20世紀ウラ・クラシック!<最新版>

このページは、19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音評を中心に紹介しています。

☆ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941)

2017年09月28日 | Weblog
◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(melodiya/victor他)1975・CD

とても整って、緊密な演奏です。あらゆる面で同曲のスタンダードといえるでしょう。この人の演奏が一番バランスが良い。曲の多面性を鋭く捉え、どの角度からもしっかり照射している。弱音部の美麗さは比類無いもので、甘く感傷的なほどです。 1楽章の「ファシズムのテーマ」すら抒情性を失わない。そのため純粋な音楽としても楽しめます。<レニングラード>は非常にバランスの取れた抒情的交響曲。マーラーら魅力的な抒情作家へのオマージュを、とりわけ分かりやすい形で散りばめた傑作でもあります。(バルトークのようなヒネた老人にはわかるまい!前衛の空しさを身をもって体感したろうに、この感動的な曲を何故揶揄したのか?)大衆に分かりやすい形をとることにより、包囲網下の窮状を打破する勇気を皆に与えるように、作曲家としてできる限りのことをしたということでしょう。一市民として、消防士の格好をした大作曲家の写真に、連合国の誰しもが感激し、マイクロフィルムで送り届けられたスコアにより、トスカニーニを初めとする国外の指揮者によっても、早くからさかんに演奏されることになりました。(トスカニーニ盤の純音楽的空疎には少し異論があるのですが、別項に廻します。) 3楽章を聴くと、この楽章こそショスタコーヴィチの書いた最も美しい曲であるという感を強くします。冒頭木管の荘重な挽歌(葬送歌もしくは鎮魂のミサの始まり)、ブルックナー張りのヴァイオリンの強奏!!下では時折低音金管楽器の2拍3連の上昇音形、いわばワグナー的な対位フレーズが繰り返される。数々の過去要素の、独創的配合。さらに続くは、1楽章「人間の主題」提示後の牧歌をさらに純化したような・・・「大地の歌」のような、フルートによる息の長い旋律。暗い夢想に溢れた歌。二度と戻らない人への想い。静かなレクイエムが続く中ふと浮き上がる冒頭ヴァイオリンの回想。やがてそのまま展開し、勇壮なる闘争へと向かう。マーラーの残響である(ショスタコーヴィチの癖でもある)付点音符のリズム、ペットの絡み、中音域の抜けた高+低音だけの独特な響き。癖的には非常に近似した作曲家といえるプロコフィエフに繋がる要素もある。ここはもう格好が良いとしか言いようが無い!・・・だがやがて静寂が戻り、スネアのとおく響く中、葬列が通り過ぎる。そう一闘士の想い出に過ぎない。

静かに、冒頭ヴァイオリンの回想。最早叫ばない。挽歌と一緒になり、同化して、そのまま・・・

そのまま低弦の新たなテーマへ移る。静かで無調的な、ショスタコーヴィチ特有の瞑想的フレーズ。やがて少しずつ挽歌が蘇り、音を増す。ヴァイオリンが完全に冒頭のような強奏で蘇る。荒れ野の丘に、最後の葬送歌が響き渡る。低弦はワグナー~マーラー的対位性を保ち、荘重さを支える。葬送は最後の時を迎えた。白い墓銘碑は吹きすさぶ風の中で、無言のまま、寂しく立ち尽くす。重い足を引きずりながら、トラックに乗り込む。

無言の喪服の中を、荷台に揺られている。

言い表わせない感情に襲われて、どうにか端より顔を突き出す。両頬が妙に冷たく、丘はもう遠く霧に隠れてしまって、見えない。そのとき初めて、涙が流れていることに気がついた。・・・

4楽章。増して無調的だが、ヴォーン・ウィリアムズのようなたゆたう幻想、不安感。オーボエと線的に絡むファゴットの、マーラー的警句に導かれ、ヴァイオリンが走り出す。チェロも対位的に後を追う。ブラスのオスティナート・リズム、3拍子のフレーズから、線的対位的なアンサンブルの緊密さ。この充実ぶりはほんとにマーラーだ。木管からペットの闘争のテーマ、そのままブラスと弦、そしてシンバルの打撃。どうしようもない闘争。革命交響曲の終楽章前半のテーマがチラリ。もう格好良すぎる。弦の低音リズムに載せた木管アンサンブルの鼓舞するテーマが通り過ぎ、鞭、弦の
くぐもったリズムが枯れはてるさまを描く。これは敗北に向かう姿だ。そのままやつれ、重い鎖を引き擦る様な弦の低音域合奏。・・・死の気配。

