那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

微笑禅の会 ネット会報(平成25年5月号)

2013年05月29日 | 微笑禅の会ネット会報

今月は特に忙しくフラフラの状態ですが、そろそろ会報を出す時期なので簡潔に記します。

私の病状は様々な原因が重なっていますが、特に足首から下の麻痺と痛みが激しく、投薬治療だけで治らないので痛いのを我慢して歩くしかない、という、私が否定している苦行、荒行に挑戦中です。坐禅はほぼ毎日していますが、歩行禅は不可能です。微笑禅の会の特徴の一つは、心地いいから坐禅をする、心地いいから歩行禅をする、だから集中できて長く続くという理屈ですから、痛いのを我慢して歩く、では歩行禅になりません。その代わりに尊敬する助言者の方達に教義上の質問を繰り返し本来の意味の「無疑曰信」を実践しています。

①呉竹の歌

最近話題にしている呉竹会とその名称の由来になった頭山夫妻の歌の遣り取りについて、呉竹会の理事長と直接電話でお話させて頂き改めて理解が深まりました。まずその報告から。最近のブログで次のように解釈しました。

私はこの夫婦の歌の応酬の状況を全く知りません。単純に合理的な推理で読む限り、呉竹(ハチク)は葉が繁る細い竹ですから大雪が降れば埋もれ、あるいは折れるかもしれません。その「耐えかねる」景色を見て、「いと懐かしき今朝の面影」「力試し」と感じるのですから、弱いものへの応援、あるいは子供や夫の病気や苦境を心配する奥様の優しい心と知性が読み取れます。

呉竹の雪の重みに
 耐えかねて、
   いと懐かしき
    今朝の面影
     (頭山夫人)

(返句)
  呉竹の力試しや
    今朝の雪
     (頭山満翁)


私の解釈は大雑把には当たっていますが、細かい点を補正します。呉竹(ハチク、唐竹)は一つの節に枝が二つ出るのが特徴で葉が繁り、大きくなると20メートルにも達します。必ずしも細い竹ではないようです。次いで、どうも分からなかった部分が「いと懐かしき」でした。

理事長によれば、この歌は「どうしてもお金が工面できなかったときに奥様が困って夫の満翁に相談したときの歌」だったそうです。口語に直せば「どうしても借金できなかったわ。大雪に埋もれた庭の呉竹のように、また昔のような貧乏ぐらしが続きますね」「苦労をかけるが頑張ろう。雪が積もっても折れそうで折れない呉竹のように今が踏ん張り時だよ」、といった夫婦の会話です。

古来から呉竹の折れ曲がる音で積雪の激しさを知る、といった意味の短歌がありますから、それを踏襲したものでしょう。大アジア主義の理想の下に、日本のみならず朝鮮や中国の革命家たちに資金援助と助言を与えた頭山満は、人格・経済力ともにスケールな大きな人でしたが、こういう苦境の時期を乗り越えて来られたかと思うと切々と胸に響くものがあります。と同時に、奥様は満翁よりも15歳年下ですから、その利発さに感動します。貧乏暮らしの中、困った顔ひとつ見せず「いと懐かしき今朝の面影」とまるで貧困を楽しんでいるかのようで、満翁はこの奥様の存在でどれだけ助かったことでしょう。

②悪の論理について

呉竹会のHPにも引用されている至言を並べます。

 吉田松陰

 「至誠を貫行する為には、個人の修業完成ということが大事であり、 古の聖賢を模範とし、よき師、よき友を得て、自己の徳を磨き才能を伸ばしていく ことが肝要である」

「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」

作家 司馬遼太郎 亡くなる直前の言葉

 「太平洋戦争に負けたという事態よりも、もっと深刻な道徳的、倫理的試練に 立たされていることに国民は気づいてはいない。ここまで闇の世界をつくってしまったら、日本列島という地図の上で 国民は暮らしていくのだろうが、堅牢な社会を築くことは難しいだろう」

二人の言葉を比較すると非常に深刻な人生観の断絶が見えてきます。吉田松陰は「誠を尽くせば誰でも共感する」と言い、司馬遼太郎は「現在は闇社会で倫理観が壊れている。もう遅い」と言うのですから・・・・・。これが「時代のエトスの差」です。以前「悪の論理」という一文で、善が悪と闘ったら絶対に善が負ける、と書き、今後の処方箋についても何度か言及しています。これに関連して非常に面白い文章を見つけました。

http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-13.html

に、「知られざるフリーメーソン」 訳者岸本完司、中公文庫、1990 第三部 インサイド・インフォメーション (164~169 )の引用があります。さらに、(筆者は「スティーブン・ナイト〈1951-1985〉、『Brotherhood,1983)』の中でフリーメーソンを露顕させたかどで殺害された)、と書かれており、単なるトンデモ学説ではなく、余りにも真実を突いているので紹介する次第です。

「組織を敵に回したなら、それと闘うしか勝つ望みはない。しかし闘おうが闘うまいが、ほとんどの人が最後には負けてしまう。つまり、信頼できる人間がいなくなってしまうのだ。いくら訴えてみても、内容が妄想のように聞こえるから、誰にも助けてもらえない。この世がすべて自分への陰謀だと思い込むパラノイア患者だと思われるんだ。奇妙な現象だ。ほとんどの人には妄想としか思えないような状況を仕立て上げて、人の生活を破壊する。抵抗をあきらめれば、被害者は破滅する。しかし抵抗したところで、破滅が少し先に延びるだけだ。闘ってみても、回りの人間が不幸に見舞われるから、家族にさえも背をむけられ、孤立してしまうこともある。家族には背を向けられる、回りには誰も協力者がいない……こういう状況になれば、それこそ連中の思う壺だ。新聞だって、目もくれようとしない。 なにが起きているかは、加害者と被害者しか知らないんだ。そんな犯罪から身を守る手立てはない」 

 私はこのブログの中に「カルトストーカー被害者を救う会」も設けて、色んな人と情報交換しています。いつもアドバイスするのが「客観的証拠を積み上げ、信頼できる仲間に配り、法律の改正を待つこと」です。被害を受けた高知の親友・田辺浩三氏は「気が付いたらジェットコースターに乗せられていた」と言っています。悪の論理を実行する者たちは「事実を語れば被害妄想の精神異常者のようにする」マニュアルを集団で仕掛けてきます。微笑禅の会の皆様や、今の日本に疑問を持って積極的な活動を行い被害に合われた方なら誰もが知っている事実です。さらに、事実を言いたいが言うと妄想と思われる、というのは典型的な「二重拘束」で相当のストレスが掛かります。これもマニュアル通りです。だから、禅を日常化して心を強くし、客観的な目(現実吟味)を培う必要があります。もちろん仲間を多く持つことも必須条件です。

