ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

国家の品格

2017-07-18 18:40:30 | 徒然の記

 藤原正彦氏著「国家の品格」(平成17年刊 新潮新書)を、読みました。

 久しぶりに面白くて、楽しめる本に出会いました。氏は昭和18年に満州で生まれ、東大理学部数学科卒を卒業後、御茶ノ水女子大学の教授となっています。略歴には、新田次郎、藤原てい氏の次男だと書いてあります。新田次郎氏の著作は読んだ記憶がありませんが、名前は知っています。不勉強な私は、藤原てい氏に関して何も知りません。

 藤原正彦氏につきましても、今回初めて著作を読みました。親近感を覚えましたのは、氏が私と同年代で、しかも満州生まれだというところです。親近感を覚えないのは、私の大嫌いな数学を、こともあろうに大学まで専門にして学び、数学者だというところです。無味乾燥、杓子定規、砂漠を思わせるような数字の大洪水と、私には、反日左翼と数字は、文句無しの偏見の対象です。

 それなのに氏の著作は、共感するところがあちこちにあり、何度か手を打って同意しました。反対に、「そこまで言うのは、言い過ぎでしょう。」と、打ち消したくなる意見もありました。これ以上抽象的な話をするのは止めにし、具体的な氏の意見を紹介しましょう。「はじめに」の部分から、引用します。

 「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、」「すっかり足腰の弱っていた日本人は、」「世界に誇るべき我が国古来の、" 情緒と形 " をあっさり忘れ、 」「市場経済に代表される、欧米の " 論理と合理"  に、」「身を売ってしまったのです。」「日本は、こうして国柄を失いました。」「国家の品格を、なくしてしまったのです。」

" 情緒と形 " については、少し説明が必要ですが、それ以外は概ね私の思いと一致しています。無味乾燥なはずの数学者が、これほど熱い心で日本を語ると、想像もしていませんでした。

 「現在進行中のグローバル化とは、世界を均質にするものです。」「日本人は、この世界の趨勢に、」「敢然と戦いを挑むべきです。」「普通の国となってはいけないのです。」「欧米支配下の野卑な世界にあって、」「孤高の国でなければなりません。」「日本の孤高を取り戻し、世界に範を垂れることこそが、」「日本の果たしうる、」「人類への世界貢献と、思うのです。」

 グローバル化を推し進めたのは、あの小泉首相と竹中平蔵氏のコンビでした。アメリカの言うなりに、グローバル化を実行し、金融改革という名の日本破壊を進めました。祖国への愛を持つ野党があれば、ここで政府に反対をしたはずなのに、不幸にも、あの時も今も、敗戦後の日本の野党には、反日左翼しか存在しません。

 氏の意見の前半には強く賛同しましたが、後半になりますと、疑問符が生じました。「日本の孤高を取り戻し、世界に範を垂れることこそが、」「人類への世界貢献だ。」と、迷わず言い切る勇気と言うか、そこまでの大胆さが私にはありません。「ひいきの引き倒し」でなかろうかと、むしろ、私の中でブレーキをかけるものが生まれました。でも次になりますと、又うなづかされてしまう不思議さです。

「論理を徹底すれば、問題が解決されるという考え方は、」「間違いです。」「論理を徹底したことが、今日の様々な破綻を生んでしまったと、」「言えるのです。」「なぜなら、論理それ自体に内在する問題があり、」「これは永久に乗り越えられないからです。」

 具体例として、氏は資本主義の論理を追求した果てが、物質主義、金銭至上主義となり、資本主義自身が潰れかねない状況になっていると説明します。自由経済の果てにあるのは、弱肉強食の世界であり、強いものだけが生き延びる社会だと言います。私なら、もう一つ社会主義の理論を追求した果てのソ連の破綻と、中国の無残な独裁政府を加えます。マルクス主義者たちは、「人間平等の理念」を徹底して追いかけ、徹底するために反対者を皆殺しにし、国民を弾圧し、人間平等はどこへ行ったのかと、ついにはそんな国を作ってしまいました。

 さらに私は、次の氏の意見にも大賛成です。当たり前の話ですが、論理には、出発点というものがあります。氏は、論理というものを単純化して教えてくれます。

「まずAがあって、AならばB、」「BならばC、」「CならばD・・・・・」「という形で、最終的にZという結論にたどり着く。」「出発点がAで、結論がZ。」「そしてこの場合、Aならばという」「時の " ならば " が論理です。 」

