ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

新祖国論 - その2

2015-08-14 20:32:32 | 徒然の記

 さて、二日目の「新祖国論」だ。堤氏は、私が反論できない観点から、その主張を展開する。

 「21世紀に入った時点で、日本人には、果たして他の国の人たちと比べられるような、」「想像力があるのだろうか、ということが気になっている。」「外交政策の不在、相手の国の人たちの気持ちなど、考えようともしない、」「相手から見れば、傲慢としか見えない態度。」「そして資金を提供すれば、何にでも口を出すことができるという金権主義からは、」「どうしても、そうした危惧の念が生まれてしまう。」

 おそらく氏は、閣僚や政府の役人たちのことを言っているのだと、思うが、じかに接する機会のある氏に言われると、新聞やテレビでしか情報を得られない私は、そんなものかと聞くしかない。

 アメリカだけでなく、中国や韓国、北朝鮮にまで足元を見られ、日本がなぶりものにされている報道にばかり接しているので、外交政策不在と言われると、即座にそうかと納得してしまう。ただ閣僚や役人が、金権主義で傲慢になっているのかどうか、マスコミが報道しないので、知る術ががない。

 「たとえば、国連安保理の常任理事国に、立候補するについても、」「独自の外交政策や、広島・長崎の被爆体験と平和憲法を掲げて、」「日本でなければ為し得ない、国際貢献ができると、主張することを、」「少なくともこの国の政治家は、考えているようにはみえない。」

 「最近のアメリカは、もっぱら軍事力に価値を置いているように見え、それが我が国の場合には、金権主義に形を変えているようだ。」

 氏が語っているのは、主として、小泉氏首相とブッシュ大統領時代のことだ。当時を良く知らないので、口を挟めないが、外交政策に平和憲法を掲げることについては、異論がある。

 侵略国家なので、未来に渡って反省しますと、広く謝罪の憲法を掲げたから、世界第二の経済力を持つことになって以来、いろいろな方面へ資金提供をし、あるいはさせられ、「金持ちの豚」と蔑まれるようになったとも聞いている。

 日本国憲法こそが、戦後日本の足かせとなり、独立国家への道を阻むものと理解している、私の目には、氏もやはり、反日・売国の徒の仲間でしかなかったと映る。その主張も、傲慢な左翼の意見と重なってくる。

 「なぜ自分で考え、自分のための判断基準を持つ大衆が、」「わが国では、生まれないのか。」「主体性を持った大衆が、生まれなければ、民主主義は常に、独裁に取って代わられる弱さの隣にいると、言っていいだろう。」

 「今の日本は、かってあった社会的規範や、ルールが消え、」「お上、政治のリーダー、英雄を待望する意識構造だけが残った国に、なってしまった。」

 本の中で氏は 、" 大衆とか民衆 " という言葉を、不用意に何度も使っている。この言葉は、共産主義者たちが、無知蒙昧な一般国民を指すときに使った用語だ。私は、この左翼・外来語が、以前から気に入らない。日本で、一般国民を語るときには、昔から、庶民とか、民草とか、貧乏人どもとか、そんな言葉がある。詩人なのに、このような時の氏は、頑なな共産主義者に先祖返りする。

 氏が求める主体的な大衆とは、どのような人間を指すのであろう。聖徳太子の昔から、日本人は、「和をもって貴しとなす」という生き方を、大切にしてきたのであり、自己主張をする人間を、それほど立派と思わない風土の中で育った。

 もの言わぬ庶民だからといって、主体性が無いのでなく、賢くても爪を隠す、謙譲の民だったと、博学の氏なのに、明治以前の日本人の文化や風土には、関心がなかったのだろうか。次のように皮相的な意見を言われると、日本の過去の文化を軽視する、「進歩的知識人」の愚かさを感じる。

 「かって、教育の基本を定めていたのは、教育勅語であり、」「そこでは、個人は本質的に否定され、全国民が、天皇陛下の赤子という扱いになっていた。」「この勅語は、軍人に賜りたる勅語の、上官の命令は朕の命令と心得よ、」「と連動し、赤子である兵は、どんな命令にも、意見をいうことができず、死んでいったのであった。」

