちましたが、長女が志望の高校に合格し、晴れての卒業となりました。ホッとしましたし、卒業式は泣いたなぁ。。。
担任の先生の演出とは言え、父と母それぞれに宛てた手紙を控室で開けて読んでからの卒業式。。。泣かない訳がない。。。

そして、小学校の方のPTA会長の任も、卒業式で基本的には無事終えられて。先代からの課題となっていた部分の改革も無事間に合い、後は総会と送別会を残すのみとなりました。会長の任も卒業です。

いよいよ卒業。

長女は私の母校へ…。うれしい気持ちと寂しい気持ちと半々ですが、時間は前に進んでいく。

愛しみつつ、次の扉を開けましょう。

おかげさま。。。
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2017.3.11

2017-03-12 18:38:02 | 日記
おかげさま。





昨日は3.11の7回忌。

有志と共に、沿岸へ走る。

女川町の沿岸で14時46分、黙とうに併せて勤行。晴れた空、穏やかな海を前に大事な時間をむかえる。その周りにも、きっと地元の子たちだろう、花を手向けながら合掌なさっていた姿にグッと迫るものを感じた。

そして福島へ。

震災の翌年から深くつながってきた佐藤家に出迎えられ、いや、大歓迎受けながら3.11を過ごす。

3.11

あの大震災に対して、「もういいんじゃない?」という人は多くなってきている。それはそれで仕方ないけれど、私はそうはならない。

自分のこととして、今一度、向き合った時間。

ここからスタートするんだ。

おかげさまです。
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「希望の一服」伝説。

2017-03-10 23:05:24 | 日記
先日逝ってしまったもう一人の大先輩Iさんは、これまた不屈の精神力でいくつも抱えた癌と一緒に生きていらした人だ。

Iさんは、光寿苑の家族会が発足して初代の会長だった。亡き私の父であり初代苑長だった受宣さんと喧嘩もしたりワイワイ力を併せたりしながら、どこにもないような家族会の礎を築きあげて下さったお一人だった。

私は京都から1999年に岩手に帰り光寿苑に勤め始めたのだが、まぁ、超歓迎と言うか期待度の高過ぎると言うか、受宣の子というだけで過剰な負荷を掛けられたのも事実だった。家族会の皆さんも当にそれだった。まぁ、私のほうは置いておとくして、Iさんも受宣時代からの家族会精神を死守しようと必死でいらした。それだけに、そうは応えられないジレンマと、これから目指すべき方向性のくい違いで、よく酒が入っては口論になったものだった。
(若かりし頃の私は、意見をぶつけあってなんぼ…みたいな荒々しさがあって、本当に先輩たちも怒らせてしまっていましたね、失礼ばかりすみません。)

Iさんとの思い出の一つに、当会で毎月発行している広報紙『まんさく』がある。

昭和の時代には、初代まんさくが不定期ながら70号くらいまで発行されていたらしいのだが、いつの頃から途絶えて久しく、私が光寿苑に就職した1999年4月の家族会総会でIさんがそのことについてマイクをとったのだった。


『以前、光寿苑では施設の広報紙まんさくが発行されていましたが、久しく出されておりません。家族会としても、地域に根差した光寿苑をもっと町の人たちに知って頂きたい思いもあり、何とか広報紙の復刊をお願いしたい。これは切なる願いであります!』


ちから強く思いの詰まった声が場内に響き渡った。その当時、まだまだ何をして良いのやら何も身につけていなかったプレッシャーだけを身にまとった私には、願ってもない役目が巡ってきたのだと感じた瞬間だった。
すぐに取り掛からせて頂いた広報紙まんさくのリニューアル第1号は、1999年5月号から復活した。そこから毎月休むことなく、現在215号が来週刊行予定である。

Iさんとの思い出は、本当にがいっぱいある。
光寿苑の配食サービスの配達員や宿直も含め、随分と支えていただいた。家族会の活動では、なんやかんやで初代会長として最後までご尽力いただいた。
よく宴会の席では、初代会長から乾杯のご挨拶を…という流れが多かったわけで、その度に、


