日本の真実

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日本の記念すべき日 其の七 3月26日 硫黄島陥落

2007-03-26 00:22:13 | Weblog
◎日本軍 20,129名、米軍 6,821名 が戦死。太平洋戦争最大の激戦が終結
 (昭和20年:1945年)

1941年12月に開戦した太平洋戦争で序盤は戦局を有利に進めた我が国でしたが、翌1942年6月のミッドウェー海戦での敗北を機に戦局が一変し、物量に勝る米軍の攻勢に防戦一方の戦いを余儀なくされました。
1944年2月にマーシャル諸島を占領した米軍は、6月のマリアナ沖海戦で日本軍に大勝。我が国が「絶対国防圏」としていたマリアナ諸島を占領し、そこからB-29による日本本土爆撃を開始しました。
マリアナ諸島の陥落により、硫黄島は本土防衛の要衝として、その重要度が一気に高まりました。硫黄島を拠点にマリアナ諸島を攻撃してB-29の本土爆撃を阻止したい我が国と、硫黄島からなら航続距離の短い米軍戦闘機でもB-29の本土までの護衛が可能なことから、硫黄島を占領したい米軍との間で、現地での衝突が必至の情勢でした。
そのような状況下の1944年5月、栗林忠道陸軍中将は小笠原地区を拠点とする第109師団長に着任、6月に硫黄島入りしました。
それまでの日本軍は島での戦いに「水際殲滅戦法」を用いていましたが、グアムやサイパンなどでは上陸前の艦砲射撃によって大きな損害を出し、全て敗北に終わったことから、栗林は「水際殲滅戦法」が米軍には通用しないと判断。島の地下に洞窟を掘り、そこに立て籠もって持久戦を行う作戦を進めました。洞窟陣地の設営は米軍の上陸直前までの数ヶ月間続けられましたが、硫黄島地下の暑さと硫黄ガスの影響で作業は捗らず、計画では全長28キロのところ18キロまでしか完成しませんでした。
一方、米軍は10月、米太平洋艦隊司令長官 チェスター・ニミッツ海軍大将がホーランド・M・スミス海兵隊中将に硫黄島攻略を発令し、翌1945年2月15日に硫黄島に向け、マリアナ諸島を出発しました。16日の記者会見でスミス中将はこう言っています。「攻略予定は5日間、死傷は1万5千を覚悟している。」
2月16日、米軍は硫黄島への空爆と艦砲射撃を開始。
19日朝9時、米軍は島への上陸作戦を開始。これに対する日本軍からの反撃は無く、米軍は続々と上陸を続けました。しかし10時過ぎ、突如日本軍は波打ち際の米軍に猛烈な射撃を開始。栗林は弾薬を効果的に使用する為、米軍本隊の上陸を待っていたのでした。これにより米軍は五百名以上の死者を出す大損害を蒙りました。
それでも物量で圧倒する米軍の上陸は阻止出来ませんでしたが、日本軍はその後も洞窟を利用した組織的な抵抗を行い、米軍が「5日間で陥落する」と豪語していた硫黄島では3月に入っても戦闘が続けられました。
3月15日、米軍は硫黄島の完全占領を発表。
16日、栗林は大本営へ向け訣別電報を送りました。
その中に、有名になった次の句が記されていました。
 
 「国のため重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

21日、大本営は硫黄島玉砕を発表。
26日、栗林中将以下数百名の日本軍は米軍に最後の総攻撃を敢行、栗林以下大勢が戦死し、硫黄島の戦いは終結しました。

米軍上陸から戦闘終結まで36日間、米軍の戦死者6,821名、負傷者21,865名。スミス中将が予言した「攻略予定は5日間、死傷は1万5千」を大幅に上回る大損害を米軍に与えた戦いでした。
本土からの支援を全く受けられず、撤退も許されず、行く先には死しか無い状況の中でこれだけの戦いを続けた日本軍は正に見事としか言いようが無く、只々敬服するのみです。

それから40年後の1985年2月19日、日米双方の退役軍人らが参加して、戦没者合同慰霊祭が硫黄島で行われました。かつて敵として戦った国同士が、戦闘の慰霊祭を合同で執り行なったのは世界中で硫黄島以外に例がありません。
参加した両軍の元兵士たちはお互いに歩み寄り、握手を交わし、抱き合って涙を流したそうです。

昨年末、日米で封切られたクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」により、国内外で硫黄島の戦いと栗林中将が再評価されたことをとても喜ばしく思います。

最後に、ニミッツ海軍大将が残した言葉を紹介します。
「硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。」

(信)