湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆マーラー:交響曲第9番(1909-10)

2017年05月23日 | Weblog
※2004年以前の記事です。

◎カラヤン指揮ベルリン・フィル(GNP:CD-R)1982/5/1live

<マーラーについては、不相応なほどに語り尽くされた感がある。志半ばで死んだ作曲家の完成された最後の作品であり、周到な準備や度重なる改訂をへて曲を完成させる事が殆どだったマーラーが、それも叶わず初演もままならず残してしまった作品でもある。ある種の音響の尖鋭性は自身の試演をへて丸められたかもしれないし、1楽章で所々に感じる、当時実演での再現不能ではなかったかと想像されるような複雑さ、他楽章では逆に単純・旋律重視に過ぎたり、8番迄に比べ練り上げが足りなく思われる箇所が点在するのも、そういったことに由来しているように思われる。逆説的な言い方だがマニアの言うような哲学・美学的意味は無かったのかもしれない。だが、音楽というのは、芸術というものは、作家によって表現された途端に、独自の意味を持つ独自の存在となる。無意味であったものが、それを鑑賞する者の存在によって、意味深いものとなるのは良くあることだ。それこそ芸術であり、自ずと論理とは掛け離れた存在なのだ。この曲も、マーラーが死に瀕していようが、激情的で論理性に欠け晩年には思考力が低下していたとしても、細部迄哲学に満ち、高度な思考力を要求する作品となりうるのである。作曲家と直接繋がりの有った演奏者たちの「理解」が、この作品を「完成させた」と言っても良い。それが聴衆によって極限迄高められたのだ。>

DG100周年記念コンサートの放送音源の海賊盤らしいがよくはわからない。権利者のDGが正規発売を許さないようだ。でも、さいしょにいっておくと正規2盤を凌駕する名演。聴けるものなら是非聴いてみて欲しい。カラヤンの盤は昔から賛否が有り、全編豪華耽美な音・解釈すぎるがゆえ悩みの無く格好をつけた演奏、オーケストラの機能を見せ付けるだけの演奏、という偏見としかいいようのない評?が、多くの書籍に堂々と載っている。「殆ど同じ評論文」が著者交代して載り続けるという音楽書籍界も困り者だが、聴衆は馬鹿ではなく、カラヤン・マーラーは人気が無いどころか、依然支持者も多い。美音を楽しんで何が悪い、というわけだ。マーラーの絶筆、壮絶に泣きたい、なのにこの演奏はなんで・・・なんて、文学的背景は音楽観賞の「前提」としては不要、あくまで音楽をもっと楽しむ為の「次の」手段が、作曲もしくは演奏背景の探求じゃないでしょうか。そこまでいかない鑑賞というのもあっていい。かつては名盤として知られていたジュリーニの9番の、一時期の聞かれ方(ジュリーニはマーラーに興味が無いから、とかいう中傷的評論を見たことが有る)にも似て、かつて”マーラー指揮者”だけがマーラーの”深遠な”世界に至れるという偏見が支配していたころ(バーンスタイン信望者だけを指しているわけではありませんので念のため!)の悪しき習慣、やっと抜けてきたイマ、遅き旬ともいえるだろう。比してバーンスタイン・マーラーの異常なほどの人気は平静を取り戻しているようである。私の専門?は全集なぞできる時代より前の演奏記録ゆえ、テンシュテット支持者やクベリーク・ライヴ信望者などの熱い思いが他演を排斥する勢いの中にあっても、全く影響されることなくマイペースで聴けている。79年の定番と82年9月の驚異的なライヴがDG正規盤の全てである。両者似ているといえばかなり似ている。が、特に話題盤であった後者、ライヴではないという噂が立ったほどまったく瑕疵が無く、ディジタル録音の明晰とあいまって「音響」は高度に磨きぬかれており、客席の感嘆の声を聴くまでは「ぶつ切れ融合方式じゃないか?」と勘ぐったりもした。旧盤にバルビローリ解釈の影響をみる人もいるので、そう勘ぐった訳だけれども(マラ9はそうでもないみたいだが、バルビはスタジオでは完全主義者ゆえ、ブツ切り録音も辞さなかったとか)、ここで挙げるライヴは楽章間(2ー3、3ー4)の調弦音がそのまま連続収録されているので絶対違う。

