日本の真実

日本人自身が知らない「世界に誇るべき日本の真実の姿」を様々な面から紹介するブログです。

ミス・ユニバース世界大会 森理世さんが優勝 48年振りの快挙!!

2007-05-30 00:08:07 | Weblog
28日、第56回ミス・ユニバース世界大会の最終選考会がメキシコシティで開かれ、日本代表の森理世さん(20)が優勝しました。ミス・ユニバース世界大会で日本人が優勝したのは、1959年の児島明子さん以来、48年振り2人目の快挙です。
77ヶ国代表の中から選ばれた森さんには、前年の優勝者、プエルトリコ代表のスレイカ・リベラさんからダイヤモンドと真珠で飾られた25万ドル相当の王冠が贈られました。
森さんは静岡県出身。4歳からダンスを始め、バレエを学ぶために高校からカナダへ留学。カナダのバレエスクールでダンスを勉強し、2006年には米ニューヨークでもレッスンを受けていたそうです。現在は母親が経営する静岡市内のダンススタジオで、ジャズダンスのインストラクターを務めており、将来の夢は国際ダンス学校を開くことだそうです。
昨年の大会でも知花くららさんが準ミス・ユニバースに選ばれており、2年連続の快挙となりました。素晴らしいです!!

http://www.sankei.co.jp/kokusai/world/070529/wld070529002.htm
http://www.asahi.com/culture/enews/RTR200705290048.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070529STXKC021129052007.html

(信)


リニアモーターカー 2025年の営業運転開始を目指す

2007-05-29 05:48:38 | Weblog
先月26日、JR東海は首都圏と中京圏を結ぶリニアモーターカーの営業運転を2025年に開始するとの計画を発表しました。最終的に東京―大阪間をリニアモーターカーで結ぶ「中央リニア新幹線」構想のうち、まずは東京―名古屋間を先行して開業するとのことです。
リニアモーターカーは現在、山梨県内で実験が進められておりますが、長さ18.4キロのこの実験線を、今年度から3500億円を掛けて42.8キロまで延ばす計画を昨年発表しています。それを更に延伸して東京-名古屋間の中央リニア新幹線開業につなげたいという考えです。
リニアモーターカーは1999年に有人走行で時速552キロを記録して、当時の鉄道の世界記録を作り、2003年には581キロを出して、世界記録を更新しました。リニア中央新幹線が東京―大阪間で開業すれば、同区間を1時間で結ぶことになるそうです。すごいですね!!
全線の建設費が8~10兆円と言われる資金の調達など、課題は数多くありますが、夢の乗り物「リニア中央新幹線」開業が待ち遠しいです。

http://www.minamishinshu.co.jp/news2007/4/28n1.htm
http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20070426AT1C2600F26042007.html
http://www.sankei.co.jp/keizai/sangyo/070426/sng070426005.htm

(信)

日本の記念すべき日 其の十五 5月27日 日本海海戦 連合艦隊、露バルチック艦隊を撃破

2007-05-27 00:18:53 | Weblog
◎世界に誇る「トーゴー・ターン」 丁字戦法で大勝利を上げる
 (明治38年:1905年)

1904年(明治37年)2月に日露戦争が勃発。日本軍は強力なロシア軍に苦戦を強いられましたが、陸の戦いでは1905年(明治38年)1月に旅順要塞を攻略、3月には奉天を占領し、戦局を優位に進めていました。
一方、ロシア海軍は当時、日本海軍の3倍近い艦隊を保有しており、それが黒海、バルト海、極東の3ヶ所に同規模で配備されていました。極東の太平洋艦隊は1904年8月の黄海海戦などで激しく損傷した為、ロシア海軍首脳部は「太平洋艦隊のみでは日本艦隊に対抗できない」と判断。黒海艦隊は黒海の外に出撃出来ない為、バルチック艦隊(バルト海艦隊)を極東に派遣することを決定し、10月15日、第二太平洋艦隊を編成して、リバウ港を出港しました。
スエズ運河経由が近道でしたが、スエズ運河は当時日英同盟を結んでいた英国の支配下にあった為、艦隊の主力はアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、マダガスカルを経由して、ウラジオストクに向かいました。
1905年5月27日、午前4時45分、連合艦隊の哨戒艦「信濃丸」が九州西方海域にてバルチック艦隊を発見し、第一報を「敵艦隊見ユ、456地点、信濃丸」と打電。これを受けた連合艦隊の東郷平八郎司令長官は「直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し。」という有名な一文を大本営に打電し、連合艦隊が出動しました。

