去年雑誌に発表して、複数の弁護士の方から反響をいただいた論考だが、自分もその片棒を担いでいる制度について批判することになるので、掲載をためらっていた。しかし、そろそろこちらでも発表しようと思う。
裁判員について書いたおととしのエントリーもここにもう一度貼っておく。
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=2c281cde9768e584ea315a5ff12b3efd
一、はじめに
司法制度改革の目玉として、2004年4月にスタートした法科大学院は、この春、2度目の卒業生を送り出したところである。
私は、地方の国立大学の法科大学院で民法、英米法等を教えている者であり、現場の教員として思うところはたくさんあるが、本稿では、ニューヨーク州弁護士資格をもち、10年以上の企業法務経験を有し、日本だけでなく、米国、英国、香港で法学を勉強した経験から、それらと比較して、この新法曹養成制度をどのように評価すべきかについて考えてみることにする。
二、法学教育
まず、法学教育については、甲:学部(Undergraduate level)型と乙:大学院(Graduate School)型に分けることができる。
1.米国
米国は完全な乙型であり、学部レベルには法学部がない。医学も同様である。法学も医学も、4年生大学を卒業し、学士号(Bachelor)を取得した者が、Professional SchoolであるLaw School やMedical Schoolに進学して初めて学ぶことになっている。
加えて、米国の学部教育は、日本の教養学部に近いものである。というのも、取得できる学士号の名称も、文系がBA(Bachelor of Arts)、理系が BS(Bachelor of Science)という大雑把なもので、そもそも、大学には経済学部や理学部等の学部があるが、それは、あくまで教職員の属する組織に過ぎず、学生がどこか特定の学部に所属するということはない。ただ、それぞれの専攻により、卒業するための必要単位が決まっているので、その必要単位を取ればいいことになる。たまに、「double majorで、歴史学と心理学を専攻しました」という人がいるのも、歴史学と心理学それぞれに必要な単位を全部取ったという意味である。日本語で肩書きを表すとき「Harvard大学経済学部卒」等とやむなく表記するが、その人が経済学部に所属していたわけではない。
そして、法曹を目指す学士がロー・スクールに入学するわけだが、一般的には3年間の課程で、卒業するとJD(Juris Doctor)という称号を得ることになる。日本の法務博士はこのJDの直訳と思われるが、そのおかしい点については後述する。
ちなみに、JDの上の課程として、修士課程に当たるLL.M.(Master of Laws)がある。日本人が留学するのはほとんどこのコースであり、1年間の課程である。実は、LL.M.コースを持っているロー・スクール自体がそんなに多くないが、Harvardのように、LL.M.コースが一つしかないロー・スクールと、NYU(New York University)のように、LL.M. in Taxation, LL.M. in Corporate Finance等、特化したLL.M.コースをもっているロー・スクールがある。後者の専門的なLL.M.コースには米国人学生(といっても弁護士が主)が多数いるが、前者の一般的なLL.M.コースの学生はほとんど外国人である。
LL.M.の上には、博士課程にあたるS.J.D.コースがあるが、この課程の学生もほとんど外国人である。
つまり、英国や日本と違って、米国人向け研究者養成コースというものが、法律学についてはないということになる。実際に、ロー・スクールで教鞭をとる教授の90%以上が、JDの学位しかもっていず、LL.M.やS.J.D.をもっているのは、法哲学や外国法の専門家が多い。そのかわり、教授のほとんどが、法曹実務の経験を有するだけでなく、教鞭をとりながら弁護士として活動している例も珍しくなかった。私がHarvard Law Schoolに留学していた頃は、ある有名教授が弁護士として扱った事件を元に書いた小説がハリウッドで映画化され、休講にすると「ハリウッドに行っているのでは」とjokeをいわれていたし、私が会社法を教わった教授は、国際仲裁人として度々海外出張しておられた。
2.英国