それでも時折立ち上がる気配を見せる。一旦音域は高く昇ってゆく。しかしすぐにやつれる。低く沈んでゆく。静まり返る・・・まさに、ショスタコ的静寂だ。ヴァイオリンが、死にかけたパンの笛の様に、兵士の転がる荒野に空しく響く。完全なる死の世界が残る。血の匂いだけが唯一の生の残照だったけれども、消え去る。屍は草木よりも数多く地面を被い、墓標すらも立てられぬままに捨て置かれる。降り始めた雪。静寂の野に優しいヴェールが舞い降りて、何事もなかったかのように・・・。

・・・だが、春になると、少しずつ大地の底から生命の息吹が聞こえはじめる。

理不尽さと闘争する心はけして止まない。

半音階的で哀しい音の中にも少しずつ光明が差し、ティンパニと弦の明彩は厚い雲を割り、兵士の死骸を覆う雪は溶け出し、中から力強く立ち上がる草の芽。死骸のひとつひとつから、無数に芽生え出していく。草ぐさはかつてここに暮らした人間たちの生まれ変わりだ。新たな生命は人々の死の上に新たな大地を創り出そうとしている。野はやがて緑に還るだろう。空しさの上にも光明が差し、かすかな希望が遠く雲間に見えたような気がする。雲間は薄く光るだけだけれども、決して勝利はしなかったけれども、物語は・・・この時代、フィクションではなかった地獄の記録は(日本だってそうだ)・・・エンディングを迎える。

最後のアプローチについて私は、ショスタコーヴィチの美学が非常にはっきりと反映されている演奏と思います。通常、最後に、疲弊し伏していた同士たちが力強く立ち上がり(トロンボーンとチューバによる「人間の主題」の再現)、手に手に勝利の矛を持って壮大な夜明けを迎えるというようにいわれます。そのように明るく壮麗に盛り上げた方が、どん詰まりの「人間の主題大復活」が生きてきて、聴衆も感動するし、正統だとは思います。だけれども、同曲、人間の
主題の復活、余りに遅すぎるのではないでしょうか。2楽章からのち、断片がポリフォニックに挿入あるいは奇怪に変容した形で俄かに出現することはあっても、明確にわかる形では殆ど再現されていない。それを曲も終わりの最後の最後にいきなり完全復活させるというのは、構成上唐突ではないか?非常に速筆のショスタコですし、情勢柄もあって勢いで書いてしまったゆえ構成の弱さが出た、とかいうよりも、これは意図的に思えてならないのです。

これは本来「死滅」で終わる音楽ではないか。

無理矢理ベートーヴェン的勝利の交響曲として「完結させる」為、まるでプロコフィエフの「青春」終楽章末尾のように、あるいは英雄映画のエンディング的に、冒頭主題の再現を挿入しただけなのではないか。…お得意の仮面だ(消防帽か)。

コンドラシン盤での「人間の主題」再現は、1楽章冒頭のそれとは余り共通性を感じない。それまでの十分な盛り上がりに吸収されるように組み込まれてしまう。それが凄くはまっている。唐突さのない演奏。瑞逸だ。これらクライマックスでの異様な迫力、強奏ぶり。暗く悲壮な大音響が最後まで心に何かを蟠りつつ深い諦念を伴って突き刺さってくる。「人間の再生」などではなく、人類の「エピローグ」。それが本来のこの曲の姿ではないかと思う。

・・・滅んだのは恐らく味方だけではないだろう。敵も全員、そこで生きていた民間人も全員、行きとし生ける、全ての人間だろう・・・

(以上、主観が過ぎますね・・・ひとつの聞き方として、参考程度に。)

2楽章の途中で混ざるリズムに「大地の歌」の「告別」が聞けます。

※2000年頃の記事です
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☆チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」

2017年09月28日 | チャイコフスキー
○ハイフェッツ(Vn)ピアティゴルスキー(Vc)ルービンシュタイン(P)(RCA,BMG)1950/8/23,24・CD

