湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆RVW「野をわたり」全訳解説など

2016年12月23日 | ヴォーン・ウィリアムズ
参考:本体サイト
画像:A.E.ハウスマン

~A.E.ハウスマンの最初の詩集「シュロップシャーの若者」は1896年に出版された。それは作曲家たちにとって大きな贈り物となった。ハウスマンの本業は学者であり、その詩はギリシャのアンソロジーにみられる、ある種の見事な質を保っている。失われた若さ、失われた愛、失われた古里への深いノスタルジーが混ざり合った感情だ。彼は地名の組み合わせの絶妙をもって読者自身の経験と共通する「失われた地」を創り上げている。1922年に二冊目の「最後の詩集」が出版されると、作曲家達は今一度自身の音楽にぴったりの文節を持つ詩文を見出した。ハウスマン自身は音楽を嫌い、彼とRVWは初期の歌曲集「ウェンロックの崖にて」の一つの歌*をめぐりいくつかの激しい言葉を交わしていた。これはテノールと弦楽四重奏、ピアノのために書かれたものである。

*訳注:27番「私のチームは耕しているか」のサッカーにかんするくだりをRVWが削除した(「この一節が純粋に気に入らなかった」)ことに関するトラブルを言っていると思われる。男らしさ(ゲイだったともいわれる)とニヒリスティックな感覚を持ったハウスマン自身、RVWの美しく感傷的な音楽に批判的だったようだ。故三浦淳史氏も同調しバタワースの歌曲のほうを評価している。

この二番目の歌曲集「野をわたり」でRVWはソロの歌唱とソロ・ヴァイオリンを用いている。8つの歌の最初と最後は哀歌ふうで、「野をわたり」の歌は「ウェンロックの崖にて」の「私のチームは耕しているか」の幽霊の声の、もう一つのバリエーションとなっている。「半月~」と「ため息~」はいずれも失われたことを受け容れる感情を示し、小さな「朝に」は今ふたたび初期のハウスマン歌曲集の小さく冷笑的なエピソード「ああ僕が君と恋に落ちていたとき」のパラレルになっている。「さよなら」は同じムードがあり、親密な少女の出現
とその後の後退、男の敗北の流れに、ヴァイオリンによる驚くべき彩が添えられている。「妖精の鐘」の舞曲にも同様のものがきかれる。

この歌曲集はジョアン・エルウェスとマリー・ウィルソンによって初演された。ロンドンのグロトリアン・ホールで1927年10月24日のことである。しかし1954年まで出版されずじまいになっていた。(ウルスラ・ヴォーン・ウィリアムズ、MHS盤ライナー)

~ハウスマンもRVWも思索のすえに無神論に至った点は共通している。しかし起伏はあるにせよ比較的円満な人生を結果としておくることのできたむくつけき大男RVWに対し、10余りしか離れていないハウスマンは70台で早くも老衰死した。RVWの美しすぎる「ウェンロック」を嫌う人の感覚もわかる。しかし素直に詩文に感動し、しかし独自のポリシーを堅持しつつ歌曲につけたRVWの純粋な作曲家としての態度、その作品に溢れるRVWならではの美観には決して浅い思いつきで書いたものではない魅力があり、これはハウスマンの詩につけた歌というより、ハウスマンの詩による変奏曲なのである。そしてここに私が書く訳文も、私による更なる変奏曲になっているということをご理解いただきたい。翻訳とはそういうものだ。

RVW「野をわたり」 8つのハウスマンの歌、歌唱とヴァイオリンのための

以下、曲順に従ったてきとう訳詩

1.(最後の詩集、序)

我らもう森へ行くまい、
月桂樹は全て刈られた、
ミューズたちがかつて頭上に飾った月桂樹の枝は
もはや木陰に無い、
年月が日を過ぎ、
すぐに夕べの闇が来るだろう。
全ての月桂樹は刈られてしまい、
我らもう森へ行くまい、
ああもう、もう行くまい
生い茂る森へ遠く、
高い月桂樹のむら成す森へ
そして月桂樹の枝なす木陰へはもう。

2.(シュロップシャーの若者、26番)

野をわたり我ら来たりし
ひととせの昔 恋人と私は、
ポプラが牧場の石垣の上で
ひとりつぶやいていた。
「ああ、誰がキスして去っていくのだろう?
村の恋人、その彼女、
二人の恋人は結婚するようだ、
そして時が彼らをベッドに送るだろう
でも彼女は土の上に横たわり、
彼は他の恋人のかたわらに。」