『えぇ~、初代というだけで、毎回この高いところからご挨拶させていただくのも恐縮でありますが、ご指名でございますので……』


というお馴染みのくだりから始まる、少しハニカミながらお話しになるIさんのあの空気感がとっても好きだった。

数年前に体調を崩され、殊に1年8ヵ月ほど前の癌告知と、余命2ヵ月の宣告は、私もショックだったのだから、ご本人もよっぽどショックだったことだろう。でも、余命2ヵ月をはるから超えて、あの告知よりも1年半以上も長く生きてくださった。

その秘訣を聴いた時、Iさんは光寿苑のショートステイを利用されていたけれど、『タバコだべなぁ~』とおっしゃったあのニンマリと微笑まれたお顔が忘れられない。


『オレ、後余命間もない、末期の癌だって言われでよ、オレもいよいよここまでが…と゛思ったべった。ショックはショックだったな、やっぱり。でもその時よ、最後に一服だげさせて欲しいど思って、主治医さ聞いだべった。
〝先生、最後に一本だげタバゴ吸わせでもらえねべが!?〟
って聞いだのよ。そしたばよ、オレの主治医だば、〝良い〟ども〝悪い〟ども言わねのな!大した良い医者だど思ってよ(笑)。だがら、吸うごどにしたのよ♪ハハハッ。

んで、火っこ着けで恐る恐るだども吸ってみだべった。したばよ、吸えだったのな♪〝おぉ、吸える♪〟って思ったった。吸い終わったらよ、待で待で、後1本だげ吸って終わりにするべど思って、もう一本火着けで吸ったべった。…やっぱり吸えだったおんや!オレそれでよ、
〝おっ、吸える〟〝生ぎられる!〟ど思った訳よ。あれで、一本も吸ってダメだなんて言われだらよ、生きる意味もねぇもんな。あれは、〝希望の一服〟だったな♪ハハハハっ。』


そう言い放ち、笑いあったあの日。

最後の方は、もうそのタバコも禁止になっていたそうなのだが、最後となった日、会いに来てくれた孫娘さんに、〝何とか一本吸わせでけろ〟と頼み、最後の一服が叶ったのだと言う。それから数時間後の命終だったという話を、ご家族が嬉しそうにお話ししてくださったのだった。


最後までIさんらしく生き抜いたご生涯。ありがとうございました。おかげさまでした。
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旅のお土産

2017-03-09 12:44:23 | 日記
そんな石巻への一人旅…丁度お昼時だったので食べられる場所を探した。しかし、火葬場の付近にはコンビニが一つあるだけ…。結局、ここで購入して車中でいただくことにした。

弁当とカップ麺などを購入。すると、
『お弁当温めますか?』
のコンビニならではの店員さんからの声掛け。お願いをすると、今度は、
『カップ麺、お湯入れますか?』
おっ!?ここはお湯まで入れて下さるのか?大抵は自分で入れる店ばかりだけれど…。しかしながら、時間も迫っていたのでそれはお断りしたが、とても気分が良かった。

車中で美味しく弁当をいただき、そのままゴミを捨てにもう一度、店前のごみ箱へ向かうと、先ほどレジで対応くださったおばちゃんがゴミの整理をしている最中だった。申し訳なくしつつゴミを『お願いします。』と渡すと、おばちゃん、こう話し掛けて下さった。

『あっ、先ほどはありがとうございましたぁ♪はい、いただきますねぇ。どうぞお気をつけてぇ…。』

笑顔でそう応えて下さった対応のすばらしさに、気持ちが軽くなる感じがした。

言えますかね?こんな言葉…
できますかね?こんな対応…

滞在時間は、この食事の時間も含めて小1時間。移動は5時間半。

けれど、健やかな時間にご縁いただきながら、『僕もやっぱりこういう人でありたい…』と思う。そしてこれは、大先輩が導いて下さったご縁。


ありがたい、旅のお土産。

おかげさまです。。。
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約束

2017-03-08 12:55:22 | 日記
昨日、大事な先輩の火葬が2件重なった日だった。お二人は、全く別々の地域の方であるけれど、似ていたのは、飲みながらかなりの頻度で口論をした記憶。お二人とも大先輩なので、若僧の私が大変に生意気な話なのだが、毎回口論になるものの、次にお会いした時にはお互い、『この前は大変失礼しました。すんません。』等とスッキリしていたことが、本当にありがたかったし、嬉しい関係性だった。