これに対して、英国は、甲型であり、学部レベルに法学部がある。法学専攻の学生は法学部に所属することになる。米国と反対に、早くから専門教育が進んでおり、高校卒業資格を得るための試験をAレベルというが、このAレベルの段階で既に、受験する大学に要求される課目しか受験しないし、高校でもその課目中心にしか勉強しない。そして、その試験の成績によってどの大学に進学できるかが決まるのである。日本の大学の一般教養が高校から始まっているのに近い。そのため、法学部ははじめから法学教育しか行わず、3年間の課程である。
その上にある修士課程、博士課程は、もちろん、英国人が多数を占める研究者養成機関であり、法学部の教授の多くは、修士以上の学位を持った人がほとんどである。
3.日本
日本は、米国のロースクールをモデルにした法科大学院制度を作りながら、法学部を残したので、甲型と乙型の折衷形態といえるであろう。
三、法曹資格取得制度
法曹資格取得制度には、大きく分けて、A:一発試験型(原則的に一定の試験に合格すればよい)、B:修了型(一定の法学教育課程を修了すればよい)、C:混合型(AとBを組み合わせたもの)の3種類がある。
1.日本の旧制度
日本の旧司法試験制度は、Aタイプである。
択一試験は実は二次試験であり、大学で一定の単位をとると、一次試験が免除されるというだけである。一次試験から受けるなら、大学を卒業する必要すらない。(ドラマ『Hero』の木村拓哉演じた高校中退の検事は、一次試験から受験したという設定だろうと推測する)
2.英国
英国では、法学士を取得した者が出願してLPC(law Professional Course)という法律専門学校(全英で数校しかない。ちなみに、法学部のある大学が運営するアカデミックな機関でなく、まさに専門学校という位置づけである)に入学(合否は主に法学士取得時の成績で判断される)し、1年間の課程(夜間だと2年間)を無事修了すると自動的に見習弁護士になり、(ここでは、法廷弁護士であるバリスタでなく、事務弁護士であるソリシタを取り上げる)2年間いずれかの法律事務所で見習をすれば弁護士資格が取得できるので、典型的なBタイプといえるであろう。
ちなみに、法学部出身でない者にも道は開かれており、法学士号(LL.B.)は夜間コースや遠隔地教育でも取得できる。遠隔地教育とは、香港やシンガポールで行われているもので、ロンドン大学等の教授が替わりばんこに集中講義に来てくれ、夜間に開講されているので、働きながら、何年かかかって必要な単位(英国の資格のためには憲法、刑法、契約法、不法行為法、信託法、EU法、香港の資格の場合、EU法の替わりに会社法)をそろえてLL.B.を取得し、その成績がよければLPC(香港ではCPLLという)コースに進学できる。さらに、CPE(Common Professional Course)という、LL.B.よりも簡単な課程の修了によっても成績次第ではLPCに進学できる。
私の香港大学大学院時代の同級生の弁護士テレサは、元会計士で、働きながらCPEをとって弁護士になった。また、友人の香港人の高校の生物教師のケンは、CPEを終了して働きながらCPLLに通っている。
3.米国
そして、米国の制度は、4年制大学を卒業した者が、専門職大学院であるロー・スクールの3年間の課程(J.D.コース)を卒業すると各州の司法試験の受験資格ができ、さらにその司法試験に合格しなければならないので、Cタイプといえる。
4.日本の新制度
日本の新法曹養成制度は、この米国型に倣ったCタイプに分類できる。
しかし、私は、この制度が、日本の特殊性を軽視して米国の制度を直輸入したための弊害の目立つ制度に思えてならないので、以下にそれを検証する。
第一に、司法試験の合格率の違いである。
ある課程の修了と試験の合格を両方要件として課すならば、試験の合格率が高くないと、どうしても受験に合格することが第一目的になり、せっかく作った課程自体に学生の身が入らない。その点、米国の場合、ニューヨーク州の2005年2月の試験を例に取ると、合格率は48%(うち初回受験者の合格率は63%)と、高いので、学生はロー・スクールに在学中は受験を気にしないで安心して、実務を意識した専門的な勉強に打ち込むことができる。実際、ロー・スクールの勉強と受験勉強は全く異質のものであるが、後者は、卒業後2ヶ月ほど予備校で集中的に勉強すれば合格はさして困難ではない。
つまり、ロースクールの勉強が、後述するように、規範を発見する過程を身につけるものであるのに対して、受験勉強は、大量の規範の丸暗記である。それに第一、米国の司法試験は州ごとに実施されるから、学生は自分がpracticeするつもりの州の試験をうけるのだが、ロースクールでは特定の州の法律を勉強することはまずない。
