みみかほう

こころの耳をすませて すてきな果報にであいたいとおもいます。

✿あっちっちひょうご≪播州赤穂編≫

2015年07月28日 | ✿おでかけ
姫路城と播州赤穂に
おじゃましました。
快晴の空の下、充実の2日間でした。
タイトルは、「あっちっちひょうご」にしましょう。


兵庫県

姫路市赤穂市



『あっちっちひょうご日程』

7月25日(土)
さくら542号 博多8:43~姫路10:54
JR山陽本線新快速・播州赤穂行 姫路11:36~播州赤穂12:06
●赤穂散策
JR赤穂線新快速・野洲行 播州赤穂14:35~姫路15:06
●姫路城ライトアップ見学

7月26日(日)
●姫路城見学
●好古園散策
さくら567号 姫路16:50~博多19:00


レポは、
その1≪播州赤穂編≫・・今日です。
その2≪姫路城(壱)編≫
その3≪姫路城(弐)編≫
その4≪グルメ&お土産編≫
・・へと、続きます。
どうぞおつきあいくださいね~。




はじまり




姫路城行きを決めたとき、周辺観光はどこにしょう。と、
地図を広げました。姫路のそばに、赤穂の文字。
お家断絶の可能性があると解っていながら刃傷におよんだお殿様。
いったい、赤穂はどんなとこなんだろ。で、
赤穂の地に、決めました。


「播州赤穂駅」




ご存じ「忠臣蔵」
浅野内匠頭の言い分、吉良上野介の言い分、諸説あります。
忠臣蔵、赤穂浪士、赤穂事件に ついての公文書の類はまったく残っていないのだそうです。
唯一の 資料は『堀部武庸筆記』とういうもの。

堀部武庸は、堀部安兵衛といった方がなじみ深いです。
『堀部武庸筆記』とは、堀部安兵衛武庸(たけつね)が討ち入り直前に内蔵助らとの往復書簡数10通をまとめ、剣道同門の細井広沢(将軍綱吉の側用人柳沢吉保の儒臣)に送ったものです。討ち入りまでの企画、また討ち入りをめぐる浪士間の考え方の違いなどがよく理解でき、当事者自らが内面を書いた第1級の資料です。内蔵助と安兵衛は、赤穂と江戸、そして京都と江戸間で、何度も書簡をやり取りして論争しています。


「大石内蔵助像」




駅に着くと、大石内蔵助の像。
名前は良雄。内蔵助は通称です。
昔、東京・泉岳寺に四十七士のお墓詣りに行った時、
大石内蔵助の墓標に「良雄」と刻まれているのをみて
え?え?え?この人だれ?と、叫んでしまいました。

身長は157cmだったとか。
私と同じなんだあ。


「息継ぎの井戸」


江戸での浅野内匠頭による刃傷事件の第一報を知らせるため、元禄14年3月14日の夕刻に赤穂藩士、早水藤左衛門、萱野三平が早かごで江戸を出発。赤穂城下に着いたのは3月19日の早朝でした。 155里(約620km)の行程を4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りこの井戸の水を飲んで一息ついたといわれ、以来、息継ぎ井戸と呼ばれています。

すごいですね。たったの4日です。

萱野三平は、ほら 討ち入りに参加した四十七士ではなく、討ち入り前に浅野内匠頭への恩義と仇討ちに反対する父への思いとの板ばさみに悩み28歳の若さで1702年1月14日、自宅長屋門の一室で自刃した方です。四十八番目の義士ともいわれた人物です。

早水藤左衛門は、討ち入りを果たし、元禄16年2月4日細川邸で切腹。享年40歳。


「からくり時計」







「花岳寺」


禅の曹洞宗に属し本山は永平寺。赤穂藩祖浅野長直公によって正保2年に建立された寺であり元禄事変後は、永井家、森家歴代藩主の菩提寺となりました。境内には、四十七義士の墓・宝物館・義士木像堂などもあり、赤穂義士ゆかりの史跡ともなっています。赤穂城の塩屋惣門を移築した山門は赤穂市指定文化財。新西国第31番、瀬戸内観音第7番の霊場です。

「名残の松 」


元禄四年(1691年)に相生村から移植した松の樹齢は310年の大木でした。浅野家が断絶し、大石内蔵助が赤穂を立ち去る時、大石家先祖の墓に詣でこの松のもとで名残を惜しみ旅立ったことが名前の由来になっています。