この三人組の中ではいちばん分が悪いピアティゴルスキーが曲のせいか少し表に出てきて危なげの無い技巧をみせているが十分にその渋い魅力を発揮しているとは言い難い。かなりヴァイオリンとバトルを繰り返す楽曲にもかかわらず、圧倒的なハイフェッツの力(技巧は当然のように満たされていて、その上に「力」である)の前に聴き劣りは否めない。ハイフェッツだってラフだしルビンシュタインにいたってはてきとうに弾き流したりしているのだが、楽曲がドロドロの余分だらけのチャイコであることからしてもそういうあるていど流すスタイルのほうが爽やかで素直に旋律を聞きやすい。だからピアティゴルスキーはこれはがんばっているほうだけれども、ハイフェッツに歩み寄りをみせて音色を似せるなどすればきちっとアンサンブルとして聞けたと思う。まあ、とにかくハイフェッツ、とくに壮年期までのハイフェッツは「弦の王」であることを認めざるをえないです。どういう手だ。○。

※2007/1/17の記事です
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年09月27日 | チャイコフスキー
○アーベントロート指揮ベルリン放送交響楽団(TAHRA)1950/11/28・CD

ちょっとびっくりするようなリリースだったわけで、録音状態もそんなによくはないがもともとなのかリマスターのせいか弱音部がなくひたすら強い音でガシガシ攻めてくる感じで驚いてしまう。いや、驚かされるのはそんなところじゃなくて極端なテンポ設定の変化、しょっちゅう止揚しそれでも重量級の歩みを止めないデジタルなルバートとかいったところで、縦が大事なドイツ解釈というのにそこに軋みを生じさせすらする嵐のような解釈ぶり、しかもちゃんとついていこうとするオケの反応ぶりには、目隠しして「晩年のシェルヒェンのライヴ」と言われても信じてしまいそうなくらいのものがある。まったく久々にこういう「奇演」を聴いた気がして懐かしいとともに、録音状態をまったく加味しなかった昔なら◎つけたろうなあと思う(ちなみに当のシェルヒェン盤(TAHRA)は凡演)。まあ、2楽章のものすごい作為的な遅さとか、3楽章の縦の揃った重量級の見得切りとか、4楽章の極端なテンポダウンと後半の慟哭のルバートとか、トスカニーニなどに慣れていたら顎が外れて超合金の頑丈な顎に付け替えられるくらいの衝撃を受けるだろう。いや、けっこうこういう解釈はあるのだが、きちっとした演奏にかえてしまえた指揮者というのは限られている。チャイコ晩年の音というのは中低弦の充実したかなり人間の声に近い緻密なものがあって、終楽章後半のひびきをこの音質で聴くとまるで高弦が歌いボントロが追随する下に、男声合唱がエコーを加えているような錯覚をおぼえさせられる。これがプロの作る音響なのだ。

※2007/3/8の記事です
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☆カバレフスキー:チェロ協奏曲第1番

2017年09月27日 | カバレフスキー
○ジャンドロン(Vc)ドラティ指揮スイス・イタリア語放送管弦楽団(KARNA:CD-R)live

指が軽く冒頭から装飾音が音になっていなかったり音程が危うかったりちょっと安定しないが、2楽章カデンツァあたりから低音が力強く響くようになり安定してくる。3楽章は元がロシアのデロデロ節なだけに、ジャンドロンらしい柔らかくニュートラルな音で程よくドライヴされると聴き易くてよい。ドラティはさすがの攻撃的なサポートで前半ジャンドロンの不調(衰え?)を補っている。この曲のロシアロシアした面が鼻につくという人にはとても向いているが、録音特性やソリストの適性もあり決して最大の推薦はつけられないか。○。

※2007/3/6の記事です
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番

2017年09月25日 | チャイコフスキー
○クーベリック指揮バヴァリア放送交響楽団(SOUNDS SUPREME:CD-R)1974/12・CD

近い年代の盤が廉価で出ている。こっちははっきり言ってそれほど録音状態がいいわけでもなく、別に持っている必要があるとは断言できないしろもの。クーベリックらしい直球勝負の火の玉演奏で、4楽章の感情的なグイグイもっていき方も、一方では2楽章の楽しげなワルツも実にいい。3楽章は勿論盛り上がるが圧倒的かというとそこまではいかないか。盛り上がっているけどクーセヴィツキーなんかに感じられる異様な力感はない。響きはやや雑なこのオケらしさが出ているもののライヴにしては精度はかなり高いほうだろう。ヴァイオリンの対向配置をかたくなに固持したクーベリックだが、途中あきらかにステレオ効果は聞こえるものの、終楽章冒頭など音の融合具合が豊穣で引き裂かれた旋律が引き裂かれたように聞こえない。録音のせいかもしれない。悪くはないが、特筆すべき演奏ではない。ライヴなのか不明。○。