「協力者がいなくなる」、これも体験された方には分かるでしょう。「協力すると被害が及ぶから、悪いけど協力できない」というのは子供のイジメの4重構造の中の「傍観者」の立場です。家族があり生活をする上では仕方の無いことでしょう。私が時々「悟らないほうがいい」と書くのは、その程度の自己保身と幸福は許されるはずで、それをを捨てろ、と強制することは誰にも出来ないからです。

「教育改革」「DV法批判」など書いていますが、こういう問題があらゆる面で蔓延している今の日本の状況が司馬遼太郎の言う「闇の世界」です。その危機意識を持っている、ただそれだけでも世直し運動の実践でしょう。それこそ頭山夫妻のように、戦う夫のために倹約しながら美味しい料理を作る女性は、夫と同じく顕彰されるべき存在だと思います。

③東久邇宮(ひがしくにのみや)記念賞受賞について

私は10代の頃から何故か絡まれ易い個性があるらしく、何かに対して一々弁明するのは人生の無駄ですが、微笑禅の会の会員や親友に誤解を与えるといけないので簡潔に記します。

呆れたことにこの賞を金で買ったという難癖をつけている人がいるとのこと。内訳を書きます。1.受賞した場合、手数料と懇親会費で3万7千円が必要。2.東久邇宮記念会は寄付で成り立っている。3.推薦してくれた人にお礼ぐらいするのは常識。以上は当該HPをよく読めば分かります。私の場合は諦めていた債権が10万ほど(石和温泉で一晩豪遊するのとほぼ同額)入ったので、何に使うのが最も意義があるか考え、受賞を選びました。「ロータス人づくり企画」を実現していくために役立つ、など様々な理由がありましたが、第一は東久邇盛厚殿下を尊敬していたからです。個人的な余談になりますが、記念賞の意義に触れて「自宅のお子様の部屋にも賞状を掲げる事です。この賞状が大きな教育になり、子供の人格形成に大きな影響をもたらします。子供から孫へ。その教育は代々伝えられます。無言の教育になるのです」とHPに解説してあり、会えない子供たちにコピーを送り、記念会に電話して本物かどうか確認するように、と書き添えました。現在子供達がどう考えているかは私の関知するところではありません。父親としての義務を果たしたのみです。

なお記念賞は本来は「発明」に対して与えられていましたが、近年は最も栄誉ある民間賞と言われる「東久邇宮文化褒章」の趣旨と大差無くなっており、私の場合は賞状の文章を見ると、研究指導教育の分野で社会的国際的貢献をした、という趣旨になっています。賞状の文面は毎年変わっていると記念会から直接聞いています。

いずれにしても、それなりの業績がないと受賞対象にはなりません。「東久邇宮記念賞は、学術経験者によって選ばれ、東久邇宮殿下が授けます」と明記してあります。私が受賞した年は全国で約80人が選ばれたとのこと。本来なら親族を集めてお祝いをするそうですが、多忙の中何もしませんでした。

どうしても難癖を付けたい人は自分が受賞して、これこれこういう手口で金で買ったと証明し、同記念会を訴えたら一番スッキリします。ぜひそうして下さい。

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邪教カルトはよく「訴訟テロ」と言われ、敵対者を片っ端から訴訟し、なおかつ集団ストーカー行為により敵対者の人生を破滅させて行きます。しかし、加害者も結局は被害者になるのです。何故なら、邪教にも一応「教義」がある以上、無神論者のチンピラではないのですから、その教義自体に縛られて因果応報の罪が自分に帰ってくる仕組みになっているからです。尤も集団ストーカーなどに組する人間は教義も分からないサイコパスが大半ですが、すでにサイコパスになっていること事態がもっと楽しく創造的な人生を歩めなくなっているのですから、外部から見れば不幸な人々です。

日本がこの暗黒社会から立ち直れるかどうかは日本人の志(こころざし)次第でしょう。特に微笑禅の会の皆様は自己研鑽を怠らず、しかし無理をせず、入会当時の熱意を奮い起こし、「断じて行えば鬼神もこれを避く」の気迫を胸に潜め、日々を楽しく暮してください。

 


片親引き離し症候群を知っていますか?

2013年05月26日 | DV法批判

前回のブログで紹介した「つだみつぐ」様の「ひとつだけやりのこしたこと」を速読した。同時につだ様が米軍基地誘致や原発反対闘争を通して挫折されたことも知った。

「人間は恋と革命のために生まれてきた」と言ったのは太宰治だったと記憶する。私は「一生を革命のために生きる」という部分は理解できるが、なぜそこに「恋」が必要なのか理解できなかった。即興で下手な五行歌にすると、

恋と愛は
両立不可能なのに
恋愛という言葉あり
また一つ
難問を抱える

思春期ならともかく、子供もいる夫婦なら恋は愛に昇華されて空気のような存在になるのが普通だと思っていた。また、恋というのは思春期特有の軽い狂気に過ぎず、ある時代や文化圏では不必要なもの、気晴らしの一つ、程度に考えていた。事実、恋のない文化もある。
 ところが、つだ様の文章を読んでいると、命がけの恋と革命の人生で、多分いまどきの若い人には理解できないのではないか、と思ったりする。バツイチの反省があるにせよ、恋をするのにあれだけのエネルギーと言葉を使って相手を思いやる凄まじさ、また「さとみ」という女性のそれに対する誠実な対応(鈍い女性なら、ウザイ、と感じるかもしれないほどの)、そして失恋という結末。にも関わらずフェミニズムの主張を貫く意思。

とても適わないなぁ、と思う。私は未だに本当の恋愛をしていないのかもしれないし、つだ様が例外なのかもしれない。これは判断不可能な問題だと思う。つだ様は否定されたが、もしかしたら、つだ様なら私の妻と巧く暮せたような気がする。
 別れた妻は突発的に普通では考えられない言動をする女性で、今でも一貫性のあるイメージで把握することが不可能である。専門医に具体的な複数の病名を教えてもらっているが、敢えて記さない。
 一方、私も鬱体質で完全主義(鬱と完全主義は表裏一体で、公務をサボって娯楽ならできる適応障害などありえない)だから、お互い様の面もある。私はこれまでの人生で何度救急車で運ばれたか数え切れないが、倒れた時は危篤か、もう一歩で手遅れ、という状態になっている。我慢強いというより、熱中し過ぎて体の発信している危険サインを無視してしまうのである。