日本の場合、来年度以降の合格率は2-3割といわれており、そのため、学生が受験のことしか考えられないという弊害を生み出しており、その要望に応えるためには、教員は、受験対策を意識した授業を行うことになるが、それは、受験教育を厳禁した文部科学省の法科大学院教育の理念に反する、というジレンマに陥る。実際、筆者を含め、多くの法科大学院教員が、「学部で教える方がずっとアカデミックな内容ができてやりがいがある」ともらしている。
予備校教育の弊害を除去するために作った制度なのに、実は、膨大な人的・物的資源を投入した法科大学院自体が予備校化せざるをえないという構造的な矛盾を内包するのである。
第二に、司法研修所の有無である。米国には司法研修所にあたるものがないので、きわめて実務的なロー・クリニックや、ドキュメンテーション技術の授業、模擬裁判などが、ロー・スクールで取り入れられている。
古い資料で恐縮だが、私が在学していた当時の1991年度のHarvard Law Schoolのカタログを見ると、2,3年生の受講する選択科目が極めて多種多様である。
行政法関係が24科目、ビジネス・ファイナンス関係が23科目、商法関係が7科目、比較法関係が25科目、国際法関係が31科目、憲法関係が31科目、刑法関係が10科目、家族法関係が9科目、連邦法関係が10科目、法哲学関係が18科目、法と文学、エイズと法等の隣接展開科目は22、法史学関係が9科目、法実践科目がクリニカルコースを入れて50あまり、専門家教育関係は12科目、地方自治体関係は10科目、財産権関係は、7科目、税法関係は18科目である。クリニカルコースだけでも、30余りあり、細分化されている。たとえば、私も選択していた隣接展開科目のDisability and Lawは、同じタイトル同じ教員のクリニカルコースが併設されており、講義で学んだことを、障害者の施設に行って即実践することができるようになっているのである。
日本では、司法研修所を残してしまったので、法科大学院での教育は中途半端なものにならざるを得ない。また、70%が法曹になれないのに、法曹になってからしか役立たないことを受験勉強より熱心にやるインセンティブを学生に求めるのは無理がある。
第三に、学部レベルの法学教育の有無である。米国には学部レベルに法学教育がないので、ロー・スクールの卒業生しか法的知識はないことになるので、法曹になる以外にも、ロー・スクールの卒業生の活躍する場はいろいろあるが、日本では、法学部を残してしまった。法科大学院卒業後5年以内に3回しか受験できない日本の新制度において、米国ほど労働市場の流動性が高くないこととあいまって、いわゆる「三振」した者の身の振り方が問題視されている。企業法務という声もあるが、企業法務を10年以上経験した筆者は、企業で法務部員としてほしい人材は、法科大学院を卒業して三振した者でなく、法学部の新卒者であると断言できる。私がときどき講師を務める企業法務家向けのセミナーで出席者の何名かに意見を聞いても同様の答えであった。企業法務において必要な法的知識はその企業ごとに違うので法学の基礎さえ身に着けておれば、あとはOJTの方が重要である。また、日本企業には儒教的ともいえる年齢と上下関係の逆転への違和感や、すべてを入社年次で区別する等の年功序列制度が色濃く残っているので、歳だけはくっている「三振」者の処遇には正直困るであろう。
そうすると、法科大学院の学生は、大学卒業後も尚、膨大な時間と資金を投資して法科大学院に行っても、70%の者が、その投資額に見合った職業に就けないということになり、きわめて危険な人生の賭けを強いることになる。さらに、それが可能な恵まれた者しか法曹になれないという危険性も生ずる。
この点も、米国では、学生向けの低金利の教育ローンが普及しているから、日本とは大きく異なる。米国ではロースクールに入学すればほとんど法曹にはなれるので、銀行も安心して貸してくれるし、名門大学ほど金利が低いという話も聞く。
そのようなファイナンス制度の整備されていない日本では、法科大学院在学中とその後の受験期間計5-6年を勉強だけに充てられるというのは、一部の恵まれた人たちだけではないだろうか。その後必ず法曹になれるとは限らないというopportunity costを含む様々なリスクを受け容れられるとなれば尚更である。そのように恵まれた立場の者しか法曹にならないというのも、社会の底辺にいる当事者を扱うこともあり、その人生を左右する仕事に就くについて適当かどうか疑問である。(たとえば、私の家庭の事情では、法科大学院への進学は不可能だった。)
