
戦争の記憶について論稿を書いていた時、高橋哲哉の『記憶のエチカ』戦争・哲学・アウシュヴィッツ、を読んだ。その時はじめてハンナ・アーレントの名前に遭遇した。高橋哲哉の論稿はこの紙面で賞賛されているアーレントの批判を含んでいる。反ユダヤ主義どころか、彼女がシオニストであり、アフリカや中東への認識において欠陥があることを指摘した書である。ただこの本は難しい。あらためてこの書を紐解いて見ると、当時、自分の関心のある部分に腺が引かれていて、アーレントの思想やそれに対する高橋の反論に目があまり向かなかっったのではないかと思える。記憶が焦点だった。残虐な戦争・収容所の記憶の問題がテーマで、わたしはよくその中身に食い込んではなかったのだ。
めくってみるとアーレントのことばが印象的に迫ってくる。「犠牲者の跡形もない消滅が全体主義体制にとって重要だった。絶滅収容所と強制収容所の本当の恐ろしさはテロルによって忘却が強いられること、被収容者が完全に、生者の世界から切り離されることにある」(忘却の穴)である。
「イェサレムのアイヒマン」で≪必ず誰か一人生き残って見てきたことを語るだろう≫という、アーレントの主張から、≪何ものも実際問題として無益ではない≫と彼女が論じたことを、批判している。映画「シンドラのリスト」が対比されて、アウシュヴィッツにおいて破壊されたものをシンドラノリストはなおも存在するふりを続けている。極論すれば、それはアウシュビッツの否定でもある。アウシュビッツにおいて破壊された多くのもの、記憶と物語の古典的空間を、アーレントの記憶論はなおも存在するふりをし続けているのではないか。残酷な収容所を生き残った者たちの証言映像「ショアー」を論じながら、高橋は記憶は死を、忘却は生を意味すると語る。ショアーは絶滅収容所の内部にいた者の証言から、内部は声を持たないと書く。命令に従ったままで行為の実態もすべてが呆然自失の中で時が流れた者の証言はー声の喪失、生の喪失、知の喪失、意識の喪失、真理の喪失、感じる能力の喪失、語る能力の喪失ー喪失の真理によって構成される。喪失が、内部の真理を内部から証言することの不可能性を定義する。
なるほどで、「ショアー」とイスラエル建設の正当化がまた結び付けられる。パレスチナ人とアフリカの闇の問題も指摘される。映像が何をどう映し出しているのか、関心はあるが、高橋の論評はまたアーレントを客観的に見据えた眼差しと言えるのだろう。
わたしが関心を持ったのは「演劇・美・カタルシス」である。演劇はすぐれて政治的な藝術である。
活動=演技中を見られる事としての政治そのものがすでに一種の演劇である。ギリシャ・ポリスは「出現の空間」であるかぎりまさに『一種の劇場』であった。公的空間とは公的舞台であり、政治的空間とは政治的舞台である。俳優=行為者として登場し、演技=パフォーマンスを行い、その妙技を競って観客=観察者の評価を受ける。演劇に由来する多くの政治的隠喩に固有の深い意味合いをアーレントは確信していた。
政治的判断力論は、出来事に巻き込まれず「表象を介して」by means of representation、事態を注視する観客=観察者こそが、芝居spectacleの意味を見出し、その演技を的確に判定=判断することができる、という思想にもとずく。
しかし演劇モデルゆえに、必然的に上演=表象representationの空間を特権化し、それを表象する可能性を根こそぎにされた出来事をまたしても裏切ってしまう。
偉大な活動の記憶は何らかの美を含む。記憶さるべきものは、美がそれに付与されてはじめて世界にその生命を維持することができる。
悲劇の美は政治的判断や記憶ともっとも深い関係を持つ。→現実との和解=悲劇の本質、ヘーゲルによれば、歴史の究極的な目的であるカタルシスは記憶の涙によって生まれる。
もう一度丁寧に読まなければです。
9月議会の10月3日の浜比嘉勇さんの発言はかなり激烈ですね。
貴重な情報、ありがとうございます。透明性がどれだけ公になされているか、ですね。