午後1時半過ぎ、連合艦隊の主力がバルチック艦隊を確認、戦闘開始命令が出されました。
午後1時55分、両艦隊の距離が12,000mに接近。旗艦三笠がZ旗を掲揚、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号旗でした。

ここから世界の海軍戦史上に残る、敵前大回頭「トーゴー・ターン」が始まります。

午後2時2分、連合艦隊は針路を南西に変更。北東に針路を取るバルチック艦隊とは、平行にすれ違う形で進みました。
午後2時5分。距離8,000m。「取舵一杯」先頭の三笠が突如、東北東に変進。後続も続く。敵前大回頭(丁字戦法)を開始 。
午後2時8分。距離7,000m。バルチック艦隊旗艦「スワロフ」射撃開始。
午後2時10分。距離6,400m。三笠射撃開始。
午後2時20分。連合艦隊全艦、敵前大回頭を完了。

ここで行われた丁字戦法とは、縦列で進む敵艦隊の正面を横切って航路を遮り、敵先頭艦に集中攻撃を行って、順々に撃沈してゆくという戦法です。船隊の形が丁の字になることから「丁字戦法」と呼ばれています。軍艦の砲は横に付いている為、横向きの方が砲撃を敵艦に集中出来ることから、この戦法が考え出されました。
しかし、実際の戦闘で丁字になることは不可能に近く、それを可能としたのは、東郷平八郎司令長官と参謀の秋山真之が編み出した、この「敵前大回頭」でした。

戦闘は翌日の午前11時頃まで続けられ、十度に亘る交戦の末、連合艦隊の圧倒的勝利に終わりました。ロシア艦隊は38隻中21隻が沈没。7隻が拿捕され、ウラジオストク港に到達出来たのは僅か3隻のみでした。一方、連合艦隊は水雷艇3隻の沈没のみという、世界の海戦史上稀に見る大勝利となりました。
この勝利は世界を驚かせ、これを契機にポーツマスでの日露講和会議が実施されることとなりました。
その後、敵前大回頭は「トーゴー・ターン」と呼ばれるようになり、東郷平八郎は英国のホレーショ・ネルソン、米国のジョン・ポール・ジョーンズと共に、世界三大提督と呼ばれ、世界中にその名を知られるようになりました。
(信)

堀江謙一さん 「波浪推進船」で世界初の航海に挑戦

2007-05-25 00:12:20 | Weblog
先月26日、冒険家の堀江謙一さんは記者会見を行い、来年、新たな世界初の航海に挑戦することを発表しました。ハワイから日本までの約6000キロの航海に、波の力だけを動力に進む「波浪推進船(ウエーブパワーボート)」で挑戦するということで、現在建造途中の船を公開しました。
波浪推進船は「マーメイド2号」と名づけられ、福山市の「常石造船カンパニー」で建造されています。船の前方に取り付けられた2つの水中翼が波の上下動を吸収し、ドルフィンキックの要領で前に進むということで、波の方向に係わらず平均時速3ノット(約5.5キロ)で前進出来るそうです。船体はアルミ製で長さ9.5m、幅3.5m。緊急用マストや太陽電池も一応備えていますが、動力は波の力だけです。
船体は7割まで完成し、今月30日に進水式を行う予定です。その後、テスト航海を繰り返した後、来年3月中旬にハワイ・ホノルルを出港、5月下旬に徳島県の蒲生田岬と和歌山県の日ノ御埼を結ぶ紀伊水道にゴールする計画です。
1962年に「マーメイド号」で世界初の単独太平洋横断航海に成功して以来、数々の航海を成功させてきた堀江さん。来年には69歳になりますが、また新たな冒険に挑むとはすごいです。是非成功させて、私たちに活を入れてほしいですね。

http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070426-190147.html
http://www.news24.jp/82717.html
http://www.47news.jp/CN/200704/CN2007042601000616.html