第四に、法体系の違いがある。米国のロー・スクールで取られている教育方法であるソクラテス・メソッドを文部科学省は日本の法科大学院にも導入するよう奨励しているが、ソクラテス・メソッドは、英米法には適した学習方法であっても、日本法の属する大陸法には必ずしも最適な方法ではない。というのも、英米法は、複数の類似のケースについての判例を検討することによって、そこに定立されている規範を「発見」するものであり、実際、ロー・スクールの1年生の必修科目(契約法、不法行為法、財産法、憲法、刑法、証拠法について、特定の州法でなく、全米に共通する判例法を学ぶ。この6科目はそのまま、ほとんどの州の司法試験で課される全米共通試験科目である。ちなみに、ニューヨーク州の司法試験は、その他に、ニューヨーク州法約20科目の試験を課される)では、教員と学生、あるいは学生同士の対話を通して、この規範を「発見」する訓練を徹底的にやらされる。だから、英語で判旨のことを、Findingといったりする。そのことによって、学生たちは、「法律的なものの考え方=think like a lawyerあるいはリーガル・マインド」を体で覚えるのである。
しかし、大陸法は、基本的に条文中心であり、判例はその文言の解釈を補うものである。規範は初めからそこに書いてあり、あとはそれをどう解釈するかだけの問題であるので、必ずしも対話が効率的な方法ではない。それどころか、記憶すべき規範の量の多い大陸法では、却って非効率な方法かもしれないのである。
第五に、瑣末なことになるが、法科大学院を卒業すると授与される「法務博士」という学位についても問題がある。これは、おそらく、米国のロー・スクールのJD(Juris Doctor)の直訳であろうが、このDoctorは、そもそも「博士」という意味ではない。米国のこの3年間の課程を卒業しても、それは法律に関する最初の学位なので、かつてはLLB(法学士)しか授与されなかった。現在のロー・スクールの教授も、ある年齢以上の人のタイトルがJDでなくLLBになっているのはそのためである。しかし、米国では何かというと比べられ、お互いに仮想敵扱いしている医師の免許取得も、学部レベルに医学部がないので、専門職大学院であるMedical Schoolの卒業が要件となるが、彼らが、その課程を修了すると、MD(Medical Doctor)という称号が与えられるのに、自分たちがBachelor(学士)では不公平だ、と弁護士団体が苦情をいったため、途中からMedicalのMを法律を意味するJurisのJに変えただけのJDという称号が用いられるようになったという経緯があり、まさに、「政治的美称」に過ぎない。
第六に、新法曹養成制度導入の正当化事由として、よくとりあげられる、日本の法曹人口の少なさについても疑問がある。
2003年の統計によると、法曹一人当たりに対する人口は、米国が277人、英国が574人、ドイツが631人なのに対して、日本は5510人にも上る。
しかし、ここで無視してはならないのは、米国にはない法曹以外のさまざまな法律専門職が日本にはあるということだ。米国には、日本で言う、弁理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、税理士にあたる資格がないので、弁護士がそれらの仕事をしている。それらの日本での人数は、それぞれ4064人(2005年)、17306人(2005年)、38871人(2006年)、30450人(2006年)、66674人(2003年)であり、それらを加えると、日本の法曹人口一人あたりに対する人口は720人になり、決して少なすぎるとはいえない。
そして、安易に法曹人口を増加させることは、日本の「法の支配」を覆すことにもつながりかねないという危惧を私は抱いている。
法曹人口が少ないからこそ、法律家は”Nobles Oblige”を意識して、儲けを度外視した仕事も引き受ける。刑事裁判の9割が、国選弁護人によって弁護されているが、弁護料は経費込みで一件10万円にも満たないから、まじめにやればやるほど赤字になるのだが、殆どの弁護士は手抜きをせずに弁護人の務めを果たしている(米国ではそれが期待できないので、Public Defender Officeという、公選弁護専門の弁護士を雇用する州政府および連邦政府の機関がある)。さらに、多くの地方自治体では、法律知識のある職員の不足を、地元の弁護士が各種審議会や委員会の委員になることで、ボランティア的にカバーしていることを、私は地方で暮らして初めて認識した。いわば、この”Nobles Oblige”意識が、日本の「法の支配」を下支えしているという一面を否定できないのである。
また、数が増えて、競争が厳しくなり、法曹が必ずしも高収入・高ステイタスを保証された職業でないようになれば、時間と資金を大量に投資する法科大学院に優秀な人材が集まらなくなり、結果、法曹の質が大幅に低下するという問題も出てこよう。