お一人は地元・西和賀町、お一人は宮城県石巻市の方。西和賀町の大先輩についてはもう少し後でゆっくり書かせて頂くこととして、今回は石巻の大先輩について述べたい。

出逢いは、報恩講という浄土真宗のお寺が最も大切にしている親鸞聖人のご命日のお勤めの集いに、ご法話の講師として足を運ばせて頂いた2009年11月から始まった。3年契約といった感じで出向かせていただいていた。3年目の年には東日本大震災が発生し、こちらの檀家様も何十人と犠牲になられていた。あの日のことを思い出すと、涙がにじんでくる。

3年目の震災の年の講師が一応最終だったので、何か2011年11月の報恩講から帰るときには後ろ髪を引かれる感覚だった。それから2年が過ぎ、再びお声が掛かる。これまた3年契約的なやつだった。
大先輩も元々跡継ぎではなかったが、跡継ぎのご住職夫婦に先立たれたことにより、還暦過ぎてから坊さんになられた苦労人だった。酒を呑んでは、跡継ぎの問題や考え方の相違で、よく口論していた私たち。それでも毎年呼んで下さって。。。ありがたいことである。

震災後には、思うところあって、大先輩の娘さんがやはり坊さんになるために京都で勉強なさった。娘さんもお寺の生まれではないので、本当に一大決心だったことなのだ。
やれやれ跡継ぎもできて…という時に、去年、癌が発症し、激やせされた先輩がいた。体力的にも厳しくて、所々参詣されるような状態だったが、それでも気丈にご立派なお姿だった。

帰る直前、ガッチリ握手をした。

『来年の報恩講、また参ります。絶対お会いしましょう。』

と手を差し伸べると、

『おぉぉ、そうですね。必ず報恩講で会いましょう。』

と、目の奥は輝いていた先輩。
それだけに、今回の早かった別れはショックだった。息を引きとる2日前まで会話もしていたのだと。

石巻での火葬。私の家とでは往復5時間半かかる。夕方にも地元で予定が組まれていたため、火葬参列の小一時間だけの滞在だったが、移動時間も惜しいなんて微塵もなかった。

本葬は今月末。ここにも参詣したいし、11月の報恩講には必ず参りたい。
去年、必ず会いましょうと約束した私たちだから、きっと心の中で、あの場所で会えると感じている。

本当にお疲れさまでした。
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未来があるとしたら…私は何を想うのだろう

2017-02-28 23:30:54 | 日記
この週末にお会いしたご法事での話。
あるおじいさまの一周忌の法要だった。お勤めの途中も、奥様のすすり泣く声が聞こえていた。

お勤めが終わり、お斎の席で離れて暮らす娘様が、おばさんたちにこんなことをお話しになっていた。


『母は毎日、ご仏壇の前に座って父と2時間も話し掛けていたりしています。時々、
「早く父さんのところに往きたい。。。」
って、つぶやいていることがあって…。それを聞いてしまうと辛くて。。。私たち母さんの力になれないのかなぁって。。。(涙)』