初代の松は昭和2年(1927年)に松枯れし現在は二代目。初代の切り株が千手堂に保管されています。

こちらが、初代の松です。


「鳴らずの鐘 」


この鐘は、赤穂浅野家二代の藩主で、切腹した長矩公の父にあたる長友公が、その父長直公の菩提の為に奉納されたもの。
元禄16年(1703年)2月4日赤穂四十七士が江戸で切腹した知らせが赤穂に届いた時、町民が昼夜鐘を撞き尽くして鳴らなくなったと伝わります。寛政年間(1789から2301年)に改鋳されているので、鳴らずの鐘が今は鳴っていることから、赤穂七不思議の一つになっています。


花岳寺の寺紋は、
浅野家の家紋「違い鷹ノ羽紋」
大石家の家紋「右二つ巴紋」
です。






「赤穂城址」


昭和30年に再建された三の丸隅櫓(二重二階)と三の丸大手門(左奥)

浅野長直によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入は船が出入りできるようになっていました。昭和46年に国史跡指定を受け、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定され、平成18年には「日本100名城」に選ばれました。本丸内には刃傷事件後に大石内蔵助らが大評定に集まった御殿の間取りが復元されており、天守台からは本丸内はもとより広々とした赤穂の風景が眺められます。







「大石内蔵助良雄宅跡長屋門」


大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から断絶まで家老として大手門内側の一画に屋敷を構えていました。江戸時代建築のひとつで、昭和54年には解体修理が行なわれました。刃傷事件を知らせる早かごが叩いたのがこの門です。

血相変えて、叩いたのでしょうね。
木目の陰影が、なんとなく物悲しい。






「赤穂大石神社」


大正元年赤穂四十七義士並びに中折の烈士萱野三平を主祭神として赤穂城三の丸大石内蔵助、藤井叉左衛門両家老屋敷跡に鎮座する神社です。


その後浅野家三代の城主長直・長友・長矩の三侯、浅野家断絶後の城主森家の遠祖、本能寺の変で亡くなった森蘭丸等七代の武将を合祀しています。


四十七士の石像
ご祭神大石内蔵助を始め四十七義士が1年10ヶ月の間苦労を重ねお殿様の仇を討ったことにより「大願成就」「心願成就」の神として全国の方々より崇敬を集めています。


大石内蔵助。享年44歳。


長男の主税。享年16歳。





ちょっと、まとめます。
赤穂藩とは
1615年に姫路藩主池田輝政の5男・政綱が姫路藩より3万5千石を分知され、ここに赤穂藩を創設。 1645年2代目藩主輝興が発狂し妻(黒田長政の娘・亀姫)や侍女数人を斬殺し改易。
代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3千石で入封。
1701年3代浅野長矩(浅野内匠頭)が江戸城中で旗本・吉良義央(吉良上野介)に斬りつけたことにより切腹、改易となった。
代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2千石で入封。1706年に信濃国飯山藩へ転封し、代わって備中西江原藩より森長直が2万石で入封。以後、12代165年間、森家の藩政が続き廃藩置県を迎えた。(この森家、森蘭丸の末弟・森忠政の家系である。)

おどろきました!!!
黒田長政や森蘭丸の名前が出てきます。


駅の階段横の絵。




浅野が統治していた時代、赤穂の農民に対する重税は苛烈を極め、刃傷事件の結果藩が取り潰された時、領民は餅をついて祝ったといいます。
「鳴らずの半鐘」の説明も、お殿様の切腹ではなく、四十七士の切腹を嘆き悲しんだ。とあります。

はたして、浅野内匠頭は、領民から慕われていたのか。
お殿様の浅野ではなく、
駅に建つ大石内蔵助の像が、それを物語っているように思います。


以前、黒田官兵衛の足跡を求めて、大分県中津におじゃましたときと
同じ感情です。
中津は、官兵衛さんの中津ではなく、福沢諭吉の中津。でした。



「播州赤穂のマンホール」

中心部の星状マークが赤穂市章(赤を図案化)市木桜の花、市花ツツジと名水100選の清流千草川の流れを陣太鼓のギザギザの中にデザイン。



【おまけ

姫路から播州赤穂までの駅名です。
姫路

英賀保

はりま勝原

網干

竜野

相生

西相生

坂越

播州赤穂


英賀保は、(あがほ)と読みます
網干は、(あぼし)と読みます。
坂越は、(さこし)と読みます。
赤穂も、しっているから(あこう)と読めますが、普通(あかほ)ですよね。
珍しいです。
なぜ、赤穂駅ではなく、播州がつくのかは、
ここをどうぞ。