以上のように、米国の制度を形だけ導入した新法曹制度には見直すべき点が多々あることを、現場の教員として日々この矛盾に耐えながら教育に当たっている者として、提言させていただくものである。
裁判員について書いたおととしのエントリーもここにもう一度貼っておく。
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=2c281cde9768e584ea315a5ff12b3efd
一、はじめに
司法制度改革の目玉として、2004年4月にスタートした法科大学院は、この春、2度目の卒業生を送り出したところである。
私は、地方の国立大学の法科大学院で民法、英米法等を教えている者であり、現場の教員として思うところはたくさんあるが、本稿では、ニューヨーク州弁護士資格をもち、10年以上の企業法務経験を有し、日本だけでなく、米国、英国、香港で法学を勉強した経験から、それらと比較して、この新法曹養成制度をどのように評価すべきかについて考えてみることにする。
二、法学教育
まず、法学教育については、甲:学部(Undergraduate level)型と乙:大学院(Graduate School)型に分けることができる。
1.米国
米国は完全な乙型であり、学部レベルには法学部がない。医学も同様である。法学も医学も、4年生大学を卒業し、学士号(Bachelor)を取得した者が、Professional SchoolであるLaw School やMedical Schoolに進学して初めて学ぶことになっている。
加えて、米国の学部教育は、日本の教養学部に近いものである。というのも、取得できる学士号の名称も、文系がBA(Bachelor of Arts)、理系が BS(Bachelor of Science)という大雑把なもので、そもそも、大学には経済学部や理学部等の学部があるが、それは、あくまで教職員の属する組織に過ぎず、学生がどこか特定の学部に所属するということはない。ただ、それぞれの専攻により、卒業するための必要単位が決まっているので、その必要単位を取ればいいことになる。たまに、「double majorで、歴史学と心理学を専攻しました」という人がいるのも、歴史学と心理学それぞれに必要な単位を全部取ったという意味である。日本語で肩書きを表すとき「Harvard大学経済学部卒」等とやむなく表記するが、その人が経済学部に所属していたわけではない。
そして、法曹を目指す学士がロー・スクールに入学するわけだが、一般的には3年間の課程で、卒業するとJD(Juris Doctor)という称号を得ることになる。日本の法務博士はこのJDの直訳と思われるが、そのおかしい点については後述する。
ちなみに、JDの上の課程として、修士課程に当たるLL.M.(Master of Laws)がある。日本人が留学するのはほとんどこのコースであり、1年間の課程である。実は、LL.M.コースを持っているロー・スクール自体がそんなに多くないが、Harvardのように、LL.M.コースが一つしかないロー・スクールと、NYU(New York University)のように、LL.M. in Taxation, LL.M. in Corporate Finance等、特化したLL.M.コースをもっているロー・スクールがある。後者の専門的なLL.M.コースには米国人学生(といっても弁護士が主)が多数いるが、前者の一般的なLL.M.コースの学生はほとんど外国人である。
LL.M.の上には、博士課程にあたるS.J.D.コースがあるが、この課程の学生もほとんど外国人である。
つまり、英国や日本と違って、米国人向け研究者養成コースというものが、法律学についてはないということになる。実際に、ロー・スクールで教鞭をとる教授の90%以上が、JDの学位しかもっていず、LL.M.やS.J.D.をもっているのは、法哲学や外国法の専門家が多い。そのかわり、教授のほとんどが、法曹実務の経験を有するだけでなく、教鞭をとりながら弁護士として活動している例も珍しくなかった。私がHarvard Law Schoolに留学していた頃は、ある有名教授が弁護士として扱った事件を元に書いた小説がハリウッドで映画化され、休講にすると「ハリウッドに行っているのでは」とjokeをいわれていたし、私が会社法を教わった教授は、国際仲裁人として度々海外出張しておられた。
2.英国
これに対して、英国は、甲型であり、学部レベルに法学部がある。法学専攻の学生は法学部に所属することになる。米国と反対に、早くから専門教育が進んでおり、高校卒業資格を得るための試験をAレベルというが、このAレベルの段階で既に、受験する大学に要求される課目しか受験しないし、高校でもその課目中心にしか勉強しない。そして、その試験の成績によってどの大学に進学できるかが決まるのである。日本の大学の一般教養が高校から始まっているのに近い。そのため、法学部ははじめから法学教育しか行わず、3年間の課程である。