思い出せば、私より酒が強かった妻が、更年期障害の影響と自己分析していたが、突然酒を飲めなくなり、一緒に晩酌する時間が取れなくなった、という実に単純なことで溝が深まっていった。私は怒りすぎた、言い過ぎた、と反省したら晩酌のときに素直に詫びて、高級な香水やピアスなどをプレゼントする程度の優しさは持っているので、妻と晩酌が続いていたら離婚には至っていなかっただろう。人生は実に些細なことで一変するものだと思う。尤も、困難なときに知恵を出し合って夫を支えるタイプの人間ではなかった。つだ様のように、常に気を使い、擁護し、決して小言を言わない人物なら聖女の側面が強く表れた可能性がないではない。

前置きが長くなったが、そういう訳でつだ様の文章を読みながら、思想的には入射角度が逆だが同じような気質の人と出会え、自分を練り上げるきっかけになったことを嬉しく思う。そういえば司馬遼太郎は「人間を決めるのは気質の問題」と断定していた。さて本題に入る。

私はDV法の欠陥や、離婚が子供に与える影響については知り尽くしていると思っていたら、以下のような研究と名称があることを最近になって知った。近年の研究成果なので所論あるが、一般に認定されている部分のみを引用するため途中省略した部分が多いことを予め述べる。wikipediaより、
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片親引き離し症候群(かたおやひきはなししょうこうぐん、英:Parental Alienation Syndrome、略称PAS

両親の離婚別居などの原因により、子供を監護している方の(監護親)が、もう一方の親(非監護親)に対する誹謗中傷悪口などマイナスなイメージを子供に吹き込むことでマインドコントロール洗脳を行い、子供を他方の親から引き離すようし向け、結果として正当な理由もなく片親に会えなくさせている状況を指す。「洗脳虐待」と訳されることもある。

正確な用語表記としてはPA=Parental Alienation(片親疎外)と表記するべきであろう。

児童虐待やDVが、原因となる精神疾患が他に存在するケースにおいても、病理の発現という評価を受けることに鑑みれば、PA自体が精神疾患の基準に該当しないからといってPAという現象を否定することは失当である。諸外国において、離婚後もなぜ共同監護が運用され、双方の親と子の交流が注意深く保護されているのか考えるべきである[14]

日本の現状 

現在、日本の離婚件数は年間約25万件にものぼり、うち約16万組に未成年の子がいる。しかし日本は、先進国の中では唯一離婚後共同親権・離婚後共同監護を認めておらず、離婚に際してどちらか一方の親が親権者となる単独親権制度を採用しているため、子の争奪をめぐって夫婦間で熾烈な争いが演じられるケースが多い。

一方の親による離婚前の連れ去りや、虚偽のDV申し立てなど、手段を選ばない方法が横行しており、このために夫婦間の感情的葛藤がさらに高まることで、PAという形で、何ら罪のない子供が被害を受けるケースが多くなっている現状があり、他の先進国並みに離婚後共同親権の確立を求める声も強い。母性優先の原理に則った裁判所の判断によって父親が子と会えなくなるケースが多いが、連れ去りなどによる場合は現状追認が優先され、母親側が子と会えなくなる場合も少からずある。面接交渉権が認められても、実際にはPAによって監護者側の意図が反映され、子に会えない親、片親に会えない子が数多く存在する。裁判所での子供の意思の確認は15歳未満ではほとんど行われず、15歳以上で行われる場合も、監護側の親の意思により形成された(かもしれない)表面的なものを判断材料とし、多くは現状維持を追認するケースが大半である。親権について親同士の争いがある場合は、家庭裁判所調査官による調査が行われるのが通例であるが、形式的なものが多く、虐待があってもそれが認められることは少ない。したがって、上述のように母性優先の原則に則り、母親側に親権が与えられることが多い。(那田注:ここでいう虐待とは親権を持たない片親に合わせない雰囲気を作ることを指す)

片親引き離しの影響 

片親引き離しは、子供に次のような影響を与える。

片親だけで育てられた子供は、精神的な問題を起こしやすい
片親だけで育てられた子供は、学業成績不良、睡眠障害、抑うつ症状、自殺企図、違法行為、風紀の乱れ、薬物依存などの問題を起こしやすい。バージニア大学のヘザリントン教授は、離婚が子供に及ぼす影響について研究したが、「片親だけで育てられた子供は、精神的トラブルが2倍になる」と述べた。
子供の発達・発育に不利になる
ケンブリッジ大学のMichael Lamb 教授は、「片親と子供の分離が子供に不利にならないようにするためには、時間をうまく配分したとしても、片親と過ごす時間が子供の時間の30~35%以上あることが必要である。」と述べた。
父親の役割を果たせなくなる
父親の役割と、母親の役割は、共通の部分もあるが、異なる部分もある。父親は、子供が成長して迎え入れられる社会について、子供に教え準備をさせる。父親は、子供の独立を促す。また規律、ルール、労働、責任、協力、競争などについて、子供に教える 。母親だけで子供を育てると、特に男の子の教育において、これらの点について訓練や準備が充分には行われず、こうした点が不得意な大人になる。
同居親との関係もうまく行かなくなる
別居や離婚が、子供の思春期以後に起きた場合には、子供から片親が引き離されると、子供は同居親からも精神的に離れて行くことが多い。同居親とあまり話さなくなったり、自室に引きこもったりすることが多くなる。同居親に新しい相手が出来て、性的活動が行われるようになると、この傾向は一層顕著になる。
非同居親を子供から引き離したということは、子供の利益を第一に考えていない顕著な証明である。子供から見れば、最も大切な関係のうちの一つを切られたのである。それにより子供の健全な発育は困難にされたのである。子供は、離婚交渉や仕返しの道具にされたのである。そうした理由により、同居親に対して、全幅の信頼を寄せることは無くなる。
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こういう研究や法律に関して、いつも日本は「先進国の中で例外的に遅れている」と指摘されるのはなぜだろう。
例えば携帯電話は15歳以下は禁止、パチンコは発祥の地韓国では不法行為、タバコより大麻のほうがはるかに健康にいい(依存性も無く、癌の治療になる)、アメリカ、ドイツ、イギリスで、宗教団体が政治活動を行えば、宗教団体としての免税特権を剥奪されてしまう、などなど。

この「片親引き離し症候群」についても、私が関わった医師、弁護士などは、全く知らないか知っていても知識不足だった。とくにフェミ系の弁護士は「子供が別人になったという人がいるが、そんなことはありえない」という人が多い。この研究を原文で読んで勉強しなおして欲しいと思う。
 また日本の場合、精神科や心療内科の医師は薬剤師の役目しか果たしていない場合が多く、フロイトやユングなどの研究を軽視しているが、とっくにユングは「グレートマザー」(大地母神)という元型の存在を指摘し、「母親には子供を慈しむ側面と、飲み込んで殺してしまう怖い面と両方がある」と記している。
 