【追記
大分県中津レポです。↓のぞいてみてください。
≪中津城と城下町編≫
≪福沢諭吉編≫
≪グルメとお土産編≫




おしまい





とにかく、暑かった。
汗だくで歩きました。31291歩。
赤穂の塩飴ほおばりつつ、いろはす
お世話になりました。


あっちっちひょうご
レポは、≪姫路城(壱)編≫へと続きます。
よろしくお願いします。



姫路と赤穂7月25~26日訪問




・・・






コメント (13)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ✿姫路レポまとめ中です。 | トップ | ✿あっちっちひょうご≪姫路城(壱)編≫ »
最新の画像もっと見る

13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おはようございます (biko)
2015-07-28 10:15:07
「ようこそ兵庫へ!」と言いたいところですが、兵庫県民である私のほうが逆にいろいろ教えてもらいました。私は、自慢ではありませんが、まだ赤穂はおろか姫路城にも行ったことのない兵庫県民なのです(*^_^*)。今回のはなこころさんのご報告を読ませていただいて、赤穂のこと、忠臣蔵のことがよく分かりました。ありがとうございました。m(_)m
返信する
こんにちは♪ (John Metavolita)
2015-07-28 10:41:57
少々ご無沙汰してしまいました…(汗)

周りのブロ友さんに感化されて僕もデザインを一新してみましたので,
是非冷やかしにおいでくださいませ♪
返信する
Unknown (tomoko)
2015-07-28 11:38:36
なんと・・・詳しく調べられましたね

子供の頃、毎年12月になるとTV放映される忠臣蔵
父がそれを見て毎年毎年、涙を流しておりました
どんな事情が有ったにせよ松之大廊下での浅野の行為は許しがたい事で
その後の仇討&自害も美化され過ぎなんじゃないの?吉良さん気の毒なんて
子ども心に思っておりました~(笑)






返信する
さすが (ひより)
2015-07-28 17:01:34
はなこころさん、博学でいらっしゃいますね赤穂浪士の大石良雄 =大石内蔵助でよかったですか?

勉強になります!!
昔の人は身長が低めでしたね。平均身長は現代女性くらいでしょうか
返信する
こんにちわ♪ (どり)
2015-07-28 17:20:53
わぁ兵庫! 姫路城!
写真、どれもこれも青空できれいですね

レポはその1からその4までなんですね
すでにきっちり組み立てられてるなんてすごいです  尊敬しちゃいます
レポの続き、楽しみにしています
返信する
赤穂浪士 (都月満夫)
2015-07-28 18:14:37
浅野内匠頭ではなく家臣が主役の物語。
吉良上野介は名君だったという説もあります。
封建時代の家臣の苦悩に庶民が感動したのでしょうね^^
したっけ。
返信する
ついつい^^。 (北天使)
2015-07-28 21:18:00
読んでしまいますね^^。

泉岳寺にもお参りされているんですね^^。
私が訪れた一番最初は義士祭がおこなわれていた時でした^^。

今度東京に来られるときに皇居の東御苑にお越しください^^。
松の廊下の跡地という所が残されております^^。
入苑は無料ですが休苑日がありますのでご注意ください^^。
芝生にシートを敷いてお昼を食べることも可能ですよ^^。


成らずの鐘,年代が^^;
寛政年間(1789から2301年)に改鋳されているので

修正をお願いいたします^^;
返信する
Unknown (atli)
2015-07-28 21:25:48
暑い日が続いております
はなこころさんはおかわりありませんか?

実は何を隠しましょう
僕の同居の義父は赤穂市の出身
そしてすっかり悪役の吉良家の統治した
吉良町には、僕は仕事でたまに行きます
こうしてはなこころさんに紹介して下さったのは
なにやら因縁でしょうか? (笑
返信する
こんばんは~♪ (yume)
2015-07-28 21:32:57
赤穂には行った事がないので、
興味深く拝見しました。
私と違って詳しく調べていらっしゃって・・・
見習わないといけませんね。
返信する
こんばんは (招き猫)
2015-07-28 22:09:17
昔から幾度となく見てきた
忠臣蔵~岡山県人としては
赤穂に身びいきしていました。
返信する

✿おでかけ」カテゴリの最新記事