その上にある修士課程、博士課程は、もちろん、英国人が多数を占める研究者養成機関であり、法学部の教授の多くは、修士以上の学位を持った人がほとんどである。
3.日本
日本は、米国のロースクールをモデルにした法科大学院制度を作りながら、法学部を残したので、甲型と乙型の折衷形態といえるであろう。
三、法曹資格取得制度
法曹資格取得制度には、大きく分けて、A:一発試験型(原則的に一定の試験に合格すればよい)、B:修了型(一定の法学教育課程を修了すればよい)、C:混合型(AとBを組み合わせたもの)の3種類がある。
1.日本の旧制度
日本の旧司法試験制度は、Aタイプである。
択一試験は実は二次試験であり、大学で一定の単位をとると、一次試験が免除されるというだけである。一次試験から受けるなら、大学を卒業する必要すらない。(ドラマ『Hero』の木村拓哉演じた高校中退の検事は、一次試験から受験したという設定だろうと推測する)
2.英国
英国では、法学士を取得した者が出願してLPC(law Professional Course)という法律専門学校(全英で数校しかない。ちなみに、法学部のある大学が運営するアカデミックな機関でなく、まさに専門学校という位置づけである)に入学(合否は主に法学士取得時の成績で判断される)し、1年間の課程(夜間だと2年間)を無事修了すると自動的に見習弁護士になり、(ここでは、法廷弁護士であるバリスタでなく、事務弁護士であるソリシタを取り上げる)2年間いずれかの法律事務所で見習をすれば弁護士資格が取得できるので、典型的なBタイプといえるであろう。
ちなみに、法学部出身でない者にも道は開かれており、法学士号(LL.B.)は夜間コースや遠隔地教育でも取得できる。遠隔地教育とは、香港やシンガポールで行われているもので、ロンドン大学等の教授が替わりばんこに集中講義に来てくれ、夜間に開講されているので、働きながら、何年かかかって必要な単位(英国の資格のためには憲法、刑法、契約法、不法行為法、信託法、EU法、香港の資格の場合、EU法の替わりに会社法)をそろえてLL.B.を取得し、その成績がよければLPC(香港ではCPLLという)コースに進学できる。さらに、CPE(Common Professional Course)という、LL.B.よりも簡単な課程の修了によっても成績次第ではLPCに進学できる。
私の香港大学大学院時代の同級生の弁護士テレサは、元会計士で、働きながらCPEをとって弁護士になった。また、友人の香港人の高校の生物教師のケンは、CPEを終了して働きながらCPLLに通っている。
3.米国
そして、米国の制度は、4年制大学を卒業した者が、専門職大学院であるロー・スクールの3年間の課程(J.D.コース)を卒業すると各州の司法試験の受験資格ができ、さらにその司法試験に合格しなければならないので、Cタイプといえる。
4.日本の新制度
日本の新法曹養成制度は、この米国型に倣ったCタイプに分類できる。
しかし、私は、この制度が、日本の特殊性を軽視して米国の制度を直輸入したための弊害の目立つ制度に思えてならないので、以下にそれを検証する。
第一に、司法試験の合格率の違いである。
ある課程の修了と試験の合格を両方要件として課すならば、試験の合格率が高くないと、どうしても受験に合格することが第一目的になり、せっかく作った課程自体に学生の身が入らない。その点、米国の場合、ニューヨーク州の2005年2月の試験を例に取ると、合格率は48%(うち初回受験者の合格率は63%)と、高いので、学生はロー・スクールに在学中は受験を気にしないで安心して、実務を意識した専門的な勉強に打ち込むことができる。実際、ロー・スクールの勉強と受験勉強は全く異質のものであるが、後者は、卒業後2ヶ月ほど予備校で集中的に勉強すれば合格はさして困難ではない。
つまり、ロースクールの勉強が、後述するように、規範を発見する過程を身につけるものであるのに対して、受験勉強は、大量の規範の丸暗記である。それに第一、米国の司法試験は州ごとに実施されるから、学生は自分がpracticeするつもりの州の試験をうけるのだが、ロースクールでは特定の州の法律を勉強することはまずない。
日本の場合、来年度以降の合格率は2-3割といわれており、そのため、学生が受験のことしか考えられないという弊害を生み出しており、その要望に応えるためには、教員は、受験対策を意識した授業を行うことになるが、それは、受験教育を厳禁した文部科学省の法科大学院教育の理念に反する、というジレンマに陥る。実際、筆者を含め、多くの法科大学院教員が、「学部で教える方がずっとアカデミックな内容ができてやりがいがある」ともらしている。