一楽章
ゆったり少し踏みしめるようなリズムにのって幕が開く。豊潤に流れるカラヤン・テヌート。ジュリーニとも違う透明度。・・・嘘・・・すごい。深い。やさしい。心を打つ。弦。流れは至って順調といったふうの常識的なものなのだが、第一の盛り上がりのあとの寂滅。弱音の美の魔術師、面目躍如といったものだが、そんな即物的な言葉では意味違う気も。ドイツ的剛直マーラーでもここには何かやさしさのような憧れのような非道く感傷を刺激するものがある。少し雑音入るが至って名演だ。スピット・ピアノの決まり良さ。いつもながらだが、いつもより感情的。ブラスは全てハッキリした発声による感傷の薄い直截音だが、この演奏では至極耳障りが良い。何か大戦前後のドイツの音を思い出した。ダイナミクスの創意にバーンスタインへの接近が指摘された同時期の恣意性を感じる。このあともかなりの恣意的解釈が混ざるが(デュナーミクや細かいルバートに顕著)決してバンスタイコールではない、対極的なものだから念のため。しかし、明るくやわらかな光に包まれているにも関わらず、どん底の諦念を感じるのは何故だろう?あからさまな感情表現やアッチェルも無いのに、やはりこれは弱音部の表現の深さにあるのか。この一楽章は聴く価値大有り。

二楽章
重いテンポ。これは凡庸。強いて言えばヴァイオリンの発声が少しハスキーだったりする。時折のカラヤン・デュナーミク(s.pp<ff)は堪らない人には堪らない。堪らなくない人の私も感動。表現主義的な突然のコントラスト。しっかし剛い音に思い入れは無いのに、凄く「気」が入っている。プロフェッショナルも昂じるとこの境地なのだろう。途中急速部の迫力!!かなり恣意的な解釈が続きテンポも頻繁に変化。舞曲はウィーン風のズラしが無い普通の表現。

三楽章
激しい中、面白い音のバランス。弦が異様に強く管がすこぶる弱音、マイク位置のせいでもなかろうし、カラヤンの意図だろう。昔の指揮者の音響操作は面白い。カラヤンも新しい人にみえて古い人、拙稿の対象として選んでよかった解釈表現、指揮者だ。緩徐部の表現は他盤と同様、批判者の斜め見やむなしの非感傷常套・・・だが、全く平らな張り詰めた静寂(現代音楽のミニマル的表現との共通性をかんじるのだけれども)を聴き続けるうち、これもまた独特の「個性」だなと納得。コンマスソロのあたりのさみしさは絶品。

四楽章
冒頭よりルバーティッシモな伸縮する音線。限りなき詠嘆の表情と寂滅のひびきが聞き物だが、強奏部も素晴らしい。高弦の歌にあふれる表現の一方で、ベースのアタックがしっかりとした足どりを保ち、遠く果て無き世界へと旅立つ小男の背中を思わせる。でもやっぱり弱奏部のさみしさは異様なほど。バンスタとは対極でも、同じ厳しい時代を生きた証しを見る思いだ。コンマスソロの長いながいテヌート、澄み切った様でも抑えきれぬ想いが運指の間から零れ落ちる。切れ切れの小波が打ち寄せるうちに再び冒頭の回想、低音域の強奏がそのまま、マーラー最後の叫び・・・それはどこかあたたかく、生きていくことの果て無き辛さより、其の間に零れるかけがえの無い輝きを感じる。カラヤンのこの表現は、「教科書的指揮者」のそれでは決して無い。重厚な想いの発露、壮絶無比な強奏。次いでの最弱音の異様美とのコントラスト。そこにまじえるグリッツアンド・・・ふと顕れる幼き想い出の影絵。オーボエとクラリネットの挽歌がしばし虚無をうたう。もう何も無い・・・と思っていたのに、生への執着が再び首をもたげる。激烈な感傷。諦めきれない生への執着。それはやがて暗闇より陽の下へ出るかのような、暖かい冒頭主題への回帰に繋がる。この残り僅かな生命の尊さをうたい、決然とした威厳をもって最後の旅路に就く心根を示しているかのように力強い。惑いを捨て、力強く・・・ そのあとにはもう、本当に静かな、白い世界が残るのみである。中音域のはっきりとしたフレージングが、音楽がダラダラ流れるのを抑えて、高弦の「密やかな絶唱」を見守る。カラヤンの寂滅の表現はマジに上手い。・・・しばし沈黙のパウゼ。そこに闖入する客席のモノオト(咳)が実に残念だが、この永遠に続くとも思われるパウゼのあと、すきとおった夕映えの輝きの中を、やるせなくも仕方の無い、心臓の鼓動の停止していく様を・・・詠嘆のうちに幕を閉じる。 感動的な拍手の渦のなかに無数のブラヴォが混ざる。これはカラヤンの残された記録中もっとも高みに達した演奏である。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ☆ドヴォルザーク:交響曲第8番 | TOP | ☆サティ:交響的ドラマ「ソク... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | Weblog