ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

パース行:生き残りを賭けて

2021年10月25日 | オーストラリア:パース

キャプテン・スターリングが
1827年に到達し、「見たこと
もない美しさ」と評して情熱
とロマンを掻き立てられた
ルフォード
は新しい植民地の
内陸の河港として期待され、
さらに内陸のヨークまで道路
建設が進められることに・・



しかし、それ以外はスワンリ
バーの水上交通に頼る陸の孤
島で、ギルフォードは植民地
総督となったスターリングの
思惑とは裏腹に、厳しい茨の
道を歩むことになりました。

(※入植者の自給自足生活が
しのばれる当時の生活用具)


入植はしたものの、植民地建
設に必要な資金も労働力もな
かったギルフォードは、土地
を得た地主といえども生き残
りを賭けて必死でした。カン
ガルーを撃って食用にし、領
土とそこからの食糧を奪われ
たアボリジナルから家畜を守
るため紛争が頻発しました。


土地を追われ、水や食べ物を
得る場所がなくなったアボリ
ジナルも、生き残りを賭けて
必死でした。「私有地」に入
って、そこにいる「家畜」を
狩ればそれは「略奪」となり
処刑という厳罰が待っている
という悲劇はオーストラリア
全土で繰り広げられました。



1829年の植民地化から5年後
の1834年にはアボリジナルと
の内戦状態に陥り、多大な犠
牲を出しました。1837年には
小麦の自給に成功したものの
余剰分を現金化する市場がな
く、食料不足が続きました。


1839年にスターリングの後任
にハット総督が着任し、入植
者とアボリジナルの子どもの
学校建設、蒸気製粉機導入、
白檀輸出などに力を入れたも
のの景気低迷が続きました。


川沿いの細長い耕作地は牧場
に適さず、ギルフォードを後
にする入植者が続き、労働力
としての流刑囚受け入れへの
要望が高まっていきました。


スワンリバー植民地の労働力
不足は、フリーマントルでも
見たように、局地的な問題で
はなく、植民地化開始から20
年の紆余曲折を経て西オース
トラリアはとうとう1849年に
流刑植民地化を決定
、翌年よ
り受け入れを開始しました。


囚人受け入れとなると必要と
なるのが、受け入れ施設で、
またまた刑務所

旅行中にこんなに刑務所見学
をするのは初めてでした


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