蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

島村抱月  (bon)

2017-11-05 | 日々雑感、散策、旅行

        昨夜の日本シリーズは、見ごたえがありました。今日は、トランプ大統領来日で、
       関係者は緊張のなかにあることでしょう。 警備だけでも、2万人にい及ぶとか・・
       イベントがいろいろと組まれていて大変ですが、どうぞ何事もなく過ぎることを
       祈るばかりです。

 

 島村抱月・・そうです、あの松井須磨子との熱烈な恋物語が、その昔のドラマか何かで
見たのを、なぜか印象深く記憶しているのでした。 調べてみたら、どうも、1965.7.1に
放送されたNHKドラマ『風雪』シリーズの第63話目の『女優松井須磨子』でした。明治~
大正までの日本の様子を 1話完結型のドラマで、この時の配役は、島村抱月を下元勉、
須磨子役を原佐知子とありました。 あぁ、そうだったのか!と改めて思うのでした。

        島村抱月
         (ウイキペディアより)

 今日(11月5日)は、島村抱月の忌日でした。1871年(明治4年)~1918年(大正7年)で、
47歳の若さで他界した、劇作家、演出家、小説家で、新劇運動の先駆者とも言われています。

 実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となり、同裁判所検事・島村
文耕から学資の援助を受け上京し、20歳の時、島村文耕の養子となります。

 その後、現早稲田大学を卒業し、新聞社で仕事をしますが、早稲田の講師となり、海外
留学生としてイギリス、ドイツなどで学び 帰国後早稲田の教授、「早稲田文学」誌を刊行し
自然主義文学運動の旗手として活躍するのです。

 1906年(明治39年)には坪内逍遥とともに文芸協会を設立し、協会附属の演劇研究所に
おいて本格的に新劇運動をはじめるのです。 しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と
研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となり、抱月は文芸協会を辞めることに
なり、須磨子は研究所を退所処分となってしまいます。

        松井須磨子
         (ウイキペディアより)


 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成します。1914年(大正3年)にトルストイ
の小説を基に抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、各地で興行が行われ、須磨子が
歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になります。
 翌1915年(大正4年)にはツルゲーネフの『その前夜』を、2年後にはトルストイの『生け
る屍』を上演し、新劇の大衆化に貢献しました。これらも劇中歌の『ゴンドラノ唄』『さす
らいの唄』がヒットするほどの評判となったそうです。
「カチューシャの唄」のレコードは、蓄音機の普及が進んでいない時代にあって、2万枚の
売り上げを記録したとありました。

 しかしそれらの成功も束の間で、1918年(大正7年)、抱月はスペイン風邪に急性肺炎を
併発し急死しました。 須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けましたが、やがて抱月の
後を追って自殺、芸術座も解散(1919年)になりました。(須磨子は、33歳でした。)

カチューシャの唄』は、1914年(大正3年)に短篇映画として、“日本キネトフォン”が
製作・配給し、浅草・日本座で公開され、好評を得たとあります。 ここで、キネトフォン
というのは、エジソンが発明したもので、サイレント映画に蓄音機を連動させたトーキー
映画で、日本で最初に上映されたそうです。なお、本格的なトーキー映画は、まだ10年後
なんですね。

 
あれやこれやで、「復活・カチューシャの唄」は、大変流行し、全国の高等女学校・中学
校・女子専門学校・高等学校の学生までにも及んだため、生徒たちに『復活』の観劇を禁じ
る学校が相ついだり、唄の方も歌唱の禁止令が出たりするほどだったそうです。

 

大正4年録音?

 

 

 

 

 

コメント
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