 「一方、赤子と、親である天皇陛下との関係は、民法の家族制度、」「そのなかでの、家父長の絶対的な権限と、見事に対応していた。」「つまり、かっての、全国民を軍国主義の跳梁に任せてしまった憲法と、法体系は、首尾一貫していたのである。」

 戦前の日本を何もかも否定する、共産党員の目から見れば、こういう解釈と意見も、十分に成り立つ。一方で新渡戸稲造氏のように、「武士道は、日本の象徴である桜花とおなじように、日本の国土に咲く固有の華である。」という考えに立って過去を振り返れば、また違った日本がある。

 勉強途上の私には、戦前の日本を捉えるにつき、確たる知識を未だ得ていないが、共産主義者の歴史観で、わが国を決めつける愚はしたくないと考えている。

 明日も続ける元気が無いので、氏のブログは、今日で終わりとする。終わるにあたり、別の視点から、氏の矛盾点と思われるところを、付録として述べてみたい。

 堤氏は、異母弟である義明氏と共に、知る人ぞ知る、日本の巨大企業グループの総帥だった。先日取り上げた松下幸之助氏も、松下グループの総帥で、関連会社が465社という巨大企業で、グループの総収入が年間約7兆円だった。

 堤義明氏が率いる西武鉄道グループは、150社を傘下に持ち、グループの総収入が年間約5兆円だった。この本の著者である清二氏が支配していた、セゾングループは、西友、パルコ、ファミリーマートなど200社を従え、総売上は年間約4兆円の巨大グループだった。

 氏はグループのトップとして、27年間君臨し、高度成長期の波に乗り、積極果敢な経営を進め、ホテル、生命保険、金融、証券業へと触手を広げ、カリスマ的経営者の一人だった。

 今はどうなっているのか知らないが、当時氏のグループ会社に、朝日航洋という会社があった。小型機やヘリコプターを企業にリースする会社だったが、墜落事故を何度か起こし、新聞で報じられたことがあった。

 トップからの、過大なノルマによる、無理な勤務形態が事故原因だったと、報道されていた。詩人でも、経営者の立場に立てば、非情な人間になるのかと、感心した記憶がある。個人の育成や人間尊重を語る氏も、実生活では違っていたと、そう言いたいのだ。

 松下幸之助氏は、新聞や雑誌で、いかに自分たちが、税金を国に取られているかにつき、よくこぼしていた。会社のあげた利益から税金が取られ、その会社の社長である自分から、更にたくさん取られる。手元に少ししか残らないが、これも企業の社会的責任というもので、国のために税金が使われて、社会が向上する。と、関西人らしく、あっけらかんとして述べていた氏を、覚えている。

 翻って、堤氏兄弟は、松下氏には及ばないとしても、大企業グループのトップだったのに、彼らの会社は税金をまったく払っていない

 どうして大蔵官僚の目をごまかせたのか、彼らは毎年の決算を赤字にし、利益を出さないという決算方法を取っていた。会社に勤務していた頃、私は偶然このことに気づき、こんなあくどいことをする企業があるのかと、びっくりした。反社会的企業ではないのかと軽蔑し、怒りも覚えた。

 だから私は断言できる。松下氏は下手な著作を書き、堤氏は巧みな本を世に出したが、人間として立派なのは、言うまでもなく松下氏だ。どんな優れた本を書いても、実生活で、行為が伴わなければ何の意味があろう。言行不一致の人間は、堤氏だけでなく、世間に溢れている。

 ここまで言う必要は、なかったのかもしれないが、反日の人々の美言に騙される人間の多さに呆れ、つい正直を述べてしまった。


 ネットの情報で、堤氏が2年前に、86才で亡くなられたことを昨夜知った。故人への悪口は、気持ちの良いものではない。だから私は、「言行不一致の人間」の筆頭に、自分自身を入れておりますと、正直に白状し氏への謝罪とさせてもらいたい。

 ご冥福をお祈りいたします。

コメント (10)
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