なお、価値観の違いや本当の肉体的暴力があった場合は、一時的に実家や親戚の家に隠れるのは当たり前のことである。私が強調しているのは既に「別れさせ屋」「洗脳館」と蔑称されているDVシェルターにだけは入ってはいけない、と警告しているに過ぎない。DVシェルターが弁護士ぐるみの離婚産業として経済マフィア化していることは既に常識になっているので、その餌食にならないよう気をつけましょう、というのがDV法批判シリーズの趣意である。

では遅くなったので失礼します。

言葉の力は心の力(つだみつぐ様の作品に触れて):八王子五行歌会より

2013年05月22日 | 八王子五行歌会

まず、西村修平さんの主権回復を目指す会からメルマガが届きました。

第5回名画鑑賞会『赤線地帯』(監督・溝口健二)

巨匠・溝口監督の名作です。ぜひ参加して下さい。詳しくはいつものように左下のブックマークを押して下さい。

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第一回目の八王子五行歌会のネット歌会が無事終わり、月刊「五行歌」の来月号にレポートが掲載されます。この歌会を通して様々な五行歌人と交流が生まれ、実に意義ある催しでした。今度は8月に行います。

歌会で二席になられたのが「つだみつぐ」様の次の歌です(HTML編集のシステム上の問題のため簡略表記します)。

剔出せよ/血にまみれ/晒し者になって/歌を/詠め                                 

私はこの歌を詠んで驚きました。普通の歌と違う強度、迫力に圧倒されたからです。私は長い間「実験映像」の批評を務めてきたので、技術批評、難解な作品の美学的分析・解釈などは慣れています。つだ様の歌はメタ五行歌(歌をテーマにした歌)ですが、ナイフを喉元に突きつけられたような尋常でない何かを感じました。 

そこで、つだ様の許可を得て、作品や小説などをこのブログに掲載することにしました。以下をお読み下さい

 五行歌を作り始めて2ヶ月の頃には五行歌についての連作を作りました。

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連作:歌を詠みたい

うまい
と言われるより
いいね
と言われる
歌を詠みたい

ふるえるこころを
そっと焼き付けて
二つの音叉のように
誰かのこころが
かすかにふるえだす

おんなじかなしみだね
おんなじさびしさだね
おんなじおもいだね
ねえ
生きていこうね

一人で抱えるには
つらすぎるから
分け合おうね
だからね
言葉にしてごらん

生きていくことは
まっすぐ生きていくことは
そんなに簡単じゃないから
ぜんぶひとりで
引き受けなくていいよ

わたしの言葉と
あなたの言葉は
違うけれど
違っているけれど
響き合うから

たった一人でいい
わたしの胸から
あなたの胸に
まっすぐに届く
そんな歌を詠みたい

書くことが
救いであるような
読むことが
癒しであるような
そんな歌を詠みたい

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こういう作品は巧拙を超えているので批評不可能です。歌の通りに心が共鳴するだけで解説は邪魔になります。そこでこのような作品が作れるようになった背景が知りたいと思い、承諾を頂いた上で、つだ様がネットに綴られた小説やエッセーの一部を読ませて頂きました。

このurlを開いてメンバー登録すれば読むことが出来ます。ぜひ全ての文章を読んでください。私も全て読んだら改めて感想を書きます。

http://novelist.jp/member.php?id=35940

この頃、まるで思春期のようにシンクロニシティ(共時性=意味のある偶然の一致)が頻繁に起きます。つだ様はフィクション仕立てで書かれていますが、非常に純粋で理想的な夢に向かって進まれた結果、挫折、離婚の末に決定的な孤独に陥り、自殺を決心したとき、奇跡的に聖女のような女性と出会われ、普通のフェミニズムではない本当の慈悲心からの武士道的なフェミニズムの立場に立たれた、と想像します。私も非常に似た体験をして、反フェミニズムの側に立ちました。しかし、つだ様の主張に共感します。私は自殺願望はゼロですが、危篤に二度なり臨死体験すれすれのところまで行きました。残念なことにまだ聖女と出会っていません。

私は子供たちと今後一生逢えなくても後悔はありません。私は父性愛が強すぎるところがあり(要するに子煩悩=親バカ)、愛情はもちろんお金も、借金までして、可能な限り注いで育てました。後悔するとしたら大事に育てすぎたことぐらいです。一方、妻に対しては非常にアンビバレントな気持ちです。

私のイデオロギーは「イデオロギーに固着しない」というものです。私はつだ様が私の元妻と暮したとして同じ思想を持てるかどうかが気になります。また、私がつだ様のような人柄になったとして心から彼女を愛せるか自問自答します。私が体験しなかったことをつだ様の文章で体験し、自分を練り上げていきたいと思います。

別のシンクロニシティもありました。前回のブログのテーマ、頭山満のエピソードを読んでいて、頭山翁は家人が粗相をしたぐらいで決して怒らなかった、男子が怒るのは天下国家の問題に関するときだけだ、と述べられたそうです。この逸話を読んで、俺はなんて度量の小さな人間だったんだろう、と元妻に詫びたい心が生まれました。ところが、次の歌の存在を知りました。

呉竹の雪の重みに
 耐えかねて
   いと懐かしき
    今朝の面影
     (頭山夫人)


(返句)
  呉竹の力試しや
    今朝の雪
     (頭山満翁)

呉竹会という名称はこの歌の遣り取りから生まれたそうです。偶然同郷の五行歌の歌人の方おられ、深い縁があったことを教えて頂きました。こんな賢夫人なら私だって叱りません。偉人の陰には必ず良妻賢母がいます。私は、これで反省することを反省しました。

私はこの夫婦の歌の応酬の状況を全く知りません。単純に合理的な推理で読む限り、呉竹(ハチク)は葉が繁る細い竹ですから大雪が降れば埋もれ、あるいは折れるかもしれません。その「耐えかねる」景色を見て、「いと懐かしき今朝の面影」「力試し」と感じるのですから、弱いものへの応援、あるいは子供や夫の病気や苦境を心配する奥様の優しい心と知性が読み取れます。

揺れる心が残っている、それが今現在の真実です。

いずれにせよ、つだ様の歌も文章も真心の結晶です。非常に平易な言葉で書かれていますが理路整然としています。私の持論ですが、論理性というのは頭の問題ではありません。真面目で真摯な心があれば、自然に論理的な思考が生まれます。逆に言えば誠実な心がないと論理的な思考が出来なくなります。一番いい例が「仏教の根幹をなす」と言われる縁起説は、「これが有ればあれが有る、これが無ければあれは無い」「これが生まれたらあれが生まれる、これが消えたらあれが消える」・・・たったこれだけのことです。これを理解するために膨大な理論書が生まれましたが、もとにあるのはごく当たり前の屈折しない純粋な心だけです。

