ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

蝉しぐれ

2017-02-06 23:44:31 | 徒然の記

 藤沢周平氏著「蝉しぐれ」(平成25年刊 文芸春秋社)を読了。一気に読み終えました。

 先日読んだ「三屋清左衛門残日録」は、隠居した武士の話でしたが、今回は少年から青年、そして壮年となる武士の物語です。ここでも底流に流れているのは、二派が対立する藩内の争いです。一方の派に組した主人公牧文四郎の父は、破れて死罪となります。お家断絶は免れるものの、残された文四郎は、家禄の四分の三を減じられ、一軒家から長屋へと移されます。

 母と子の二人暮らしになった彼には、幼馴染の小和田逸平と島崎与之介がいますが、藩の処罰を受けた彼と、表立っての付き合いができなくなります。だから彼は、死罪に処せられた父の遺骸を、一人で荷車を曳き受け取りに行きます。こもをかぶせた遺体を車に乗せ、人々の冷たい視線を受けながら、帰路につきます。

 途中の坂道で難渋している彼を、黙って手伝ってくれたのがふくでした。隣家にいたふくは幼な馴染みで、口には出さないけれど彼を慕っていました。親類縁者も訪れなくなったのに、ふくは逸平や与之介と共に、通夜にも葬儀にも顔を出し、文四郎の父の死を悼んでくれました。

 彼は己を慎み、剣の道に励み、武士の務めに精進し、上士たちに一目置かれる存在となります。やがて、敵方だった家老たちの謀略が暴かれ、追放になったり家禄を召し上げられたりし、彼は父の汚名を濯ぎます。やがて郡奉行となった彼は、代官屋敷に住まう身となります。しかし物語は目出度い結末だけで終わらず、ふくと彼の恋は成就しません。

 御殿奉公にあがったふくに、藩主の手がつき、子を宿すこととなったため、二人の境遇がかけ離れたものとなってしまいます。同じ武士といっても、当時は禄高によって、上士と下士との身分差がありました。同じ年の子供同士でも、下士の子は上士の子に出会えば、道を譲らねばならず、挨拶も忘れてはならなかったのです。

 士農工商という身分差だけでなく、同じ士の中にも厳しい区分があったのだと、氏の小説が教えてくれました。優秀な子供でも、下士の子は一生下士で、愚かな子供でも、上士の子は死ぬまで上士です。上士は奉行となり目付けとなり、用人となり、家老となり藩政を取り仕切っていきます。

 「封建制度は親の仇でござる。」と、福沢諭吉が言いましたが、彼は中津藩の下級武士の子でした。父の堪忍を知っていればこその言葉だと、理解しています。諭吉だけでなく、維新の志士たちの多くは下級武士でした。徳川幕府を倒し、封建制度を打ち壊した彼らのエネルギーは、下級武士ならではのものだったような気がします。

 氏の作品は様々な人に読まれ、色々な受け止め方がされています。ですから私も、自分なりの読み方を致しました。以前から言っていることですが、私は自分にできない事をする人間に出会うと、尊敬せずにおれなくなります。

「足るを知ること。」「礼を失わないこと。」「節度を守ること。」「誠を大切にすること。」どれも当たり前の言葉で、いつの時代であれ大切な教えですが、なかなか実行出来ません。ですから私は、こうした生き方を実践する主人公や、彼の周辺にいる武士たちに敬意を表しました。自由や平等が声高く叫ばれる、敗戦後の日本で暮らす自分には、なおさらのことです。

 自由にしろ、平等にしろ、節度を無くして横行させれば、無秩序の社会に到達します。現在の日本と、アメリカと中国を見ていると、よく分かります。自由の行く着く果ては、「弱肉強食の不平等社会」です。ここまで貧富の格差が広がりますと、不平不満の社会となります。

 平等の行き着く果ては、現在の中国でしょう。資本家を倒し、働く者の平等な社会を目標に掲げながら、「プロレタリアート独裁」の到達点は、国民弾圧の独裁国家でした。支配者たちは手に入れた権力を手放そうとせず、生死をかけた権力闘争でしか交代できません。節度のない理論を推し進める国は、理屈では右と左に分かれていますが、目の前にあるのは、似たり寄ったりの不平等社会です。

 だから私は、節度を知り、礼節をわきまえた人物を描く、氏の作品にえも言われぬ爽やかさを覚えました。知足安分の大切さを理解しない人間は、体制に安住する無知な者と軽蔑しますが、資本主義と共産主義の到達点のおぞましさを目にしている現在では、別の視点がいるのではないでしょうか。

 氏の作品の中に描かれた日本人を、もう一度見直す必要があります。どんな場所に生きても、人は桎梏から逃れることはできません。「知足安分」というのは、諦めでなく、素晴らしい「覚悟」なのです。限度のない欲を野放しにすれば、やがて醜いエゴの横行する社会となり、強い者だけが勝つ世界になります。

 氏の作品が教えてくれた、もう一つの大切なことは、「一旦緩急あれば、死を恐れない。」という日本人の魂です。たった一回、戦いに敗れたからといって、自国の歴史を否定し、ご先祖様を足蹴にするような日本人と成り果てた私たちは、静かに、氏の作品を読み返したいものです。失ってしまった大切なものを、思い出すに違いありません。

 威勢の良い愛国心や、敵に対する激情は語られませんが、無駄のない抑制された叙述が、私を不思議な世界に遊ばせてくれました。山や川や森の描写や、季節の移ろいを語る切ない響きなど、氏ならではの文章が、読書の喜びを味わわせてくれました。

 だからやはり、最後はこの一言です。「本を送ってくれた友よ、ありがとう。」

 

コメント (6)
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