佐賀県鳥栖市田代本町柿添1259、標高約38mの段丘上にあります。
赤坂古墳の西方向約100mの所です。
全長83m、 後円部径45m・高さ7.5m、 前方部先端幅60m・高さ6.5m 二段構築の前方後円墳です。
墳丘の周りには幅約5mの盾形をした周溝があります。
造り出しはありません。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や馬形埴輪・盾形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1981年(昭和56年)に調査が行われています。
埋葬施設は南方向に開口した横穴式石室です。
石室に通じる羨道から、挂甲(鎧の一種)の破片や須恵器が出土しています。
古墳時代後期・6世紀前半ころの築造と推定されています。
丁度、福岡県八女市一帯に本拠地を置いていた筑紫国造・磐井の乱(527年)が起こった頃で、この古墳に眠る人物もこの乱にかかわった人物ではないかと考えられています。
昭和50年2月24日、佐賀県の史跡に指定されています。
鳥栖地域には現在3基の前方後円墳が残っていて、その中では一番古い古墳です。
(後円部から前方部をみています)
(前方部から後円部をみています)
赤坂古墳の西方向約100mの所です。
全長83m、 後円部径45m・高さ7.5m、 前方部先端幅60m・高さ6.5m 二段構築の前方後円墳です。
墳丘の周りには幅約5mの盾形をした周溝があります。
造り出しはありません。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や馬形埴輪・盾形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1981年(昭和56年)に調査が行われています。
埋葬施設は南方向に開口した横穴式石室です。
石室に通じる羨道から、挂甲(鎧の一種)の破片や須恵器が出土しています。
古墳時代後期・6世紀前半ころの築造と推定されています。
丁度、福岡県八女市一帯に本拠地を置いていた筑紫国造・磐井の乱(527年)が起こった頃で、この古墳に眠る人物もこの乱にかかわった人物ではないかと考えられています。
昭和50年2月24日、佐賀県の史跡に指定されています。
鳥栖地域には現在3基の前方後円墳が残っていて、その中では一番古い古墳です。
(後円部から前方部をみています)
(前方部から後円部をみています)