(信)

ウィーン少年合唱団初の日本人団員が凱旋帰国

2007-05-23 00:29:31 | Weblog
先月25日、ウィーン少年合唱団が来日し、現在、全国各地で公演を行っています。 先月27日から始まった日本公演は6月17日まで、東京、大阪、仙台、福岡、広島など全国で33公演が予定されています。
ウィーン少年合唱団は1498年に創設され、ハイドンやシューベルトといった大作曲家が在籍した名門ですが、その五百年余りの歴史上初めて団員となった日本人であるシマダ・カイ君(13)が今回、団員としての初来日を果たしました。
カイ君は同合唱団に4つあるグループの1つ、ブルックナー組に籍を置き、低音域のアルトを担当しています。25日の記者会見では「みんなで日本の歌『ふるさと』を一生懸命練習して、日本語で上手に歌えるようになりました。ぜひ聴きに来て下さい。」とドイツ語で呼びかけました。
カイ君は1994年4月1日、神奈川県生まれ。日本では6歳の頃から教会で歌っていましたが、来日していた少年合唱団のコンサートを聞いて、その歌声に感動し、公演プログラムに掲載されていた連絡先に問い合わせて、3年前にウィーンでオーディションを受け、合格したということです。現在は約百人の団員とともにウィーンで寄宿舎生活を送っています。
初めての日本人団員を受け入れたオイゲン・イエッサー団長も「驚くほど早くウィーンの生活、授業に慣れました」とカイ君に高い評価を与えていましたが、その一方で記者会見では「東京タワーに行きたい」などと子供らしさも見せていました。
「大好きなのはツアーに出ること」と語るカイ君、これから世界の檜舞台での活躍を期待しています。

http://www.sankei.co.jp/culture/enterme/070426/ent070426001.htm
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070425-OHT1T00196.htm
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/49235/

(信)

次世代旅客機 ボーイング787の主翼を初出荷 三菱重工業

2007-05-21 00:22:54 | Weblog
14日、三菱重工業は来年就航する予定の次世代旅客機、米ボーイング社のボーイング「787」の主翼を初出荷しました。主翼は名古屋市の名古屋航空宇宙システム製作所大江工場で製造されていたものです。中部国際空港からボーイング社専用貨物機で空輸された主翼は、ワシントン州エバレット市にある同社工場に運ばれ、7月に1号機が完成する予定です。ボーイング社が主翼の開発・生産を外部企業に委託するのは、これが初めてのことです。
ボーイング「787」は通称「ドリームライナー」。全長57メートル、翼幅60メートル、全高17メートル、座席数210~250席の中型旅客機です。三菱重工を始めとする日本の企業が、全体の35%の製造を担当しています。
主翼は長さ30メートル、幅7メートル。軽量化の為、炭素繊維と樹脂を複合した炭素繊維強化プラスチックを使用し、従来機よりも燃費が約20%向上、整備費が約30%削減されました。第1号機は全日本空輸に納入されることになっています。
戦前の我が国は航空機産業の先進国でしたが、敗戦後の財閥解体等により、航空機産業は事実上無くなってしまい、技術力は世界に大きく遅れを取っていました。しかしここに至って、ようやく我が国の技術力が世界に評価されるようになったことを、とてもうれしく思います。
我が国の技術の粋を集めた主翼を搭載する「787」が、世界の空を飛び回る日が早く来てほしいですね。今から、来年の就航が待ち遠しいです。

http://www.sankei.co.jp/keizai/sangyo/070513/sng070513004.htm
http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20070514AT1D1300G13052007.html
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070513i212.htm