※2005/2/23の記事です
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ショスタコーヴィチ:前奏曲第14番(管弦楽編)

2017年09月24日 | Weblog
ストコフスキ指揮NYP(MEMORIES)1947/10/19live・CD

メモリーズは海賊盤の海賊盤のような形で廃盤歴史的秘盤を復刻したものをほうぼうからまとめて一気にボックス化する方向に舵を切っている。これも少し前に比較的高価なm&aがまとめた交響曲三曲集を、音源状態や盤質はともかく、値段は半分で、さらに他のおそらく正規セッション録音以外の全てを三枚組で、盤質にこだわらない向きはほぞを噛んだかもしれない。調べたところHMVのデータに誤りがあり全て交響曲は既出でとくに手に入りにくいものでもない。ただ最後のこの曲(ストコフスキーが編曲し好んで演奏したものである)だけ、調べがつかなかったので一応初出として書いておく。といっても3分の小品だが。重苦しく足を引きずるような音楽は、編曲のせいでほとんどマーラーに聴こえる。オケのせいもあろうか。ストコフスキは千人のミュンヘン初演に臨席した唯一の千人録音者で(ライヴ)、復活と千人という効果の高いものしかやらなかったとはいえ雰囲気作りには慣れた調子が伺える。ショスタコーヴィチもそうとうに好んだがレニングラードの初演をトスカニーニに奪われたのは有名な話。とまれ、このお得ボックスを買ったら、忘れず聴くと良い。これだけを目当てに買うのは薦めない。音が悪いのだ。
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チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年09月23日 | Weblog
ガウク指揮レニングラード・フィル(新世界レコード/WME)1958/5/12東京live

板起こしCD-R聴取による再掲。けして良い状態ではなくノイズがゴニョゴニョ入り続けいかにも板起こしといったかんじ、音も往年の板起こしといった何の工夫もされていない生のままのもので、加えていったんデジタル化したかのような金属質の音色は正直あまり褒められたものではない。かと言って原盤もよい出来だったとは言えず急ごしらえの記念盤という感じ(白鳥の湖抜粋は未聴・未復刻)。日比谷か、音響も良くない。篭っているというか、ブラスが咆哮してもどこかにあたって発散しない音だ。解釈はムラヴィンスキーの代振りにもかかわらず完全にガウクで、即興的なものを含む前のめりの急くようなテンポは不安定さをかもし、あくまでライブで成立する演奏であり、客観的に繰り返し楽しめるものではたい。とにかくオケも弛くならざるをえず、つんのめる寸前で先へ進むというある意味、職人技の連続である。また、二楽章をきくとわかるが、個性は認められるが、そんなに面白くもない。それを四楽章で思いっきり歌い力強く慟哭するという「つじつま合わせ」で大団円、というのもまさにガウク。普通の拍手で終わる。なぜ録音したのかよくわからない。
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☆グリエール:交響的絵画「ザポロージュのコサック」

2017年09月22日 | グリエール
○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)LP

思いっきりロシアロシアした重厚な出だしから「シェヘラザードかよ!」というような旋律とハーモニー展開。リムスキー節を抜けるとロシア民謡のバレエ音楽的数珠繋ぎ。ラフリンは引き締まったアンサンブルを展開するがロシア劇音楽的な感情をいかにもロシア流儀のアゴーギグで表現している。一くさりカリンニコフかチャイコフスキーか晩年プロコかという民謡表現がすぎるといったんリムスキー主題が戻るが、このあたりのコード進行にグリエール独自の新しい表現が聞き取れる。グリエールはソヴィエト下で作風を穏健な方向に変化させてしまったとはいえ、リスト・ワグナーの衣鉢を借りて完成したロシア国民楽派の管弦楽の方向性を積極的に維持したという意味ではグラズノフ以上に右寄りな立場にあった。この作品も「穏健」というよりグリエールの世紀末的作風の昇華と聞き取れる。憂愁の民謡・・・チャイコだ・・・からふたたび冒頭主題に回帰して終わる。ラフリンはつかみ所の無い指揮者ではあるが聞いているうちになんとなくその立ち位置がわかります。いかにもロシアな人。○。