涙ながらにお話しになっている娘さんを、「よくやっているよ」と、労っている叔母様方。それはそれでステキな間柄だと感じたのだが、ここで私自身が感じたことがあった。

実は、私の祖父・祖電さんも、祖母・幸惠さんが命終してから、いろんな方々に、
「早く、ばあちゃんの居るお浄土に往きたい。中々往けない。。。」
と、結構話していたことがあったのだ。当時は、「僕らがいるのに!」という、身内ならではの感情が芽生えたものだったが、先述のお母様のお話しを耳にした時、ふと気づかされた。「あの人のところへ往きたい…」それこそが高齢期の仲の良かったご夫婦にみられる感情なのであり、本当に大事な人であれば、若くてもそのような気持ちが起こるものなのだと思うのである。
それを遺影の前で、御仏壇の前で、素直に吐露できることは寧ろ、大事な空間と時間を持てていることなのであり、それこそが老年期の、いよいよ浄土へ往く我が身の自覚なのではないかと感じ取れるのである。
確かに子や孫という大事な家族の存在は感じている。けれども、それをも超えるこれまでの大好きな連れ合いとの大切な長い時間が深く強く存在していることなのではないだろうか。


私がもし年を重ね高齢期も生きていられるとしたら、その時、何を思うのか。

想像でしかないけれど、今日触れさせていただいた方々の心情を思い浮かべながら、今日一日が終わることを何だか勿体なく感じている。

おかげさま。
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景色を曇らせるもの

2017-02-27 05:39:39 | 日記
なぜこうも見たまま聞いたまま判断しては話を大きくして騒いでいる単純な人が世の中に多いのだろう。それをまた、見えない世界で拡散させたりね。。。そのせいで他人が傷つくことをなぜ考えないのだろう。自分が逆だったら嫌だろうに。。。
考えが純粋?単純?だからそうしかできないのかどうなのか。

ただ、悲しくなる。

少し論点は変わるが、人は、自分が求めている都合に対して期待通りに応えてくれた人には感謝するもの。
(それにも感謝できない人は論外として今回は話を進めていきたい。…笑)

当然、分かりやすい捉え方である。

相手が求めているものにそのまま応えることで、感謝であったり喜びを引き出す。いい関係性である。

しかし、それは一時のよき感情に過ぎなかったりもする。

中には、ずっと感謝の念を覚えている人もいるかも知れないけれど…、

例として、私が求めているものに応えてくれた人がいて、感謝していたにもかかわらず、ある時、その感謝していたはずの相手が私の意に沿わないことをしてくれた。すると、求めてもいないのに、そんな勝手なことして!と、以前の良き感情も薄れ、悪しき感情が芽生えることも若き日の経験上にはあった。『余計なお節介!』みたいな、あれである。

要は、それが人間の根本に存在するものであり、どう転ぶか分からない不安定さを持った生き物が自分自身だということである。

これはどの方にも存在する弱さであり愚かさ。これが露出しないとすれば、それだけ良き人や良き環境や良き言葉や良き音楽や良き食事等々に囲まれて、支えられて、その良き影響力で護られている私なんだと思うのだ。

どんないきさつがあるかも分からないまま、ただ目の前にある情報や現象の一面だけで捉えて思い込むことがいかに悲しく愚かなことか。いや、もっと言えば自分だけじゃなく周りの不幸をももたらすことか。

その不幸の根源は、誰でもない。自分自身の中にある。

誰かのせいにしていないか。環境のせいにしていないか。

思い込んでいるこの色メガネが全部を曇ってみせる。一挙手一投足、不満に感じるのはこの色メガネの影響。

色メガネをつけていない素の私から始める今日にしよう。
その今日にできたら、明日もそうしてみよう。それが続けられたら、明後日も挑んでみますかね。

そこに光明があったと気づくまで。
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真なる議論

2017-02-23 00:16:02 | 日記
先日、西和賀町の学校給食調理場の検討委員会が今年度最終回として開催された。

現在、旧湯田地区の小中2校は自校給食、旧沢内地区は共同調理場から給食を提供してきたが、双方老朽化が進み、衛生面や機能性、食育の観点も含めての新給食調理場の整備が急務として検討されているのである。