(信)

「世界で最も技術革新度の高い国」は日本 英経済誌調査

2007-05-20 00:24:32 | Weblog
英経済誌エコノミストを出版するエコノミスト・グループの情報部門、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)は16日までにまとめた報告を発表し、世界で最も技術革新度の高い国に日本が選ばれました。2位はスイス、3位は米国でした。
この報告は、2002年から2006年までの5年間の、世界82ヶ国における特許件数や研究開発費、経営者に対する意識調査結果などを集計して算出したものです。
日本が首位になったのは、日本が天然資源に乏しく、技術革新が生命線と考えられていることなどを、EIUは理由として挙げています。
全くEIUの分析の通りだと思います。我が国の生命線である技術力をこれからも維持し、世界のトップであり続けてほしいと思います。

http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2007051700093
http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200705180050a.nwc
http://www.ipnext.jp/news/index.php?id=1391

(信)

日本の記念すべき日 其の十四 5月19日 白井義男 ボクシング世界フライ級王座獲得

2007-05-19 00:45:22 | Weblog
◎ダド・マリノに15回判定勝ち 日本人初のボクシング世界王座獲得
 (昭和27年:1952年)

1952年5月19日、午後8時16分、日本初のボクシング世界タイトルマッチのゴングが鳴りました。場所は後楽園球場の特設リング。リング上に立つのは世界フライ級チャンピオン、米国のダド・マリノと挑戦者の白井義男。集まった観衆は4万人。日本ボクシング史上、未だ破られない世界戦での動員数最高記録です。
試合は接戦となり、お互い15ラウンドを戦い抜きましたが、白井が3-0の判定で勝利。日本人初のボクシング世界チャンピオンが誕生しました。当時、テレビはまだありませんでしたが、ラジオ東京(現TBS)が生中継し、日本中が熱狂に沸き返りました。
当時は現在と違い、ボクシングの世界団体は1つ、階級はフライ級からヘビー級まで全8階級しかなく、つまり世界チャンピオンは8人しかいませんでした。団体が乱立し、多くの階級に分割された現在とは比べ物にならないくらい、ボクシング世界チャンピオンの価値が大きい時代でした。
その3週間前の4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、我が国はようやく独立国に復帰しましたが、まだまだ敗戦の痛手から立ち直っていないこの時期の快挙は、「フジヤマのトビウオ」水泳の古橋広之進の世界新記録連発と共に、私たち日本人に計り知れない勇気を与えてくれました。
(信)

日本の記念すべき日 其の十三 5月17日 間宮海峡を発見

2007-05-17 00:06:12 | Weblog
◎間宮林蔵 世界で初めて樺太が島であることを発見
 (文化6年:1809年)

1775年(1780年説あり)常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)の農家に生まれた間宮林蔵は、近くを流れる小貝川の普請を行っていて、その才能が幕府役人の目に止まり、江戸に出ることになりました。
江戸に出た林蔵は測量と製図を学び、幕府普請工事に従事していましたが、1800年(1799年説あり)に調査の為、蝦夷地に派遣されました。蝦夷地では測量を行う一方、後年、日本地図を完成させた伊能忠敬に測量技術を学びました。
1808年、幕府の命により樺太探検に出発、翌1809年5月17日、世界で初めて樺太が島であることを発見しました。それまで欧米では長い間樺太は半島であると考えられており、複数の探検家が、樺太が半島であるか島であるかを確認しようとして、全て失敗していました。
ドイツ人の医師シーボルトは林蔵の発見を讃えて、著書「ニッポン」の中で発見された海峡を「マニワ・ノ・セト」と書き、「間宮海峡」として世界に伝えました。
林蔵はその後、1822年まで蝦夷地に留まって測量を続けました。林蔵の功績は間宮海峡の発見が最も有名ですが、伊能忠敬の「大日本沿海與地全図」の北海道部分を完成させていることも大きな功績の一つです。
(信)

