ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:最も著名な流刑囚

2024年05月17日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡
の小高い丘の外れに、ぽつん
と立つ黄色の瀟洒なコテージ

スミス・オブライエン・コテージ


収容されていたのはウィリア
ム・スミス・オブライエン。
(1803-1864)



立派な肖像画が残っているこ
とからも一般庶民ではないこ
とが察せられます。イギリス
の国会議員にしてアイルラン
ドの自治を訴える青年アイル
ランド運動の指導者でした。


アイルランドは1800年にイギ
リスに併合されたものの、庶
民の生活は苦しく、運動は併
合の撤廃を求めていました。


おりしもアイルランドは1845
~51年まで続いた、英語で単
に大飢饉(Great Famine)と
呼ばれる歴史的なじゃがいも
飢饉に見舞われていました。


じゃがいもの疫病のため主食
が深刻な凶作となり、食糧不
足によりアイルランド人の死
者が100万~150万人に上っ
たと推定される歴史的大惨事


にもかかわらず、併合により
アイルランドは食料輸出を迫
られ自治権奪回を求める声が
急速に高まっていきました。


スミス・オブライエンは1848
年にアイルランド各地で農民
蜂起を先導するものの失敗に
帰し、死刑判決を受けます。

(※死刑判決後に護送されるス
ミス・オブライエン。ウィキ
ペディア
より。この物々しさ
に事の重大さがうかがえます)


その後、恩赦を求める署名が
8万筆に達し、当時ヴァンデ
ィーメンズランドと呼ばれた
タスマニアへの流刑に減刑さ
れました。1850年8月ポート
アーサーに「入獄」し最も著
名な「囚人」になりました。


しかし、その年の11月に、ス
ミス・オブライエンは仮出獄
許可への条件を受け入れ、5
年間タスマニアに滞在した後
イギリスに入国しないという
条件の下ベルギーに転居し、
1856年には特赦により帰国を
果たしました。帰国後は政治
活動にはかかわらず1864年に
訪問先のウェールズで病死。


スミス・オブライエンは複合
姓で、オブライエンはSirの称
号や城を持っていたアイルラ
ンドの有力貴族だった父方の
姓で、イギリスっぽいスミス
姓は母の旧姓。母の遺産とし
て広大な土地を相続したとき
に、両親の姓をつなげてダブ
ルネームになったそうです。


代々国会議員を務めるような
有力者の家に生まれながら、
農民のために立ち上がったも
のの夢は潰えて、流刑の地に


「明るくて風通しが良く、高
台にあって健康的だ」と本人
が評した自身の名を冠した古
のコテージ。住人がいなくな
った後は執務室や軍の病院に
なり、1877年に刑務所が閉鎖
されて払い下げられました。


第2次大戦後は政府が買い上
げて1970年までユースホステ
ルになっていたそうで84年よ
り原状復帰が図られました。


陽当たりのよい丘の上にぽつ
んと佇む姿がなんとも印象的

ポートアーサーは当時の社会
を反映していた場所だったの
だと改めて感じる逸話です。



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