そしてたしかに木の下を
他の恋人が私と共に歩いている、
そして頭上にポプラが揺れる
銀の葉ずれから雨音をしたたらせ、
そして私はその動きから何も読み取ることができない、
でも今たぶん彼女に話しかけているのだ、
そして彼女にははっきり理解できる
彼らは間もない時のことを
私がクローバーに覆われて眠るであろうとき、
そして彼女が他の若者の傍らに眠るであろうときのことを。

3.(最後の詩集、26番)

半月が西へ低くかたむく、いとしい人、
そして風が雨を運んでくる、
そして僕らは別れて眠る、いとしい人、
そして二人の間に海々がよこたわる。
雨が降っているかどうかすらわからない、いとしい人、
君の眠っている土地に、
そしてああ、君の寝息がきこえる、いとしい人、
君は知らない、私と同じように。

4.(最後の詩集、23番)

朝に、朝に、
楽しい干草の大地で、
ああ 彼らは互いに見つめあった
日の光さす中。
青く、銀色の朝に
干草の山に彼らは横たわり、
ああ、互いに見つめあった
そして目をそらした。

5.(最後の詩集、27番)

ため息、草ぐさを揺らす
汝が決して起き上がらぬ地の
ため息つくかどうかも知らぬ、
わたりゆく風なのだ。
ダイヤモンドの涙、飾りつける
草原の低い汝の塚を、
朝の涙なのだ、
すすり泣く、でも汝のためではない。

6.さよなら
(シュロップシャーの若者、5番)

おお、ごらん何とたくさんの金のカップの花、
野や小径に咲いていることか、
たんぽぽが時をつげる
二度とは繰り返されない。
おお、僕は原っぱへお供していいかい
そして綺麗な花をたくさんつんであげても?
「腕を組んでもよろしいでしょう」
「ええ、あなた、ええ。」

ああ、春は若い二人のために送られてきた
「今こそ血が黄金に輝き流れる、
そして若い二人が楽しむ時
世界が年老いる前に。
今日咲く花は明日咲くかもしれない
でも新しいものほどよくはない。
僕が腕を回したとき言ってくれ。
「ほんと、あなた、ほんと。」

こういう若者たちもいる、「口にするのも恥ずかしいけれど
盗むためだけに寄ってくる者、
そしてひとたび彼らが花を摘み去ってしまうと
「捨てることなどかんたんだ。
そうだ君の心を僕みたいな男のためにとっておけ
そして信頼できない輩から安全であれ。
僕の愛はほんもの、すべて君のために。
「たぶんね、あなた、たぶんね。」

おお、僕の目を見て、それでも疑うかい?
なぜ、「町から1マイル。
あたり一面、何て草ぐさが青あおとしていること!
腰をおろしてもよろしいですよね。
ああ、人生よ、ただの一輪の花にすぎないのか?
なぜ真実の恋人たちがため息をつかなければならない?
やさしくね、憐れんで、僕だけの、僕の美しい、・・・
「さよなら、あなた、さよなら。」

7.(最後の詩集、41番)

若者たちが労働を終え家に帰ったころ
クリーのふもとのアブドンで、
一人の男が近所の人を呼んだ
そして二人が私を呼びに来たものだ。
そして槍の光なすところ
草原を横切っていき、
ダンスにあわせて、
僕はフルートを取り吹き鳴らした。

僕らの喜びは他愛ないもの、
でも、おお、それで僕らは満足だった、
楽器を吹き鳴らす若者たち、
調べに聴き入る老人たち、
そして演奏を続ける僕
木々から塔から山から、
綾なす光をはっしつつ、
太陽はフルートに眠りつく。

若者は恋人のほうへ
日焼けした額を向けたものだ、
そしてトムはナンシーとカップルになり
そしてディックはファンと踊ったものだ、
少女はまなこを上げて
彼のまなこを、そして黙り込んだものだ、
ダンスは楽しく進んだ
夕べにフルートにあわせて。

ウェンロックの崖はアンバー色、
そして輝きはアブドン町に、
そしてその間に暖かく眠る
芝のゆるやかなグリーン・マイル、
草やクローバーからやがて
最後の光が消え去ったものだ、
そしてイングランドの上に
影が張り出してゆく。
張り出す影は拡がって
僕はフルートを取り奏でる、
来いよ、若者、ダンスを学べ、
今日の調べをたたえるのだ。
明日悲しみは更に増える、
僕らは早く去らなければならない、
うたは空へゆけ、
そして僕は大地をゆく。

8.(シュロップシャーの若者、54番)

僕の心は悲しみ思う
僕の持った黄金の友達のために
たくさんの薔薇の唇の乙女のために
そしてたくさんの足取り軽い若者のために。

跳び越えるには広すぎる小川のそばに
足取り軽い少年たちが臥す、
薔薇の唇の少女たちが眠る
薔薇の色失せた野の上で。
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