台湾に尽くした日本人、八田與一氏の生涯がアニメ映画化

2007-05-15 01:19:07 | Weblog
8日、虫プロダクションは、日本統治時代の台湾で水利事業に従事し、東洋一の規模を誇る烏山頭ダムを完成させた日本人技師、八田與一氏の生涯を題材にした長編アニメーション映画を制作することを発表しました。八田氏の65回目の命日に当たる同日、烏山頭ダムで行われた慰霊祭に参列した虫プロダクションの伊藤叡社長が明らかにしました。
台湾のアニメ会社「甲馬」と共同で企画したこの映画のタイトルは「パーテンライ(八田がやってきた)!‐南の島の水ものがたり」。制作費は約1億5000万円で、監督は「鉄腕アトム」「宇宙戦艦ヤマト」などを手掛けた石黒昇氏。日本と台湾の二人の少年の友情を軸に、ダム建設に奮闘する八田氏の姿を描いていきます。
来年夏の劇場公開を目指しており、中国語版も作成して、台湾各地での上映も計画しているそうです。
八田氏は1886年、石川県金沢市生まれ。1910年に台湾に赴任し、それまで干魃の為、不毛の地だった台湾最大の嘉南平野にダムと水路を建設する計画を提案。東洋一の烏山頭ダムと、長さ1万6000キロの水路を合わせた設備「嘉南大シュウ」を1930年に完成させました。そのおかげで、嘉南平野は一大穀倉地帯に変わり、その実績と人柄によって地元の人々から敬愛され、1942年に戦死した氏の慰霊祭が今でも毎年、ダム湖畔で行われています。
日本では残念ながらあまり知られていない八田與一氏ですが、台湾では教科書にも掲載され、台湾のたくさんの人たちから慕われ、尊敬を受けています。アニメ化を機に、日本でも八田氏のことがもっと多くの人たちに知ってもらえたらと思います。

http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070509/chn070509000.htm
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/20070510/20070510_015.shtml
http://www.hokkoku.co.jp/news/HT20070421401.htm

(信)

総理「2050年までに温室効果ガス排出量を半減」サミットで提案へ

2007-05-13 09:16:17 | Weblog
8日、政府は「2050年までに二酸化炭素(CO2)など世界の温室効果ガスの排出量を現在より半減させる」という長期の削減目標を、6月の主要国首脳会議(サミット)に提案する方向で検討していることが明らかとなりました。地球温暖化問題について、我が国が長期の削減目標を提案するのは、今回が初めてとなります。
サミットは6月6~8日にドイツのハイリゲンダムで開催されますが、地球温暖化問題については、京都議定書で定められた削減期間が終了する2012年以降の新たな枠組みづくりに向け、話し合いが持たれることになります。
4日に公表された国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)によりますと、気温上昇が2~3度を超えれば、世界で経済的損失が生じるということです。もし、この目標が実現されれば、世界の気温上昇は2度程度に抑制出来ると言われており、最悪の状況は回避出来ることになります。
これまで温暖化対策に消極的だった米国のブッシュ米大統領も、先月、安部総理が訪米した際の会談で説明を受け、同意しているとのことです。
中国やインドなどが排出量を増やしている現状では、目標達成は厳しいという声もありますが、我が国が何とか世界の国々をリードして、この危機的状況を回避してもらいたいと切に願います。

http://www.mainichi-msn.co.jp/science/env/news/
20070509k0000m010189000c.html
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070508i213.htm
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007050900182

(信)