※2006/9/23の記事です
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☆カウエル:オンガク

2017年09月22日 | アメリカ
○ホイットニー指揮ルイスヴィル管弦楽団(FE)1958/4/20・CD

カウエルは意欲的に他国の音楽にも取材し多彩な楽曲を書いた。日本に取材したものもいくつかある。これはガガクとサンキョクからなる組曲だが、「まんま」である。三曲のほうはいくぶん西欧的なオーケストレイションにより20世紀前半にイギリスあたりによく聞かれた民謡編曲音楽(ま似てますからね)に現代の映画音楽風味をふんだんに盛り込んだかんじで、雅楽風の笛による繊細でのっぺりしたハーモニーに、アメリカらしいペットソロが乗ったりするところはなかなか凡百作曲家にできない絶妙さをもってくる。日本の作曲家に多かった感じもあるが、とにかく西欧置換が上手いので、下品にならない。気持ちがいい。雅楽のほうこそまさに「まんま」だが、三曲はRVWの哲学性にも通じる。かなり日寄った作品とも言えるが縁深いオケの、多少粗くもよく掴んだ演奏ぶりがいい方向に働き秀逸。カウエルはアメリカ前衛主義の創始者としてかなり左寄りに置かれているが、アイヴズより余程感傷的なロマンチシズムと音楽的合理性を持ち合わせたプロフェッショナルである。日本人が聞いても○。

※2006/7/22の記事です
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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

2017年09月21日 | ショスタコーヴィチ
○A.ヤンソンス指揮レニングラード・フィル(KARNA:CD-R)1984/6/19ソフィア音楽祭LIVE

やはり客観性を感じる。厳しさはあるのだがムラヴィンほどの切れ味はなく、ややゆるい。このゆるさと、盛り上がりどころでも決して走らない客観的なところがあいまって、やや物足りない。ただ、この曲がかりそめのシニカルな盛り上がりを(またしても)作り上げ、スターリンが死んだことへの歓喜などと簡単に断じ得ないものと思わせる解釈にもなっている。カタルシスを与えるような2,4楽章のごく一部ではなく、1、3楽章など長い静かな部分に重点が置かれているのだ。フィナーレ最後の悲愴を模したようなヴァイオリンの音階表現など軽く粗く流され「チャイコ好きスターリンへのあてつけ?」とも深読みできるような感じすらある。謎。正直無印のような気もするのだが、○。

※2006/6/9の記事です
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☆エルガー:交響曲第2番(1910-11 )

2017年09月21日 | Weblog
ボールト指揮

<1番と間を空けずに着手されたが、書き上げる寸前に親友であったエドワード7世が崩御、 終楽章の最後に(いささか唐突ではあるが)美しく、そして遠く再現される1楽章第一主題は、 友情の想い出に花を手向けるエルガーそのものだ。献辞としてのシェリーの詩文は失う事の悲し みよりも戻っては来ない楽しい日々へのノスタルジーをひたすらに唄う。夫人を失ったときのチェロ協奏曲にみられるような心情吐露的で晦渋なものは感じられない。>

○ロンドン・フィル(nixa(Precision)NIXCD6011(PVCD8382))1956/8

ボールトのエルガーは私情抜きには語れない。RVWやホルスト同様スタンダードという言葉では語り尽くせないほどに曲と同化しきった名演中の名演だ。とくに2番終楽章の崇高な輝きと余韻は比類なく、比べて1番という曲の何と浅薄なことかと嘆きたくなるほどの出来だ。エルガー自身の録音すら凌ぐと言ってよい。イギリス人でもないのにこんなことを言うのは甚だ可笑しなことではあるが、黄昏のなかであくまで高貴さを失わない誇り高き英国紳士の横顔を想じると、涙を禁じ得ない。3楽章の瑞々しさの中にも威厳有る素晴らしい躍動は他に代え難いものがある。この緊張感溢れるロンドの演奏は恐らく今もって比肩しうる録音は無いと思う。其の生涯に5回ほどの録音を残しているが、私はこの盤によりエルガー2番という曲の素晴らしさに気付かされたという個人的理由より、この演奏を最初に挙げることにする。手塩にかけたロンドン・フィルとは1968、1975-6(前者Lyrita(LP)後者EMI)にもセッションを行っている。但し録音が貧弱で音の分離が余り良くないこと(ステレオ初期は仕方ないが)、解釈が即物性を帯びかなり率直であること、高弦の響きが薄いという点、好き嫌いが分かれるとは思う。初録音は前半生の伴侶BBC交響楽団との1944年のセッションだ(EMI、下記)。