方向性としては、旧両地区の小中4校すべての給食のセンター方式導入に向けて走り始めているのだが、費用面や距離の面など様々な縛りがある中での議論が続けられてきた。

その中で出された学校関係者の声が深く心に響く。


『食育や食の安全の確保のために、栄養教諭が学校に居ながらにして調理場に即駆けつけられるといった立地条件が学校サイドとしての希望であります。4校どれもがそれを望むわけですが、給食センター方式になるとなればそれはできないわけで。1校でもそのような体制を保ち、その他3校には安全に配送するという仕組みづくりが望ましいかと。
いずれにしても、その1校には調理場が隣接していて、栄養士がフットワークよく行き来できることが、この新調理場の目指す上で大事なことと捉えていますので、ぜひ加味して頂きたいと思います。』


う~む、納得してうならされた。
さらには、栄養教諭のお一人から、これまた建設的ながら心を感じるお話しがでる。


『建設場所を考える上で、私は視察したところ(被災地となったところ)で伺ったのは、
「もし災害にあったら、どのように食材を確保できるか?搬入経路等よく勘案された立地条件も満たされるか」という点も大事だと伺ってきました。その意味での建設地の検討が必要と考えます。』


さらに栄養教諭は続けた。


『また、仕入れ先の課題もあります。
仮に旧湯田地区に建設された場合、〇〇〇さん(大型スーパー)があり、安価で安全に食材確保が可能ではあります。
けれども、これまでも旧沢内地区ではセンター方式でやってきたわけですが、こちらは地産地消の要素を十分に加味しながら、地元の商店さんを優先として仕入れてきました。もし、建設地によっては大型スーパーからの仕入れなどに移行することも考えられます。すると、これまでの沢内地区の学校がとってきた地産地消・食育を通じて地元商店や農家を大切にしてきたことにも影響が出てくると考えます。
それぞれの背景がある中で、いかにそのことも護ることができるかも検討の材料にならなければならないと考えますが…。』


単なる老朽化の改善、衛生面の解消の観点からの新型調理場建設の検討ではなく、そこには、子どもたちのため、地元のこれまで、災害への対応力といった深いところでの議論がなされていることに感動を覚えた。
それと同時に、その場にただ居合わせただけだけれども、ご縁あって議論の中に立ち会わせていただけたことは幸せなことである。


こういうことを大切に残していきたいものだ。
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華やか?ハデやか?な週末と週明け♪

2017-02-13 19:59:38 | 日記
先週末から今週初めにかけては様々なことがあったなぁ。

9日の夜から妻と三番目の娘は3泊4日で広島県にて開催された小学校雪合戦全国大会へと出発。〝おかあさんどこ行った?〟と不安げな5番目と6番目をなだめつつの時間が始まった。
その間、お参りもものすごい立て込んでいた日程の中、二女のクラスがインフルエンザ蔓延で学年閉鎖となってしまう!『お前は大丈夫なんか!?』と確認し続けていた夕方、高熱の二女が姿を現した!!
即隔離!

妻がいない間に、『太田家インフル蔓延!立ち入り厳禁の寺!』みたいな見出しが頭の中を駆け巡る。なんか、一層の事、全員で罹患して隔離生活を仲良く送るか!まで覚悟してみたり…。
結果、必死の手洗い・うがいの継続で、何とか他の家族は一人も罹患せず今夜を迎えている。(まぁ、まだ油断はできませぬが…笑)

そういう中にあって光寿苑では看取り期となっていらしたお年寄りお二人が、土曜日と今日、息を引きとられた。気持ちはてんやわんやだったけれど、落ち着いた空気を装いながら、なんとか対応させていただいた。
お二人とも、看取りの宣告からすれば、本当にがんばって生き抜いて下さった。私たち職員が救われた気持ちでもある。後に、もう少しお二人にふれてブログをつづってみたい。

いろいろあった中、雪合戦全国大会はどうなったかと言えば、3勝をあげて堂々の全国3位。準決勝では、今回3連覇した広島のチームにフルセットまで持ち込む大接戦を演じられたというのだから感激である。
往路24時間、復路21時間というバス泊2泊の強行軍の中で、みんなようやった♪と褒め続けている。

なにはともあれ、おかげさまで過ごしておりますね。
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