「世界の革新的な企業25社」に日本からトヨタなど3社が選出

2007-05-12 17:18:44 | Weblog
米国の経済誌「ビジネスウィーク」最新号の特集、今年度の「世界の革新的な企業25社」に、日本からトヨタ自動車、ソニー、ホンダの3社が選出されました。トヨタはハイブリッド車の開発が評価され、ソニーはオンラインゲームのソフト開発、ホンダは燃費効率に優れた車の量産が評価されての選出ということです。
このランキングは時価総額が世界上位1500社の経営幹部に対するアンケート調査の回答と、複数の調査会社による革新企業調査の結果を合わせて選出しています。
トヨタは、昨年の4位から順位を一つ上げ、ベスト3にランクイン。1位にアップル、2位にグーグルという、いずれも今飛ぶ鳥を落とす勢いの企業と肩を並べる評価を得ることが出来ました。また、ソニーも13位から10位に、ホンダも23位から12位に躍進。日本企業は3社とも順位を上げ、その勢いを示しました。番外ではニンテンドーDSやウィーが好調な任天堂が39位に入っています。
正に今の我が国の企業の勢いを表わした結果ですね。これで安心することなく、今後も革新的な技術を生み出して、引き続き世界をリードしていってもらいたいと思います。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070508AT2M0800B08052007.html
http://www.sankei.co.jp/keizai/sangyo/070508/sng070508003.htm
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007050801000040.html

(信)

日本の記念すべき日 其の十二 5月11日 大津事件

2007-05-11 00:22:35 | Weblog
◎ロシア皇太子ニコライ暗殺未遂:日本の司法権独立を世界に示す
 (明治24年:1891年)

1891年5月9日、ロシア皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)を乗せたロシア艦隊は神戸港に入港しました。ニコライはシベリア鉄道の極東地区起工式典に、皇帝の名代として出席するため、艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問。長崎・鹿児島に立ち寄った後、神戸港に到着し、翌日陸路、京都に向かいました。
そして5月11日午後1時半過ぎ、京都から大津に出て、琵琶湖を周遊した帰りに、ニコライを乗せた人力車が大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県警巡査・津田三蔵が、突然サーベルを抜いてニコライに斬りかかりました。幸い津田はすぐに取り押さえられ、ニコライは軽症で済みましたが、頭部右側を斬られ、2ヶ所に傷を負いました。ニコライは、この後東京を訪問する予定をキャンセルして、数日後に日本を離れました。
事件の一報を発生1時間後に受けた明治天皇は直ちに見舞いに行くことを決定。翌日京都入りし、2日後の5月13日、ニコライを見舞いました。国民も天皇陛下に倣い、全国からニコライに寄せられた見舞い電報は1万通を超えたそうです。この迅速な処置や謝罪が攻を奏して、ロシア皇帝も皇太子も寛容な態度を示し、この事件についての賠償は一切要求しない旨、日本政府に伝えました。
一方津田は当初、大津地方裁判所に起訴されましたが、政府が裁判官に対して、天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき旧刑法116条「大逆罪」によって死刑を適用するよう働き掛けた為、大審院(現在の最高裁判所)で審理されることになりました。
旧刑法116条は日本の皇室に対して適用されるものであって、外国の皇族は適用の範囲外であり、法律上は一般人と同じ扱いでした。事件3日前の5月8日に大審院院長に就任したばかりの児島惟謙(こじまこれかた)は、この観点から津田の行為は大逆罪に該当しないと判断して、担当司法官一人一人を説得
しました。そして事件発生から16日後の5月27日、津田に対し、旧刑法292条規定の一般人に対する謀殺未遂罪を適用して無期徒刑(無期懲役)の判決が下されました。
この判決は海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めることになりました。当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受け、当時進行中であった不平等条約改正への弾みとなりました。
(信)

日本の記念すべき日 其の十一 5月9日 日章丸事件

2007-05-09 00:04:39 | Weblog
◎出光佐三氏、禁輸措置中のイラン原油買い付けを強行
 (昭和28年:1953年)

