ねこ庭の独り言

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大東亜戦争肯定論 - 3 (左翼学者の使命)

2016-11-05 23:08:24 | 徒然の記

 「苦悩は、学者と志士だけのものではなかった。」「当時、名君賢公とうたわれた藩主たちもまた、それぞれ共通の根から発した、国内改革案と東亜経略論を持っていた。」「中でも、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬などの意見が注目に値する。」

 林氏はこう述べて、島津斉彬について語る。

 「斉彬にとって重大な事件は、インドの崩壊と、シナにおけるアヘン戦争と、長髪賊の乱であった。」「アヘン戦争は、斉彬の壮年時代に起こり、長髪賊の乱は、彼が藩主に就く直前に起こった。」

 「長髪賊の乱は、清朝打倒を目標としていたが、その極端な排外主義が、シナ分割の機会を狙っていた、西洋列強に干渉の口実を与え、」「英仏連合軍の北京侵入となり、皇帝の逃亡となり、内乱の拡大となり、英人ゴルドン将軍の力を借りて、清朝はようやく乱を平定することができた。」

 「斉彬は、東亜最大の強国であった清帝国の解体を予感し、やがてそれが、日本の運命になりかねないことを憂慮した。」「彼が越前藩主松平慶永に与え、西郷隆盛に教えたという、意見書の写しが残っている。」

 ここで氏の著作から、斉彬の意見書をそのまま紹介する。彼も松陰に負けない、雄大な秘策を、胸中に秘めていたことを教えられた。

 「まず日本の諸侯を三手に分け、近畿と中国の大名はシナ本土に向かい、九州の諸藩は安南、カルパ、ジャワ、インドに進出、」「東北奥羽の諸藩は裏手より回って山丹、満州を攻略する。」「わが薩摩藩は、台湾島とその対岸広東・福建を占領し、南シナ海を閉鎖して、英仏の東漸をくい止める。」

 「出兵するとしても、これは清国の滅亡を望むのではない。」「一日も早く、清国の政治を改革し、軍備を整えせしめ日本と連合する時は、英仏といえども恐るるに足りない。」「然るに清国は、版図の雄大なるを誇り、驕慢にして日本を見ること属国のごとく、連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。」「ゆえに我より出撃して、清国を攻撃しこれと結んで、欧米諸国の東洋侵略を防ぐをもって、上策となす。」

  斉彬公の意見書を読むと、私は、現在に至る日中対立の萌芽を見る。日本にとって中国は、西欧列強と対峙するための大事な連合国なのに、中国は、決して日本の意見に与しない。

 中華思想の本家である中国は、他国を全て夷狄とみなし、自国の後進性を認めない。西欧列強ですら、中国には蛮国であるから、まして小さな日本は、彼らから見れば格下の属国の認識しかない。

 日本防衛のために、中国との連携が必要であり、そうしなくては共に列強の餌食となるというのに、尊大な中国が相手にしない。残された道は、武力でねじ伏せ、日本との連合を認めさせるしかない。・・それが斉彬公の結論だった。

 つまりこの思想が、日本の指導者たちの根底を流れる危機意識であり、大東亜戦争まで引き継がれたものだと、林氏が言う。

 日本は侵略のため中国へ進出したのでなく、防衛のため、満州を占領したのだから、敗戦後にマルキストたちが言う、日本帝国主義の侵略戦争であるはずがないと、氏は主張する。

 ましてアジアを侵略した列強の仲間である、アメリカやイギリスなどが、日本を侵略国家などというのは、片腹痛い話だと言っている。

 国際社会は軍事力がモノを言う世界だから、賢明なご先祖たちは、東亜の防衛と発展を理想としつつも、武力の行使も覚悟していた。だから私は、林氏の次のような批判を、全面的に受け入れ、喝采する。

 「左翼学者たちが書いた維新史を、読んでいると、私は歴史の壁画館の中で、赤いクレヨンを振り回している、悪童の群れを思い出す。」「悪童どもは、維新の人物と事件をできるだけ醜悪に描き出すことが、真実の探求と、心得ているように見える。」

 「日本に革命を起こすためには、日本の歴史をできるだけ野蛮に、できるだけ醜怪に、不正と愚行と暴行に満ちた、無価値無意義なものとして描き出す必要がある。」「彼らは、共産革命という政治目的のため、日本の歴史に泥を塗ることが、学問の使命だと思い込んでいるのだ。」

  この本は、昭和38年に書かれている。53年が経った今日、左翼学者たちによる 「日本史の泥塗り作業 」 は、改まるどころかもっと盛んになっている。彼らは、教育界とマスコミ、法曹界に根を張り、野党としても我が物顔の活動をしている。

 私に言わせれば、彼らは皆日本に巣食う、獅子身中の虫であり、駆除すべき害虫だ。氏の著作を読み、ますますその感を強くした。今夜も夜が更けてきたから、私の思いを述べるのは次回に譲り、最後に氏の言葉を引用し、お終いとしよう。

 「英国は薩長の内部に、仏国は幕府の内部に食い込んでおり、どちらの誘いに乗っても日本は植民地化される。」「西郷も勝もそれを見抜き、徳川慶喜も山内容堂も見抜いていた。彼らはそれぞれの立場から、英仏の謀略に抵抗したのだ。」「岩倉具視と坂本龍馬が、勝海舟と西郷隆盛が、謀略家であったというのは、少しも彼らの不名誉にはならない。」

 「英仏の謀略に抵抗するためには、時に彼ら自らが、謀略家にならざるを得なかった。」「明治維新は、英仏の謀略と圧力によって成立したのではない。この謀略と圧力に、必死に抵抗したところに成立した。」

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