予備校教育の弊害を除去するために作った制度なのに、実は、膨大な人的・物的資源を投入した法科大学院自体が予備校化せざるをえないという構造的な矛盾を内包するのである。
第二に、司法研修所の有無である。米国には司法研修所にあたるものがないので、きわめて実務的なロー・クリニックや、ドキュメンテーション技術の授業、模擬裁判などが、ロー・スクールで取り入れられている。
古い資料で恐縮だが、私が在学していた当時の1991年度のHarvard Law Schoolのカタログを見ると、2,3年生の受講する選択科目が極めて多種多様である。
行政法関係が24科目、ビジネス・ファイナンス関係が23科目、商法関係が7科目、比較法関係が25科目、国際法関係が31科目、憲法関係が31科目、刑法関係が10科目、家族法関係が9科目、連邦法関係が10科目、法哲学関係が18科目、法と文学、エイズと法等の隣接展開科目は22、法史学関係が9科目、法実践科目がクリニカルコースを入れて50あまり、専門家教育関係は12科目、地方自治体関係は10科目、財産権関係は、7科目、税法関係は18科目である。クリニカルコースだけでも、30余りあり、細分化されている。たとえば、私も選択していた隣接展開科目のDisability and Lawは、同じタイトル同じ教員のクリニカルコースが併設されており、講義で学んだことを、障害者の施設に行って即実践することができるようになっているのである。
日本では、司法研修所を残してしまったので、法科大学院での教育は中途半端なものにならざるを得ない。また、70%が法曹になれないのに、法曹になってからしか役立たないことを受験勉強より熱心にやるインセンティブを学生に求めるのは無理がある。
第三に、学部レベルの法学教育の有無である。米国には学部レベルに法学教育がないので、ロー・スクールの卒業生しか法的知識はないことになるので、法曹になる以外にも、ロー・スクールの卒業生の活躍する場はいろいろあるが、日本では、法学部を残してしまった。法科大学院卒業後5年以内に3回しか受験できない日本の新制度において、米国ほど労働市場の流動性が高くないこととあいまって、いわゆる「三振」した者の身の振り方が問題視されている。企業法務という声もあるが、企業法務を10年以上経験した筆者は、企業で法務部員としてほしい人材は、法科大学院を卒業して三振した者でなく、法学部の新卒者であると断言できる。私がときどき講師を務める企業法務家向けのセミナーで出席者の何名かに意見を聞いても同様の答えであった。企業法務において必要な法的知識はその企業ごとに違うので法学の基礎さえ身に着けておれば、あとはOJTの方が重要である。また、日本企業には儒教的ともいえる年齢と上下関係の逆転への違和感や、すべてを入社年次で区別する等の年功序列制度が色濃く残っているので、歳だけはくっている「三振」者の処遇には正直困るであろう。
そうすると、法科大学院の学生は、大学卒業後も尚、膨大な時間と資金を投資して法科大学院に行っても、70%の者が、その投資額に見合った職業に就けないということになり、きわめて危険な人生の賭けを強いることになる。さらに、それが可能な恵まれた者しか法曹になれないという危険性も生ずる。
この点も、米国では、学生向けの低金利の教育ローンが普及しているから、日本とは大きく異なる。米国ではロースクールに入学すればほとんど法曹にはなれるので、銀行も安心して貸してくれるし、名門大学ほど金利が低いという話も聞く。
そのようなファイナンス制度の整備されていない日本では、法科大学院在学中とその後の受験期間計5-6年を勉強だけに充てられるというのは、一部の恵まれた人たちだけではないだろうか。その後必ず法曹になれるとは限らないというopportunity costを含む様々なリスクを受け容れられるとなれば尚更である。そのように恵まれた立場の者しか法曹にならないというのも、社会の底辺にいる当事者を扱うこともあり、その人生を左右する仕事に就くについて適当かどうか疑問である。(たとえば、私の家庭の事情では、法科大学院への進学は不可能だった。)
