そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

船村徹が亡くなった

2017-02-17 | 文化
船村徹が亡くなった。父親は馬などの家畜を診療する獣医だった。戦前だから獣医手と呼ばれていた時代である。船村徹が健康を害していることは、昨年文化勲章受章の時にその表情などから見て取れた。昨年栃木で大学の同窓会があり、船村徹記念館を訪ねた。演歌の大家となってからのキンキラキンの出し物が目に付いたが、それは私好みではなく、船村氏の大物の演歌を主体に見せびらかす記念館で少々失望した。
船村徹の神髄は1970年代までにある。それ以後演歌と呼ばれる前の、流行歌の作曲家として感性を磨いていた時代のものが、素晴らしい。それまでの流行歌の流れを曲の美しさによって詩を引き立たせていた。
それまでの作曲家が、古賀政男や吉田正や遠藤実などは音楽の基礎がなく、独学であったのに対して船村は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒という学歴が際立つ。
若いころは生意気そのものでポット出の田舎の男であった。そうしたところが、彼に斬新な曲を書かせたのであろうか。流行歌が演歌と呼ばれるようになったのは、1960年代後半からである。そうした演歌はヨナ抜けとよばれ、ファ(F,4)とシ(D,7)が抜けている。歌い易いが、単調極まりない。おまけに詞がほとんど似たものばかりになっている。日本の心と呼ぶには、演歌は相応しくない。
後に大家になってからの船村は、演歌を強調してはいたが、彼の曲はヨナ抜けがあまりないのも特徴である。船村がそれまでの大御所の作曲家と異なるのは、協定の縛りが強かったレコード会社にこだわらなかったことにある。キングレコード時代「別れの一本杉」(春日八郎)「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(橋美智也)その後コロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(青木光一)はいずれも曲の流れが美しい、「王将」(村田英雄)、リサイタルでは最も客が静かに聞き入る「東京だよおっかさん」(島倉千代子)は、島倉のなき節を引き出している。異色なのは「宗谷岬」(ダ・カーポ)であるが、地元ではいつも流れている。
大衆曲の作曲家で文化勲章を受章したのは、船村徹が最初である。受賞のコメントで、「先輩たちを代表して受け取ったと考えています。もうすぐそちらに行くけどそう報告します」と、息を切らしながら述べていた。船村の数多くの曲に敬意を表し、ご冥福を祈りたい。
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