人生は一生書生、人は皆教師、このことをつだ様との出会いで改めて知りました。

 


呉竹会を紹介します

2013年05月19日 | 世直しのためにどうすべきか

ブックマークに「呉竹会・アジアフォーラム」を加えました。

これは大アジア主義のシンボルといっていい頭山満の顕彰会であると同時に時事問題に関しても議論・情報を発信する組織です。

私は①思想が100%同じ人間も組織もある筈が無い、しかし②山頂が同じなら大同団結して登攀しよう、③思想は常に柔軟に、イデオロギー化しないこと、④声無き大多数の良心を信じ、⑤人それぞれの立場で世直し運動が出来る(政治家、宗教家、芸術家のみならず主婦、子供、サラリーマン、自営業者、国民の全てが主人公である)

という対立点より共通点を重視する立場です。この点から呉竹会は、文章を見る限りでは、久々に胸に響くものがありました。読者の皆さんにぜひブックマークを押して頂くことをお願いすると同時に、頭山満の思想の一端を引用します。

http://www.kuretakekai.jp/touyama_spirit/index.htmlより

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東洋のルソーと呼ばれた自由民権運動家の中江兆民は、頭山満翁のことを「一年有半」という著書の中で、「頭山満君、大人長者の風あり、かつ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君有るのみ、君言わずしてしかし知れり、けだし機知を朴実に寓する者といふべし」と評しています。

中江兆民と頭山翁が民権派の集会で出会ってすぐに意気投合し、三日三晩も飲み明かしていたという事実を聞くと、いくらか<違和感>を感じられる方もおられるかもしれません。

でも、それは戦後の左翼、右翼というステレオタイプの決め付け方が邪魔をしているせいでしょう。 とりわけ「玄洋社」の前身としてあった「向陽社」は当時の板垣退助が設立した「立志社」に匹敵する、いや一時期はそれ以上の「自由民権運動」の政社であったのであり、植木枝盛と頭山翁の交友も含めて、「権力におもねらない在野精神」はなんと、大杉栄や伊藤野枝にさえも資金援助をしていた事実にまで繋がり、実に新鮮な驚きをわれわれに与えてくれます。

民権主義か国権主義かという二者選択的な視座では、全ての日本人が国家の未来を真摯に考え模索していたという「ナショナリスト」であった時代の空気を確実に捉えきれないとしかいいようがありません。

そうした、戦後の「冷戦構造的思考」から脱却して、「明治日本」の息吹に同化しながら、あらためて「頭山満と玄洋社」にまなざしを向けてみると、今日の政治家が失ってしまっている「名利を捨て公に尽くす気概」というものをひしひしと感受することが出来るのです。

呉竹会・アジアフォーラムは、そうした「頭山精神の顕彰」という作業を一つの課題として掲げています。そのことは、そのまま「近代日本史の正視」というもう一つの課題に繋がり、さらに、三つ目の「アジアの中の日本」という、古くて新しい課題の前にわれわれを導くのです。

そして、それらを正しく見据えることこそが、「しなやかな竹の精神」の復権へ向けた志操の練磨 だと考えています。

頭山翁と玄洋社の活動は、決して「右翼や超国家主義」として括ることなどできません。もっと深く「歴史的意義のある存在」だったとわれわれは確信しています。われわれは、ぜひとも、先入観を捨てて先人の足跡を見つめなおしていただきたいと思っています。

最後までご一読くだされれば幸甚です。

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なお、先日紹介した中村天風は頭山満の弟子に当たり、次のようなエピソードが残っています。(「哲人中村天風」より)

 
「北京のある理髪店の二階で、頭山満翁が孫逸仙と会合せられた。哲人(中村天風のこと)もその席におられたが、たまたま下に飴屋が来た。頭山翁は甘いものが好きなので、二階に呼んで、飴の入った重ね箱の中から、『あれがよい』『これがうまそうだ』などと言いながら、物色中‥‥突然その飴屋がピストルを頭山翁につきつけた。
頭山翁は少しも騒がず、煙草をとられた。‥‥孫逸仙がマッチで火をつけた。
頭山翁は、一服深く吸い込んでフーッと突きつけたピストルに煙を吐きかけられた。
飴屋は度肝をぬかれたか、ピストルを落として逃げ出した。すかさず、哲人(天風)は、その腰の辺りを蹴って、階下にけ落とされた。
『このピストルは返してやれ』と翁がいわれるので、下へ降りて行き、気絶している飴屋の腰に、ピストルをつきこみ、『おととい来い』と腰のところを、もう一つ蹴って、二階に上がって行き、『さぞ、驚きなさいましたでしょう』と言ったら、『驚いたって、間に合わぬよ』と、翁は言われた。」
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さて深夜過ぎたので簡単ですがこれで失礼します。
 


 



悟りの世代?教育改革(4)

2013年05月15日 | 世直しのためにどうすべきか

西村修平さんのメルマガ「愚かなり橋下徹大阪市長」が届きました。いつもの様にブックマークをクリックして下さい。

チンコ廃止を求める会 ttp://www.pachinko-abolition.net/ からメルマガが届きました。長い文章ですので左記のurlから更新情報などご覧下さい。

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私は様々なメルマガが読めるように設定しているので50前後のメールが毎日届きます。その一つに、
『三橋貴明の「新」日本経済新聞』があり、この人はアベノミクス推進派ですが、河野・村山談話踏襲、TPP参加などを通して最近安部総理批判に変わってきました。

日本の首相は結局アメリカのイエスマンに成るしかないのでしょうか?忘れられないのが小泉元首相が「ブッッシュポチ」と言われたあのパフォーマンス。ブッシュ大統領の前でエルヴィスのモノマネを晒した姿には愕然としました。

都市伝説の一つですが、そうなるのはアメリカが「人工地震」を起こす技術を持っていてそれで脅かされる、あの東日本大震災もそうだった、という噂がネット上のアチコチに流れています。都市伝説やトンデモ学説は、所詮はトンデモ伝説ですが、中には多少の事実も混じっていると思います。

人工地震でなくてもアメリカの核の傘の下で守られている現状ではそうなるしかないのでしょうか?それはそれ、これはこれ、で堂々と日本の主権を貫く総理が出てこないものかと思います。

前回はイジメが現在どれほど末世的になっているかを取り上げました。ゆとり教育という愚民化政策で育った人たちを「ゆとり世代」というのに対して、今の若者は「悟り世代」というそうです。将来偉い人になりたくない、大企業に入りたくない、食べて生きていければいい、結婚も面倒だ・・・という諦めの心境だそうです。確かに良寛さんも