オイルショック以前の中東の石油産出国では、石油メジャー、通称セブン・シスターズと呼ばれる7大石油会社(エクソン・モービル・ガルフ・ソーカル・テキサコ・ロイヤルダッチシェル・ブリティッシュペトロリアム)による石油利権の独占が続いていました。イランでも英国資本の石油会社であるアングロ・イラニアン社(現在のブリティッシュ・ペトロリアム(BP))による独占が続いていましたが、これに反発していたモハメッド・モサデクが1951年4月、首相に就任すると、すぐにこれを国有化して、イラン国営石油公社としました。
これに対し、アングロ・イラニアン社を含むメジャーはイラン原油のボイコットを実施。英国はこの行為を国連安保理事会に提訴するとともに、西側諸国にイラン原油の禁輸を呼び掛けました。この禁輸措置はイラン経済に大きな打撃を与え、国民は不況に苦しむことになりました。
そのような状況下の1953年初頭、石油元売会社 出光興産の創業者である出光佐三は、一つの大きな決断をしました。それは「禁輸措置中のイラン原油を出光が買い付ける」ということでした。当時、英国海軍はペルシャ湾を航行するタンカーの無線を傍受して監視し、イランから石油を積み出そうとするタンカーに対しては、拿捕も辞さないという強硬な姿勢を取っていました。更に、出光は当時タンカーを一隻しか所有しておらず、拿捕されれば会社自体の存亡が危うくなる状態でした。しかし出光佐三はそれを押して、イラン石油を購入することを決定しました。
3月23日、出光興産が所有する唯一のタンカー「日章丸二世」が神戸港を出港しました。行く先は表向きはサウジアラビアということになっていましたが、実はイランのアバダン港でした。このことを知らされていたのは船長と機関長の二人だけだったそうです。
4月11日、日章丸がアバダン港に入港。港に集まったイランの群衆は、日章丸を歓呼して迎えたそうです。そこでガソリン、軽油約2万2千キロリットルを満載した日章丸は他船との交信を一切止め、ひそかにペルシャ湾を出港しました。
インド洋を横断する約1ヶ月間の航海の後、5月9日、日章丸は川崎港に帰港。大勢の人の歓迎を受けました。
この行為に対して、英国は日本政府に厳しく抗議。アングロイラニアン社は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴しましたが、最終的にアングロイラニアン社が提訴を取り下げ、出光側の勝訴が決定しました。
出光佐三が戦勝国イギリスと堂々と渡り合い、勝利したこの出来事は、敗戦で打ちひしがれた私たち日本人を大いに勇気付けると共に、その後のイランとの友好関係を構築するきっかけとなりました。
出光佐三はアングロイラニアン社との裁判の際、東京地裁の裁判長にこう言ったそうです。
「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓い致します。」
(信)

小澤征爾さん、1年半ぶりにウィーン国立歌劇場復帰

2007-05-07 19:32:33 | Weblog
先月29日、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務める小澤征爾さんがリヒャルト・ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の公演を指揮し、同歌劇場への復帰を飾りました。2005年11月に同歌劇場でベルクの歌劇「ヴォツェック」を指揮して以来。1年5ヶ月振りの復帰となりました。
小澤さんは昨年1月に帯状疱疹に罹り、その後の公演をキャンセルして、病気療養に入りました。昨年7月に名古屋市で行われた公演で久し振りにタクトを握り、演奏活動を再開していましたが、拠点であるウィーン国立歌劇場への復帰が今回ようやく実現しました。
休憩のない2時間余りの演目を元気に振り切り、ブランクを感じさせない指揮振りに、カーテンコールで舞台に上がると、聴衆から大きな拍手と「ブラボー」の声がわき起りました。
今月は「さまよえるオランダ人」の公演4回の他、マーラーの交響曲第2番「復活」も指揮する予定だそうで、秋にはチャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」の新演出上演も指揮するとのことです。
小澤さんの同歌劇場での音楽監督の任期は2010年夏までということですが、任期満了まで元気にタクトを振り続けて欲しいですね。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070430i113.htm?from=main1
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070430AT1G3000T30042007.html
http://www.asahi.com/culture/update/0430/TKY200704300241.html

(信)