「出発点のAからBに向かって、Zに至るまで、」「論理の矢印が出ていますが、」「Aに向かう矢印は、一つもありません。」「出発点だから、当たり前です。」

この辺りは、いかにも数学者らしい整然とした説明ですから、数字嫌いの私にだって容易に理解できます。しかし驚かされたのは、次に来た意見です。これはもう、敬服するしかない、卓見と私には思えました。

「すなわちこのAは、論理的帰結でなく、常に仮説なのです。」「この仮説を選ぶのは、論理でなく、」「主にそれを選ぶ人の、情緒なのです。」「宗教的情緒を含めた、広い意味の情緒です。」「情緒とは、論理以前の、その人の総合力と言えます。」

「その人がどういう親に育てられたか、」「どのような師や友人に出会ってきたか、」「どのような小説や詩歌を詠み、涙を流してきたか、」「こういう諸々のこと、全てが合わさって、」「その人の情緒力を形成し、」「論理の出発点を選ばせているのです。」

「出発点を決める上で、」「宗教や慣習からくる形や、伝統も無視できません。」「例えば武士道精神には、」「卑怯を憎む心とか、名誉や誠や正義を重んじる心だとか、」「精神の形がいろいろあります。」「キリスト教やイスラム教にも、それぞれに固有の形がある。」

「そうした文化に由来する形から、」「論理の出発点が決められる場合もある。」「いずれにせよ、論理の出発点を選ぶのは、」「論理でなく、情緒や形なのです。」

 ここで私はやっと、氏が言わんとした" 情緒と形 "の意味を理解いたしました。産業革命以降、目覚ましい文明の発展を遂げた欧米が、近代的合理精神や論理を過信した間違いを、氏が次々と指摘します。欧米諸国が、論理の出発点とした、「自由」と「平等」と「民主主義」について、疑問を呈し、その虚構を明らかにします。

  自由も平等も民主主義も、論理の赴くままにしていたら、内在する矛盾のため破綻してしまうという意見です。人々は自由を高く評価しますが、本来の自由とは、「人が自己生存のため、なんでもする自由」を指します。これをそのまま認めたら、万人の万人に対する闘争が始まり、無秩序と野蛮と混沌の世界となります。それを防止しているのが、国家であり、法の統治ですから、自由とは虚構の上にあるのだと氏が語ります。

 平等という理念の破綻につきましては、社会主義国家や資本主義国家の行き着く先ということで、述べましたので省略しますが、民主主義の虚構に関する氏の意見を引用します。

「民主主義の根幹は、もちろん国民主権です。」「主権在民です。」「最初に民主主義を実践したのはアメリカで、建国の時からそうです。」「主権在民には、国民が成熟した判断ができる、」「という大前提があります。」

「しかし国民とは、成熟した判断ができるものでしょうか。」「第一次大戦時に、サラエボ事件が起きた時点で、」「ヨーロッパの主要国には、領土問題もイデオロギー問題もなかった。」「君主や首脳で、大戦争をしようと思っていた者は、」「一人もいなかった。」「ところが国民が大騒ぎした結果、」「外交で収まりがつかなくなり、民主主義国家であるが故に、」「戦争が始まり、その結果850 万人が犠牲となったのです。」

「現在のアメリカや日本は、いずれも主権在民の民主国家です。」「国民が政治を決定する。」「それは無条件に良いことなのでしょうか。」「主権在民とは、世論が全てということです。」「国民の判断材料は、ほぼマスコミだけですから、」「事実上、世論とはマスコミです。」「言い方を変えると、日本やアメリカにおいては、」「マスコミが第一権力となっているということです。」

「ロックやモンテスキューが言い始めた、三権分立は、」「近代民主制の基本となっていますが、」「この三権すら、」「今では第一権力となったマスコミの下位にある。」「民主国家でこれだけマスコミが発達すれば、」「行政がポピュリズムに流れるのは、ほぼ当然でしょう。」

 ここまで読み、私は世の数学者に対する偏見を捨てました。無機質な数字を相手にしているから、感情の無い人間と見ていたのは大間違いでした。氏の著作を手にし、心を躍らせたことはもっと別にありますため、これで書評を終わりとする訳にいかなくなりました。不本意ながら、本日はここで一区切りとし、続きを明日といたします。

 とうとう今日も天気予報が外れ、雨の降らない一日でした。そろそろ水やりをしないと、ねこ庭の花木が私を待っているはずです。報道がないので分からないのですが、水不足だから節水しましょうと、その内マスコミが騒ぎ出すのかもしれません。まあ、その時はその時と、覚悟します。ブログで偉そうに言っていても、私の生き方は結構いい加減で、行き当たりバッタリです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 反日朝日の凋落 | トップ | 国籍法と蓮舫氏 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

徒然の記」カテゴリの最新記事