          焚くほどは風がもてくる落葉かな

と詠んで折角の厚待遇を断っています。しかし、言うまでもなく「悟り世代」とは次元の違う悟りです

私は「動物や幼子は最初から悟っている。十界論の畜生界というのは人間の心を例えたもの」と普段から言っていますが、これも方便として言っているだけで実際は違います。

悟りは自我が芽生えて自己中心的な世界観に囚われた状態から、鍛錬によってその世界観を一旦白紙にして本来の面目(「父母未生以前本来の面目」、父母が生まれる前の私)に気付くこと。さらにその状態から敢えて俗気を纏って実社会に生きること、と私は理解しています。

動物や幼子はこういう屈折した訓練がないまま、ほぼ丸出しの自然状態にあるために、最初から偏った自我によるエゴイスティックな世界観をもっていません。あるいは非常に素朴なバイオプログラミングされただけの可愛いエゴイズムの中にあると言い換えてもいいでしょう。動物や幼子は「働かず繕わず元のままの仏」の状態にあり、結果はそっくりですがプロセスが大きく違うわけです。

同様に「悟り世代」は結果だけは聖人の姿のように見えますが、克己し鍛錬するプロセスがないまま諦観あるいは無力感に留まっている状態です。(ついでに言えば、さきほどから「鍛錬」「訓練」という言葉を使っていますが、これも本当はそうではなく、自我や自意識に囚われ生きているよりも坐禅をするほうがはるかに面白いから続くわけで、刻苦勉励では長持ちしません)

では、悟り世代が続いた末にどうなるのでしょう?当然日本は滅びますね。しかし、敢えて楽観的な立場から見れば、本当の危機感が生まれ、声無き大多数が行動し始める絶好のチャンスのように思えます。

以下、中村天風の言葉です。

万が一将来、わが日本を滅ぼすものありとすれば、それはけっして日本以外の国ではない。日本人それ自身である。

歩譲って、いくら磨いても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなるぜ。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。

人生あまり難しく考えなさんな。暗かったら窓を開けろ、光がさしてくる。


このごろのイジメの深刻さ 教育改革(3)

2013年05月09日 | 世直しのためにどうすべきか

フォントの問題がgooブログ側でなかなか解決しないので、とりあえずhtml編集で設定した、過去の記事との調整は後回しにする。

知り合いの方から「最近の子供は変らしい。反抗期がなくて親にも教員にも反抗せず、イジメだけが陰湿になっている」旨の話を聞いた。

昔作っていたHPで私は「苛められっ子のために」というエッセーを書いたことがあり、自分の体験を交えながら、苛める側は黙っているとかさにかかってくるから、一線を越えたらキレて相手に恐怖感を与える行動を取るべきだ、とかなり過激な具体策を示したことがある。これには「よく言ってくれた」というコメントが幾つか届いた。

最近までよくチャットをやっていて身につまされて分かったのは、大人の中に中学生の常連がいて、彼らは非常に真面目で頭がいいのに苛めにあっており、そのチャットルームが一種の癒しの場になっていた。そこで聞いたのは「臭い、と言われる」「久しぶりに登校したら自分の机にお葬式の花と追悼文が置いてあった」「いつも保健室登校している」「教師に訴えても苛めっ子がの親が教育委員会のお偉方だから黙認状態」などなど、色んな情報を得ることが出来た。

http://www.honyaclub.com/shop/goods/search.aspx?cat_p=00&search=%8C%9F%8D%F5&keyw=%82%A2%82%B6%82%DF&image.x=-803&image.y=-140 で「いじめ」で検索すると4600以上の本が刊行されている。一つのジャンルが出来ていると言えるだろう。

以下は文科省のHPから、その下は検索していてたまたま見つけたのだが2ちゃんねる的なブログの、多分中学生同士の会話である。

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いじめの構造(いじめの4層構造)森田洋司1986年
 
いじめる生徒
観衆(はやしたてたり、おもしろがったりして見ている)
傍観者(見て見ない振りをする)
いじめられる生徒
 いじめの持続や拡大には、いじめる生徒といじめられる生徒以外の「観衆」や「傍観者」の立場にいる生徒が大きく影響している。「観衆」はいじめを積極的に是認し、「傍観者」はいじめを暗黙的に支持しいじめを促進する役割を担っている。

いじめの原因と背景
 
1 児童生徒の問題
対人関係の不得手、表面的な友人関係、欲求不満耐性の欠如、思いやりの欠如、成就感・満足感を得る機会の減少、進学をめぐる競争意識、将来の目標の喪失、など
2 家庭の問題
核家族、少子家庭の増加→人間関係スキルの未熟さ
親の過保護・過干渉→欲求不満耐性の習得不十分
親の価値観の多様化→協調性・思いやりの欠如、規範意識の欠如、など
3 学校の問題
教師のいじめに対する認識不足
教師も生徒も多忙で、お互いの交流が不十分
知識偏重など、価値観が限られていると、差別の構造につながりやすい
生活指導や管理的な締め付けが強いと、集団として異質なものを排除しようとする傾向が生じやすい、など
いじめのサイン
 (参考資料 都教育委員会「いじめ防止のための手引き」狛江市人権尊重推進委員会)
 
1
表情や態度: 沈んだ表情。口をききたがらない。わざとはしゃぐ。ぼんやりした状態でいる。視線を合わせるのを嫌う等。
2
服装: シャツやズボンが破れている。ボタンがとれている。服に靴のあとがついている等。
3
身体: 顔や身体に傷やあざが出来ている。マジックで身体へのいたずら書き。登校時に身体の不調を訴える。顔がむくんでいたり青白い等。
4
行動: ぽつんと一人でいることが多い。急に学習意欲が低下。忘れ物が多くなる。特定のグループと行動するようになる。使い走りをさせられる。プロレスの技を仕掛けられる等。
5
持ち物: 持ち物がしばしば隠される。持ち物に落書きされる。必要以上のお金を持っている等。
6
周囲の様子: 人格を無視したあだ名を付けられる。よくからかわれたり無視されたりする。発言に爆笑が起きる等。

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37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 04:51:53 ID:jKiMN5nB0

勇敢にイジメを止めに入った学級委員長がフルボッコにされてたの思い出した 
そらそうよ
 
39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 04:52:53 ID:Ar89IE+IP
>>37 
止めるんじゃなくて、止めるべき人や止めれる人を読んでくるだけでいいのになwww

45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:03:32 ID:hD6sxBTAO

>>39 
結果的に同じことになるでしょ 
学校のイジメに関しては学生の手に負えないよ 
同い年の複数人が悪意を持って1人を攻撃してるのを止められるわけない 
教師なり保護者なり1ステージ上の人間が介入しなきゃダメだよ
 