◎ロンドン・フィル(EMI(CDM 7 64014 2))1975-76

新録は旧盤のインテンポ・アプローチを踏襲しつつ、より叙情的な表現を深めている。1楽章緩徐部(再現部前)の寂りょう感、2楽章後半の高潔な響きは感動的だ。3楽章は旧録同様他に代え難い超名演である。特筆すべきはホルンを始めとする金管群の充実ぶりだ。ペットなど開放的になりすぎず、緊密性を良く保っている。対して録音バランスの悪さを差し引いても、ファーストVnの薄さが目立つ。これも旧盤と同じだが、較べて中声部以下のふくよかな、しっかりとした音響は、きいていてじつに気持ちが良い。これはブラームスなどに見られるボールトの大きな特質であるが、この曲はメロディ楽器偏重に陥りかねない曲だから、尚更ボールトの造形力の確かさをより強調するバランスに仕上がったともいえよう。終楽章のあっさりした末尾は賛否あろうが、盛り上げすぎて全体構造を歪ませることがなく、却ってノスタルジックな気分を深くさせるように思う。録音は決して良くはないが、旧盤に比べればずっと聞き易い。

◎BBC交響楽団(EMI(CDH 7 63134 2))1944

或る意味超絶的な名演である。覇気に満ちた演奏で、他録音の円熟したボールトとは異質のもの。特に前半楽章が優れている。1楽章冒頭から強い意志を感じさせる。造形の起伏が激しく、個々のダイナミクスも相当にデフォルメされ、しかも細部まで指示が行き届いているのであろう、「型」が崩れない。BBC交響楽団も近年とは異なり音に「色」があり、技術的にも満点をあげたい。…凄く面白い!緩徐部の噎せ返るような艶は、ワグナーやリヒャルトSよりも、マーラーを思い起こす。その後の再現部へ至る雪崩のような轟音とのコントラストも凄い。しかし一貫して弦楽器にポルタメントはかけられない。そこに古典主義者ボールトを感じる。最後は意外に小さくまとまるが、曲の流れ上、納得できる解釈だ。2楽章も強烈な表現性が発揮される。荘厳さにおいては少し若いが、明るく古典的な響きを持ち、別の曲を聞いているような錯覚(これは1楽章にもある)に陥る瞬間がある。後半に向かっての壮大な造形は、後年のアプローチの萌芽を感じるが、より露骨だ。クライマックスでは音が割れる!3楽章は、後年の良い音の演奏が余りに完璧であるため、起伏の激しさはあっても、比して刹那的解釈という印象を受けてしまう。一歩譲るかもしれない。4楽章、低弦による第2主題の提示は気合に満ち、頂点までの勇壮な行進をしっかりとした足取りで支えていく。其の先の副主題はまさにエルガーの行進曲だ。しかしすぐにはらはらとおさまってゆく音楽。物語性すら感じる強大な演奏。展開部に入ると再び気合の応酬が始まり、終結まで突き進んでいく。やや表現が若い気もするが、聞ける演奏。最後の1楽章主題の再現は思い切りロマンティックに盛り上がる。無論ボールトであるから威厳は失わないが、後年の演奏には聴けないものだ。

ほめまくっているが、録音はかなり悪い。当然モノラルである。

スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(EMIほか(1963,CFP172))1963

録音バランスはステレオ録音中一番良い。楽器配置が透けて見えるし、高弦もしっかり聞き取れる。アプローチはロンドンと殆ど変わらない。というより寧ろ、さらに単刀直入な解釈だ。オケのせいであろうが、木管やペットなど、いささか開放的すぎて、情が薄く、冷たいように感じる。弦にしても、後半楽章で余りに明るく客観にすぎるきらいもある。殊更に取り上げて聴くべき演奏ではないかもしれないが、損はしまい。

※2004年以前の記事です
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☆フランセ:五重奏曲

2017年09月20日 | フランス
○ピエール・ジャメ五重奏団(timpani)1933-52・CD

ラスキーヌと並ぶフランス派往年の名ハーピスト、ピエール・ジャメ教授によるSP録音復刻集の中の一曲。サロン風というかいかにもベル・エポックの世俗の雰囲気をもった愉しい曲で、脂の乗り切ったフランセの、脂を感じさせないドライな楽曲を、さらっとした肌触りの楽団がさらっとやりきった気品あるもの。SPの音質を決して上手く復刻しているわけではないが、元来シャープで硬質な表現をもったこの楽団の気質はよく反映されていると思う。事前情報なしでは余りにさらっと聞けてしまうがゆえに印象に残らないかもしれないが、フランセのBEAセレナーデあたりが好きな私には、表層的な律動の楽しさだけを追ったわけではないこの曲の正統な表現としてかなりアピールした。○。

