那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

微笑禅の会ネット会報8・9月合併号

2012年09月22日 | 微笑禅の会ネット会報
私は「微笑禅の会」を主催していて、基本的には毎月HP(左下のブックマークから入って「微笑禅の会」をクリックして下さい)でネット会報を出しています。このところ激務続きで2ヶ月に一度になっていますが、宗教や禅に興味のある方はぜひご覧下さい。

微笑禅の会の特徴を箇条書きします。
①勧誘しない。
②神仏などいない、という前提で自分が行動する。
③歩行禅、寝禅などなど、日常の中で禅を実行する。
④宗教ではない。
などなど。

それで、割と最近「慧可」の思想について、このブログに移行する前に使っていた掲示板に書きました。仏教の基本は、良いことをすれば良い結果が出る、悪い事をすれば悪い結果が現れる、所謂「善因善果」「悪因悪果」です。が、慧可はこれを否定しました。こういう思想にはまだ「我執」「分別」が残っている。良いことをしてもご褒美を期待せず、悪い事をしてもクヨクヨ悩む必要はない、という危険思想です。善悪という区別を否定しているわけですね。

が、これは但し書きが必要で、慧可ぐらいの心境になったうえで、凡夫即仏の徹底的な性善説の上に立てば、こういうことが言えなくはありません。一歩間違えば「野狐禅」になります。つまり、因果律の否定です。危険ですがこれはリアルな見方でもあります。

十牛図の9番目は、我執が綺麗に消えて柳は緑、花は紅、といった一切偏見のない世界が現れます。ピカピカに磨いた鏡のように曇一つなく現実が見える境地です。すると、どうでしょう。今1千万あれば死ななくて済む、という時にお祈りをしたらポンと神仏が1千万を渡してくれるでしょうか。あるいは手術すら不可能な不具者の子供が生まれたとする。神仏にお祈りして治るでしょうか。当然無理ですね。
 ポップな喩えをわざとしましたが、相手が話す前に言おうとしている内容が分かるとか、一つの兆候で全体が分かる、など怖い能力です。俗世間で汚れた心の塵が全て払い落とされて、生まれたばかりの赤ちゃんのような水晶の目に戻る、と言えばいいでしょうか。別の言い方をすれば「王様は裸」と見抜く目ですね。   

普通の宗教者なら、それ自体は不可能でも、その代わりに仕事が舞い込むとか、一家が幸福になるとか、別の形で因果律は成り立っている、というでしょう。それはそうかもしれません。仮に万法(宇宙の全存在)に「善因善果」「悪因悪果」という法則が満ち溢れていれば、の話ですが。

とすれば、この難問を解くためには謂わば多元宇宙論を想定し、自分の意思で決めるしかないでしょう。「善因善果」「悪因悪果」を信じ続ける。あるいはそんなものはないと諦観する。などなど。

慧可の思想はリアルだが非常に危険で、文字通りに受け取ると生きている意味すら見出せなくなります。これには様々な要因があり、個人だけの問題ではなく「悪い事をしたらお天道様が見ているよ」というモラルがある社会と「ばれなきゃ悪い事をしたほうが利口だ」という社会とでは、言葉の意味が違ってくるでしょう。

疲れた頭ながら少しずつ考えていくと、善悪、因果律、自力と他力、などが全て定義不可能な要素があり、大きな悩みと疑いの塊になって身動きが取れなくなります。
 日本はついこの前まで神仏儒の教えの中で大多数の人が「悪い事をしたらお天道様が見ているよ」という倫理観を持っていました。これが崩壊してしまった現在、我々に出来ることは何なのか。私は、例えご褒美がなくても、自分で出来る範囲の陰徳を積む道を選んでいます。が、これは敢えて茨の道を選ぶことになるので人に勧めることは出来ません。今ある幸せを壊さずに静かに生きる、というのも菩薩行でしょう。

寺山修司は「この世に解けない謎はないのか」と言いましたが、謎は解けても人間は白髪一本黒くすることも出来ません。が、生きているうちに日本が蘇る姿を見たいものですね。