46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:04:45 ID:Ar89IE+IP
>>45 
そうだから、委員長が止めるんじゃなくて教職員を読んで来い!っていう意味でした…

48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:08:34 ID:hD6sxBTAO
>>46 
教師呼んできた奴がバレて後でボコボコにされて虐められるよ

53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:15:04 ID:Ar89IE+IP
>>48 
そんなの教師がこってり絞っておけばいい。 
ボコボコにするような気力削ぐように指導あるでしょ。

55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/10 05:19:49 ID:hD6sxBTAO
>>53 
教師にそんなことできるならイジメなんて存在しねぇよ
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社会の閉塞状況を示すなんともやりきれない記述の数々である。匿名の表記が同じなので
http://nyaasokuvip.blog.fc2.com/blog-entry-1584.html の一部だと思うが、ここには次のような書き込みが続いている。
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142: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/03/26(火) 13:21:33.88 ID:ArK701u60

実際問題会社でもいじめは存在するんだし、大人がいじめを辞められないのに 
学校からなぜいじめはなくならないのか、っていうのは正直ry 少なくする努力や気配りはすべきだがな


149: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/03/26(火) 13:25:21.59 ID:vqs18OdN0

いじめ止めようとしたら自分がいじめられる 
それ考えると見て見ぬふりも仕方ない 
加担しないだけマシ 

俺がいじめられてた頃も「逆の立場なら俺も見て見ぬふりするだろうしなー」とか考えて腹立たんかった
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早い話、大人社会を含めて時代のエトスが思い切り保身的になって、長いものには巻かれろ、抵抗しても無駄、という空気が支配しているため「正義感の強い人間が損をする」だから自分は「傍観者になる」「どこが悪いか」という諦めの思想が出来上がっている。
 
そう言えばチャットにも「正義なんて言葉は嫌いだ」という意見がしばしばあり、正義を主張すると「カッコつけ」「偽善的」と絡まれる風潮があるぐらいだから「道徳教育」などというと、右翼か、としか思われないだろう。

こういうエトスの中では、大人は否応無く「狡賢く生きる」ことが要求される。子供が上記のようにイジメの問題について議論するだけまだピュアな部分が残っている証拠と言える。

文科省の分析は正しい部分もあるが(核家族の問題など)、自我心理学的分析が全く無いのが物足りない。
 フロイトとその継承者たちは「性悪説」の立場に立って、人間の無意識には快感原則(欲望のエネルギー)があり、これは、何々したい、という身勝手な叫び。一方、何々してはいけない、何々すべきである、という超自我が半無意識的に存在し、多くの場合は親の教育によって育まれる。この欲望と道徳的規範、また現実社会のルールの間に立って欲望を現実原則に沿うように調停するのが自我の働き・・・大雑把に言えばこのように解説できるだろう。

自我が巧く働いた場合、快感原則は文化的創造などに昇華され社会的評価を得ることが出来るが、超自我が弱ければ犯罪を犯し、強すぎると神経症などを引き起こすことになる。自我は無意識と環境によって、名裁判官、名カウンセラーにもなりうるし、どうしようもない反社会的人格を形成する可能性がある。(今時フロイトは古いかも知れないが、私は唯識論と共に非常に参考になり、尊重している)

こういう事情で、個々の人格形成は良心の基盤となる親の言動や社会の善悪のルール次第でどうにでも変化する。
 例えば戦争状態という時代のエトスの中では「国のために死ぬ、敵を殺す」のが正しい人間と評価されるだろう。逆に平和で一種の徳治政治が行われている社会では善良で正直な人間が評価されるだろう。

戦前の日本人は「神仏儒」の教えが交じり合い「悪いことをしたらお天道様が見てるよ」という暗黙の気風があった。
また、武士道や商人道、職人気質、農民にも二宮尊徳のいう報徳思想などが残っていたが、これらの規範は計画的かつ巧みに壊されてしまった。
 三世代同居が当たり前だった時代では、祖父母が孫たちに生き方と同時に自分の死を看取らせることで「死の現実」「命の尊厳」を教えることが出来たが、核家族社会では「死」はリアリティを持たずビデオやゲームといった架空世界のものとなった。
 悪い意味での男女平等が主張されて父親が権威を失ったために超自我の生まれるエディプスコンプレックスとその克服の環境が希薄になった。子供たちの目線から見れば、父親も教師も反抗する価値さえない下らぬ存在なのである(あくまでも第二反抗期の話)。

このような社会が産み落としたのが「デモシカ先生」(先生にデモなろう、先生にシカなれない)、モンスターペアレント、モンスタースチューデント、そして第二世代のデモシカ先生=モンスターティーチャーの三者が作り上げた「イジメという文化」である。

ではこういう閉塞状態を打ち破る処方箋は?の問題になるが、それまで書いていると夜が明けてしまうし、分かっていれば苦労しない。個別のイジメだけの問題なら答えは単純だが、そういう文化を生んだ時代全体を変えるのは容易ではない。
 確実に言えることは、確信犯的な「悪の論理」に対して純心な「善の論理」では絶対に勝てないという事実である。悪の論理は自分たちの所属している社会が「悪である」ことを自覚した上で平然と虚言を重ね、中傷し、殺人まで犯す。こういう相手に一人で真っ正直に戦おうとすると「勇敢にイジメを止めに入った学級委員長がフルボッコされた」のと同じような結果になる。だから声無き大多数との団結が大前提で、後は「諦めず時を待つ」ことだろう。

微笑禅の会を作り「見性体験記」を記しながら、私が敢えて「大いに執着心は持つべき」と述べているのはここに関わっている。菩薩行を実践しようと思えば何らかの行動を起こすにも、健康、体力、経済力が必要になる。ここを理解せずに無や空ばかり唱えるのは、どこかが根本的に抜けているか歪んでいる証拠であり、現実は少しも変わらない。慈悲と愛語が怒りや批判と同じ箱に入っているように、色即是空と空即是色は表裏一体である。つまり、今、ここで、自分に何が出来るか、を問い続け、負けない闘いを実践すること、これが最も大切なことである。

大乗の修行は、「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす。」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ。(沢木興道師の言葉)
 

教育改革について(2)

2013年05月05日 | 世直しのためにどうすべきか
まだこのブログのフォント、小さくて書きにくいですね。ほとんど勘で書いてる感覚です。後でフォントを大きくすることは出来ますが、書く前にフォント変更が出来ない状態。Gクロームをインストールし直したり復元などすると過去の文章が消えるので、粘り強くgooブログの回答を待っているところです。