※2007/10/31の記事です
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マーラー:交響曲第3番

2017年09月19日 | Weblog
ヴェスト(alt)ホーレンシュタイン指揮RAIトリノ放送管弦楽団&合唱団(FKM/rococo?)1970/12/16トリノLIVE

おそらくROCOCOのLPで出ていたものと同じだがステレオで音質は段違いに良い。プチプチノイズや片側欠落など入って70年代にしては悪いが、バランスは良く音圧はあり聴き応えは十分だ。がっしりして立体的・構築的な音楽作りはイタリアオケをもってしても不安を感じさせない堅牢たるところをみせながら、VOXにウィーン交響楽団と録音していた頃のような、情緒的なアーティキュレーション、音色変化、終楽章においてはインテンポでありながらポルタメントすら使わせ、ワルターのような感じで3番の緩徐楽章による終焉を盛り上げている。中間楽章の印象が薄いが、ある意味いつものしゃっちょこばったホーレンシュタインのやり方が裏目に出ただけかもしれない。オケがオケなのでミスの多少は目をつぶること。最後の盛大な盛り上がりは確信に満ち、声を上げる者はほぼブラヴォ。ホーレンシュタインとしては上出来。
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☆マーラー:歌曲集「なき子をしのぶ歌」

2017年09月19日 | マーラー
○フォレスター(CA)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1958/12/29・CD

マーラー中期交響曲が好きな向きは、歌とはいえ避けては通りえない名作にもかかわらず、私は内容的に聴く気になることがあまりない。ミュンシュならいいか、と思って聴いてみるのだが、内面にぐいぐい入ってくるような曲内容にうねるようなミュンシュの分厚い表現の起伏もあいまって、ロマンティックに滅びていく後期マーラーのとろけ落ちるような退廃的な雰囲気がけっこう如実に表現されていて、ああ、こんなの聞いてると昼間から「落ちて」しまうなあ、と思う。もちろん曲による。しかしフォレスターは美しい。下品にならずに感傷を煽る慎ましい表現を身に着けている。さすがマーラー歌いだ。だから演奏的には退廃的にならずに済んでいる。根底には肯定的で明るいものがあるミュンシュだからこそ、やはりこれを聴いて交響曲も聴いてみたかった、という気にはならないのだが、単独演奏としてなかなかの名演だと思う。伴奏慣れしている指揮者は何にでもつけられるのだなあ。録音もクリアなステレオ。やや早くさっさと進みすぎる曲もあるし、やはりマーラーというより歌曲伴奏として取り組んでいるミュンシュの職人性が気になったため、○にとどめておく。けっこう伴奏でも難しいというか、交響曲並みに取り組まないとならない場面も多いところが「大地の歌は歌曲集か交響曲か論争」なんかに通じる部分でもあるんだろうな。この曲、初期のありふれた後期ロマン派様式から大地の歌のエキゾチシズムから9番の辞世にいたるまでの要素が「角笛交響曲と5番7番を除いて」ふんだんに盛り込まれているので、やっぱり聞き込みたいところではあるんだけど。

※2007/1/24の記事です
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☆ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲

2017年09月15日 | ショスタコーヴィチ
○リフキン(P)スタイヴサント四重奏団(columbia)SP

これもネット配信されている音源だがノイズが烈しく非常に聴き辛い音。よく調和した演奏ぶりは戦前の室内楽団ではなかなか無いアンサンブルとしての技術の高さを感じさせる。ピアニストは主張せずタッチが柔らかい。引き気味ではあるものの必要なところに必要な音があるといった感じで聴き易い。スタイヴサント弦楽四重奏団については言うまでも無いだろう、ソヴィエトで言えばベートーヴェン四重奏団や昔のボロディン四重奏団のような緊密さと色艶を持ち、しかしもっとケレンが無くニュートラルな美観をはなつ。全般この曲にしては地味めではあるが、この曲だからこそ素直で美しい演奏であったと想像できるもの。録音さえよければねえ。○。

※2009/4/27の記事です
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