第四に、法体系の違いがある。米国のロー・スクールで取られている教育方法であるソクラテス・メソッドを文部科学省は日本の法科大学院にも導入するよう奨励しているが、ソクラテス・メソッドは、英米法には適した学習方法であっても、日本法の属する大陸法には必ずしも最適な方法ではない。というのも、英米法は、複数の類似のケースについての判例を検討することによって、そこに定立されている規範を「発見」するものであり、実際、ロー・スクールの1年生の必修科目(契約法、不法行為法、財産法、憲法、刑法、証拠法について、特定の州法でなく、全米に共通する判例法を学ぶ。この6科目はそのまま、ほとんどの州の司法試験で課される全米共通試験科目である。ちなみに、ニューヨーク州の司法試験は、その他に、ニューヨーク州法約20科目の試験を課される)では、教員と学生、あるいは学生同士の対話を通して、この規範を「発見」する訓練を徹底的にやらされる。だから、英語で判旨のことを、Findingといったりする。そのことによって、学生たちは、「法律的なものの考え方=think like a lawyerあるいはリーガル・マインド」を体で覚えるのである。
しかし、大陸法は、基本的に条文中心であり、判例はその文言の解釈を補うものである。規範は初めからそこに書いてあり、あとはそれをどう解釈するかだけの問題であるので、必ずしも対話が効率的な方法ではない。それどころか、記憶すべき規範の量の多い大陸法では、却って非効率な方法かもしれないのである。
第五に、瑣末なことになるが、法科大学院を卒業すると授与される「法務博士」という学位についても問題がある。これは、おそらく、米国のロー・スクールのJD(Juris Doctor)の直訳であろうが、このDoctorは、そもそも「博士」という意味ではない。米国のこの3年間の課程を卒業しても、それは法律に関する最初の学位なので、かつてはLLB(法学士)しか授与されなかった。現在のロー・スクールの教授も、ある年齢以上の人のタイトルがJDでなくLLBになっているのはそのためである。しかし、米国では何かというと比べられ、お互いに仮想敵扱いしている医師の免許取得も、学部レベルに医学部がないので、専門職大学院であるMedical Schoolの卒業が要件となるが、彼らが、その課程を修了すると、MD(Medical Doctor)という称号が与えられるのに、自分たちがBachelor(学士)では不公平だ、と弁護士団体が苦情をいったため、途中からMedicalのMを法律を意味するJurisのJに変えただけのJDという称号が用いられるようになったという経緯があり、まさに、「政治的美称」に過ぎない。
第六に、新法曹養成制度導入の正当化事由として、よくとりあげられる、日本の法曹人口の少なさについても疑問がある。
2003年の統計によると、法曹一人当たりに対する人口は、米国が277人、英国が574人、ドイツが631人なのに対して、日本は5510人にも上る。
しかし、ここで無視してはならないのは、米国にはない法曹以外のさまざまな法律専門職が日本にはあるということだ。米国には、日本で言う、弁理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、税理士にあたる資格がないので、弁護士がそれらの仕事をしている。それらの日本での人数は、それぞれ4064人(2005年)、17306人(2005年)、38871人(2006年)、30450人(2006年)、66674人(2003年)であり、それらを加えると、日本の法曹人口一人あたりに対する人口は720人になり、決して少なすぎるとはいえない。
そして、安易に法曹人口を増加させることは、日本の「法の支配」を覆すことにもつながりかねないという危惧を私は抱いている。
法曹人口が少ないからこそ、法律家は”Nobles Oblige”を意識して、儲けを度外視した仕事も引き受ける。刑事裁判の9割が、国選弁護人によって弁護されているが、弁護料は経費込みで一件10万円にも満たないから、まじめにやればやるほど赤字になるのだが、殆どの弁護士は手抜きをせずに弁護人の務めを果たしている(米国ではそれが期待できないので、Public Defender Officeという、公選弁護専門の弁護士を雇用する州政府および連邦政府の機関がある)。さらに、多くの地方自治体では、法律知識のある職員の不足を、地元の弁護士が各種審議会や委員会の委員になることで、ボランティア的にカバーしていることを、私は地方で暮らして初めて認識した。いわば、この”Nobles Oblige”意識が、日本の「法の支配」を下支えしているという一面を否定できないのである。
また、数が増えて、競争が厳しくなり、法曹が必ずしも高収入・高ステイタスを保証された職業でないようになれば、時間と資金を大量に投資する法科大学院に優秀な人材が集まらなくなり、結果、法曹の質が大幅に低下するという問題も出てこよう。
以上のように、米国の制度を形だけ導入した新法曹制度には見直すべき点が多々あることを、現場の教員として日々この矛盾に耐えながら教育に当たっている者として、提言させていただくものである。