西村修平さんのメルマガで、酒井信彦の日本ナショナリズム『シナ侵略主義を跳ね返せ』 『月刊日本』2013年5月号 羅針盤 2013年4月22日
http://sakainobuhiko.com/2013/05/post-225.html#extended が紹介されています。
西村さんの活動の最新記事はいつもの通りブックマークからご覧下さい。「主権回復式典」批判です。朝日新聞にも「天皇、皇后両陛下も出席したが、お言葉はなかった」とあり、西村さんは「天皇、皇后両陛下の表情に笑みの欠片さえ窺えなかった」と書かれています。

私は日本は文化大国・技術大国として世界をリードし、功利主義が支配するアメリカに日本の精神文化を教えると同時に、いい意味での大アジア主義を貫くべきという考えです。自国政府を批判し日本と友好的なアジアの人々と対等な立場で連帯するという伝統的な愛国者の立場で、むしろ何人もの在日中国人から「日本と中国は連帯すべき」と言われました(ついでに台湾の独立も認めてくれるといいのですが)。
 突拍子も無い話をすれば、現実味は無いにしても「自共連立政権」が出来たら最強なのに、と空想します。理由は単純で、自民党は最も手強い相手と組むことで嫌でも自浄作用(他浄作用?)が働くと同時に共産党も批判専門野党の立場を超克せざるを得ず、統制経済と自由主義経済が巧く融和されるからです。ちなみに「共産党」というネーミングを変えたら支持率が上がるし自分も投票するのに・・・という声をしばしば聞きます。
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さて、前回の続きです。文科省のHPを見ていたらhttp://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/kaikaku/main4_a1.htm 平成14年から義務教育では完全週休五日制になったようです。心配する父兄の質問に対する文科省の答えは以下の通り。

と書いてコピペしたら、なんと文字と文字の間隔もデタラメな設定になっているので(google日本支社はGWで慰安旅行かな?)簡潔にまとめると土日は体験学習で図書館、博物館、公園等々に行きなさい、との通達です。
 待てよ、と言いたいですね。東大卒業生が中心を占める文科省の官僚自身は土日はガリベン君だった筈。私の同級生もそうでした。体験学習は社会人になれば嫌でも出来るのだから、義務教育の時ぐらいはきっちり学校に通わすのがスジでしょう。これは教員に休みを与えたいのか、愚民化教育を進めたいのか、どう考えても不自然です。体験学習が義務でない以上、小中学生は結局ゲームに夢中になり、難関校を目指す子供たちは塾に行くに決まっていますよね。これも以前、ある教員に質問したら「休日を増やしてスケジュール通りに授業を進めるのは無理。我々も困っている。どうにかならないか」という答えでした。

時短ですら、最初は経営の神様・松下幸之助が試みて成功した制度のようですが、これを逆手にとって「日本人は働きすぎ」と外圧が掛かり、役所と銀行が真っ先にそれを取り入れました。普通の人が役所や銀行に行けるのは土日に決まっているのに何をやっているのかと思います。昔から私は役所民営化論者でした。ドイツのようにボランティア精神が強い人を募り、月収15万程度で厳しい規律を残したまま、交代制で土日も休まず仕事をすればどんなに市民が助かることでしょう。銀行はさらに3時閉店です。倒産するところを血税で助かったことを忘れたのでしょうか?お金やそれに纏わる手続きが動けば動くほど経済は活性化するので、お金が動くのが余程嫌なのか、と思ってしまいます。さらに宗教法人の優遇税制を撤廃すれば消費税を上げる必要はゼロどころかお釣が来る筈です。

大学教育も同じです。
 私が非常勤講師だったとき、学生から「○○先生の授業が面白くない。ノートを読んでブツブツ独り言を言っているだけ」等々の不満をよく聞きました。それは大学教員が「教授法(教え方)」を知らないからです。これは圧倒的に予備校講師のほうが上手です。というのは人気がないと直ぐにクビになるからです。それを指摘したら「私はアカデミシャンだからそんなことはどうでもいい」と開き直った同僚がいた程です。
 要するに親方日の丸と瓜二つの精神構造になって高給と身分保障の上に胡坐をかいているわけですね。「先生と言われるほどのバカで無し」という川柳があります。私はさらに「教授教授と威張るな教授。教授オタクの成れの果て」というザレ歌をHPに書いたら、在日米人の研究者が共感して自分のサイトに引用していました。今でも残っているかもしれません。

あるエピソードを語ります(自慢話です)。私の授業は確か3年目で50人教室から200人教室に移動になって伝説の授業と先輩から後輩に語り継がれました。大学に自分の提案を出したところ拒否されたので「バカらしいから退職する」と宣言したら「辞めないで欲しい」という声が圧倒的でした。今でも学生が書いたレポートや私信をダンボール1箱分ぐらい証拠保存しています。
 また「とにかく学生の映像作品がコンテストに受かるように組織的に支援することが一番大切。そうすれば大学の人気も学生のモチベーションも高まる」という提案に対しても「大学はそういう場所じゃないから」等々、誰も賛同しなかったのに、今見るとそれを売りにしています。これには唖然としました。

もう一つ舞台裏を話します。私の専門は映画研究でしたから具体的にいうと大抵の大学教員は「映画研究者や映画関係のプロは、学生100人いたとして一人出れば大成功」と考えています。事実私は耳にしました。すると残りの99人は授業料をドブに捨てているわけですね。教員から言えばいいカモに過ぎません。私はそうならないように授業を工夫して、映画論のポイントだけはきちんと抑えながら、意図的に総合文化論に変えていました。まず冗談で始まり、名曲を聞かせて解説し、本論に入り、時々脱線しながら別の話題に変えるなど、その技術は中学高校生を教える塾を経営していたときに自然と身につけました。

今の早稲田はダメになった、という話は前にも書きました。その原因の第一は時代のエトスの変化ですが、もう一つはハエヌキでない国立大学の教員が増えたためだと分析しています。早稲田の良さは

①同じ大学を出た先輩が後輩を指導する親身さと名物教授が何人もいたこと。
②地方出身の秀才が集まって、よく遊びよく学びながら、学生同士で切磋琢磨したこと。
 
の二点に要約できると思います。さらに、私が入学したときの早大第一文学部は43倍でほとんどが一発勝負でした。合格発表の掲示を見に行ったら最初の100番まで全員不合格だったことを覚えています。ところが少子化で倍率が落ちたのは仕方ないとしても、付属校(小学中学まで作ろうとしている)の裾野を広げ、一芸入試など所謂AO入試が広がったために①も②も実質的に消えようとしていています。これでは早稲田の魅力がなくなり慶応と同じになってしまいます。

長くなるので名物教授の思い出は別途書くことにして、私が提案する教育改革は

大学を株式会社にして正教員は一定以上の株主になることを義務付けるです。

大学が倒産するときは共倒れになるという危機感が芽生えたらもう少し工夫をするでしょう。ではこれで失礼します。